春眠 | ナノ

15

◆SIDE:白乃

そして、遠い日の残照を思い起こすような。あるいは、眩しいものを見るようなあえかな所作でシャノンは瞳を伏せた。

彼女が口を閉ざすと、この迷宮は耳に痛いほどの静寂に覆われていることに気が付く。
この迷宮において、心を乱すすべての音はこの降り積もる雪/花弁に隠されるのだ。

「―――ねえ、どうしても、……だめ?」


雪/花弁に音さえも溶かされる、静寂の迷宮。無音の世界。その静寂を迷宮の主の声が引き裂く。
零されたのは、心から請うような声。

祈るような、謳うような、私を引き留めるように鳴らされる鈴の様な声色。潮騒のように押しては引くような、密やかでいて、強く引き留める声。それが、ただひたすらに私たちを案じていると伝えてくる。

だが、それだけには絶対に頷けない。
この答えだけは、私が私である以上変えることはできないのだ。
ここで、私たちが裏に留まれば、それだけ凛やラニ、レオたちが助かる確率は高くなることは理解している。元より勝者の椅子は一つしかないのだ。だがそれでも、この願いが間違ったものだとは思わない。そう、たとえ、独りよがりなものだとしても、私たちは歩みを止めたくないのだ。そう、視線に決して曲げられない決意を込めて、シャノンを再度見つめた。


――――――だが、その決意は、
帳を上げるようにそっと開かれた、シャノンの瞳の前に呆気なく砕け散った。



薄絹の向こうから垣間見えるような、長い睫毛に彩られた濃紺の瞳。朝焼けの前の星空の色をしたそれが、痛ましいものを見るように歪められている。誰よりも私を愛おしむように、その瞳は深く、それでいて哀しげに私を絡め取る。

その目を見ているだけで、胸がきりきりと締め付けられるように痛み、彼女を悲しませている自分が許せなくなるようだ。そう、こんな答えを返してしまった自分が愚かでたまらなく思え、直ぐにでも頷いてしまいたくさえなる。


いや、……頷かなくてはならない。
この申し出をすぐに受けるのだ。
そうすることで、私たちも、そしてレオたちも救われるのだから。
なら、どうして拒絶する必要があるだろうか。

そう―――――楽、…園を閉じるなん、てことは、許さ、れることで、はない。だって―――――この、微睡、は、…私た、ちの―――ため、に………


『白乃!俺の声が聞こえるか、白乃!!おい、何とかしろよ、アーチャー!!』
「マスター!正気に戻れ!!―――貴様…その冥府の囀りを今すぐ止めるがいい!」
「っと、俺を忘れてもらっちゃあ困るぜ、優男。ここは通さねえよ」

アーチャーの声も、片割れの声も霧の向こうから聞こえるように遠い。そう、アーチャーこそ、何を彼女に、口、答えしてい、るのだろ、う。
そうして、わずらわしい騒音から逃げるように、微睡に身をゆだねようとした瞬間――――


『外部からの精神操作系のウイルス混入を確認したわ。
ラニ、ブロックしている間に解析お願い!』
『はい、―――周囲に設けられた音声を介する術式を基礎に、網膜を通じた強制・魅了の術式と解明しました。特殊エフェクト、解除します』

叩きつけるような電子音とともに、頭にかかっていた霧が晴れていく。
って、私は今、一体に何を考えていたのだろうか。

『って、なにしてんのよ白乃!しっかりなさい!』
『ミス・トオサカ、彼女は精神に干渉する術式にかかっていたのですから、その論理の展開は理解不能です』
『わ、わかっているわよ!でも、…その、精神に干渉されたんだからこそ、根性論を持ち出したっていいじゃない!』
『あははは、なかなかに面白い意見ですね。ですが、それもまた真理でしょう。白乃さん、聞こえましたね、こんなところで脱落してもらっては困ります。僕らは一蓮托生、全員でこそ表側に戻らなくてはならない、それが約束だったではないですか』

その言葉に、心が震える。

『白乃、その誘惑はまあ確かに魅力的だが、踏みとどまれよ。だって、その馬鹿みたいな強情さだけが俺たちの取り柄だろ』

その声に、自分が一人ではなかったことを思い出す。

そうだ、私は知っている。
譲れない信念のために、殺し合う関係でありながらも、己の目的のためだけではなく、こんな私たちだからこそ、心から信じてくれた人がいたことを。
そして、他でもないこんな私を導いてくれた彼を。
なら、こんなところで負けられない。
こんな泥濘のような安息を、受け入れる事なんてできない。
立ち止まってなんかいられない――――!



その決意をもって、彼女を見つめる眸に力を込めた瞬間、左手が疼いた。
この反応、SG!?
だがSGは名称が明らかにならなければ、形にならないもの。
なら後は、SGの名称を明らかにすれば――――


「もうばれてしまったの。本当に優秀なのね、彼女たち。あんなに厳しい記憶を取り戻したっていうのに―――――本当に、貴方たちって……」

こちらを見るシャノンはこちらを見ていながらも、私を見ていないかのようなどこか遠い眼をして、ぽつりと寂しげに呟いた。
それが、ひどく印象的だと思った瞬間

「仕方がない、か」

すっと、花に触れるような密やかなしぐさで、優雅に細い指を動かすのが見えた。
瞬間、全身に襲いかかってくる、叩きつけるような突風。
急いで、足を踏ん張ろうとするものの、その場に押しとどまること、それすらもできそうにない。


「なら、出直してらっしゃいな。貴女では私に触れることはできないもの。でも、白野くんなら別」

ごうごうと耳元で唸る風の隙間から、シャノンの声が聞こえてくる。
風音以外のすべてを遮られ、目も開けていられない。
そんな中、彼女の声だけが、この突風の影響を受けずに直接頭蓋に響くようだ。
風を腕で遮りながら、必死で顔を上げて

――――背筋が凍った。

殺される。
絶対に殺される。
白野を……決してここに連れてきてはならない。
私はわずかな記憶の中でも、多くの敵と対峙してきた。そんな彼らから感じたものは、立場上そうせざるを得ないがゆえの敵意ばかりだった。

だが、彼女のそれは違う。
その目には――――単純に長く重く、心の裡で熟成された感情に満ちていた。

シャノンの瞳には何の術式も付与されていない。
それらの精神に関与してくる術式はすべて、デリートされた。
だというのに、目の前の女がどれくらいの殺意を抱いているのか、こんなにもはっきりと感じ取るなんて――――


「――――だって、私が手ずから下すのだから。ええ……最後の時になら、私に触れることもできるはずよ」

敵意に濡れて、電子的な赤い光をちらつかせた濃紺の瞳が、ゆっくりと歪められる。
密やかに、月を焦がすような情熱、情理を覆すような愛、恋に揺れる熱がこもった声。
まるで、愛しいものを抱きしめるように、彼女はそう言った。


「ほう、ならば私が相手では、いかがかな!」

絶対的な殺害宣言を聞いて、呆然とする私の背後から、アーチャーが颯爽と飛び出る。
彼女が転移する、あるいはこちらが迷宮の外に押しやられる前に、彼女を押しとどめるつもりなのだろう。

それを迎撃せんと、緑衣のアーチャーが身構えるが、それをシャノンが手で押しとどめて、……なんでもないように一歩踏み出し、た?なっ、どうして?

シャノンは静かな眸で走り寄るアーチャーを見据え、招き入れるようにすっと手を宙に走らせ


――――瞬きの刹那。
今まで何一つ握りしめていなかった、その白い手には――――光を呑むほど貪欲な、黒い剣が握りしめられていた。

そこにあるのは。飾り気の少ない、黒い刀身。
だが――――何だあの剣は
周囲を構成する霊子が…歪んでいる?
見ているだけで、こちらの平衡感覚まで歪まされる。
そんな錯覚すら覚えそうな、すべてを吸い込む黒色。

「言ったでしょう、触れられないと――――貴方の纏う、神秘程度では」


そう、彼女の手に握られた黒色の刃は、周囲を歪ませるほどの質量を持った魔剣だった。
同時に、直感のように理解した。
そう、この剣の前では、アーチャーは勝てないのだと。

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