たわいも無い話から入手した情報でチケットを購入したまでは、良かった。握りに握り続けてよれたチケットを見たのは何度目のことか、おまけに手汗で湿っている。見れば見るほど不恰好でなんともカッコ悪いことだけれど。アイロンでもかけてみるか。それこそあの時は戸惑いもなく、一心に染谷のことだけを考えて買ったチケットが使い物にならなくなりそうだけれど。
 アクション映画でもホラー映画でもなく、染谷が選んだのは甘ったるいようなラブロマンス。そーいうの好きなんだ、って笑って流した情報を一々覚えてしまったのはどうしようもなく大好きな彼女の言葉だったからだ。何も考えず、つい何時もようにからかったら「あなたはR-18が付いてたほうがいいものね」なんて軽蔑染みた冷たい目で言われてしまう手前、これをどう染谷に伝えればいいのかさえ分からずじまいで。
 あぁ、おつむとタイミングが少し悪いだけ。おっちょこちょいなのよ、てへ。ちろりと舌を出しても同室の方は反応してくれなかった。これでは本当に頭がおかしい人ではないか。

 覚えていたけど、忘れてはいなかったけれど、いざ購入した時は、それを購入するべく出掛けたわけではない。たまたま大々的に宣伝する大きな看板を見て、思い出す。思い出して、衝動的に突発的に、そう、チケットを二枚。染谷に約束を取り付けたわけじゃないのに、後ほどどうしもなく悩むことになることも考えないで勝手に購入した。これなら四枚買って夕歩と綾那を誘ってから染谷を誘った方がどうにでもなった気がする。
 どうも、あたしの心を奪った、夢中になった、アツアツな彼女のことになると単純な思考が先走ってしまう節がある。用意周到、準備には定評のある久我順ちゃんともあろう者が、些か急を要し過ぎた。
 思えば二人で外出したことはないじゃないか。学園内で時折、二人っきりになるのとわけが違う。意図しての外出なんてデートと一緒だ。染谷はそう思わなくても、少なからずあたしはそう思っている。寧ろデートがいいって思ってる。デートじゃなきゃ、嫌だって思ってる。だから購入する時迷わずチケットを二枚買ったんだ。肝心の誘い方も考えていないっていうのに。

 「おい、さっきっから何ウロウロしてんだ。邪魔だ、気が散る」
 ついに猛獣が牙を剥き出しに、咎める声があたしの足を止める。止めた場所が悪かったらしい、背後から甲高い可愛らしい声が悲しみを含んで「なんでそんなこと言うの」「わかった、もういい」なんて聴こえてきた。背後はテレビだっていうのに。
「おまえが邪魔するから泣かしただろうがっ!!!」
「いやいや、さっきから泣いてたよ、この人」
「トドメ刺したのお前だろうが!!!」
 目の前からコントローラーが飛んで来て咄嗟に避ける。テレビに当たって余計に綾那のレンズ越しの目が吊り上がった。
「避けるなっ!テレビは繊細なんだぞ!!」
「誰だって向かってくる物は避けるよ!?繊細なテレビが向こう側にあるのに投げたの綾那さんでしょ!?」
 立ち上がってしまった猛獣に怖気ずく。仁王立ちの綾那の背後から見えない筈の湯気が立ち昇っている。あぁ、死ぬ…。まだ死にたくない。染谷とデートしたいのに。これが試練というなら受け止めよう。ーーっちょ、
「待ってっ!!釘バッドフルスイングは無理だってっ!!!さすがに天使が舞い降りちゃうよ!?」

 「天使が舞い降りればいいな」そう言ってまさかのフルスイング。屈んで避けて必死の反論、も虚しく。
「あぁ、そうか。天使なら大歓迎だな。本望だな。天に召されろ」
「待って待ってーーっ、」
 避けたことが気に入らない綾那がもう一度、今度は上から下へと大根切りの如く振り被るもんだから咄嗟に目を瞑って心許ない両腕を頭上に挙げる。
「なんだ、これ?」
 手からこぼれ落ちた二枚のチケットは、くしゃくしゃに丸まった状態で床に落ちたらしい。綾那の声に目を開くと丸まった紙を広げていた。

「映画の、チケット?」
「うわぁぁーー!!」
 慌てて綾那の手からチケットを奪う。地面に落ちたもう一枚のチケットも忘れず、無造作にポケットの中に突っ込んだ。
 見られた。見られて困ることでもないけれど、綾那に見られるのは何処か恥ずかしい。部屋をウロウロして躊躇しながら悩む今までの行動もあればなおさら。

 黙り込んであたしを見る目が斜め上に泳がされ、何かを思いついたように綾那はもう一度、あたしを見て呟く。

「ぁあ、ゆかりか」
「ちがっ、……くはないけど、」
「惚気か」
「それは違う!!惚気られるなら惚気たいけど、今は違う!」
「はやく行けばいいだろ。部屋でバカなことしてないで、それ今日まででしょうが」
 何時もは疎い綾那が目敏くあの短時間で日にちを確認しているとは思わなかった。あたしは口を閉ざす。狼狽える目線を左右に揺らして地面を見てから暫く、綾那はそんなあたしの様子に小さく溜息を吐いた。

「そういえば今日、ゆかりが暇だから午前中は部屋の掃除でもするって言ってたっけなぁー。もう今頃は終わってんじゃないか」
 独り言だと言わんばかりにそう残してコントローラーを握ってしまった綾那はそれっきり画面に釘付けになってしまった。
 本当に残された。置いてけぼりにされてしまった。はやく行け、と無言で訴える。現実はゲームじゃないんだけど。そんな一つのボタンで全てを済ませてしまう、そんな単純なことじゃないけれど。
「ポップコーン。塩味ね」
 勇気を出すには、そんな些細な一押しで十分だった。



 何時ものように軽口で誘えば良かったのに、それができなかった。怖気づいてしまった。緊張してしまった。夕歩にヘタレだと言われたことがあるけど、まさに夕歩の言う通りだった。たった一言が言えずに時間だけを浪費して柄にもなく臆病風に吹かれるときはきまって染谷のことだ。好きだと伝えたあの日によく似ている。そういえば、あのときも背を押されたのだ。とてもとても自慢できることではない。むしろ、はやく自分一人で染谷にたくさんのことを伝えなければならないのだろう。きっと、これから手をとって歩むにはそれぐらいしなければ何も始まらないではないか。
 手と足が一緒に出てしまうほど緊張している。こんなにも震えた手を掲げて軽く握る。すこしだけ躊躇して、ポケットの中のチケットを指先でなぞり確かめてから唇を強く噤んだ。
 だらしないノック音。あたしのようだ。
 「はい」と扉越しの声は染谷のものだった。たったそれだけで身体が硬直するのが笑えてしまうほどおかしかった。
 まずなんて言おうか。おいおい、考えておきなさいよ。咎めながら数秒待つとがちゃりとドアノブが回ってしまった。

「…順?どうしたの?」
 うわ、可愛いっ。

 恋してしまった相手はとことん可愛く見えると言うけれど、恋をしていない第三者からしても染谷は可愛い。強くて綺麗で、そんな染谷を目の前に当のあたしの心臓は染谷に届いてしまうんじゃないかというほど煩く鳴り響いていた。
 来て早々、黙り込んだままのあたしを怪訝そうに見ている染谷に悪いと思う。けれど前のように「用がないんなら来ないで」なんて辛辣な言葉はなく、そのまま待ってくれている。
 そもそも、初心なのだから、ちぐはぐでいいから頑張るべきなのだ。
「えっと、その…」
 プルプル震える肩は不憫だろう。凍えた犬かなんかか。顔は真っ赤な気がする。だってこんなにも熱い。既に左手はチケットを握ってまだかまだかとその出番を待っているのに。
 意を決する。
「あのっ」と顔を上げると染谷がフッと笑った。
「ゆっくりでいいわよ」
 付き合ってわかったことがある。染谷は優しい。厳しさにも優しさがあって、それでもきまってあたしが頑張っている時は見守ってくれるから。
 なんとなく泣きたくなった。不甲斐なさとか、情けなさとか、染谷があたしに合わせくれる優しさだとか。いろいろ、ごちゃまぜになりそうになりながら、ゆっくりチケットを差し出した。
「…これ!!」
「染谷っ!あたしと、あたしと映画を観に行きませんか?」
 なんで敬語なんだ。突き出したくしゃくしゃのチケットを見ながらそう思った。
 目を丸くした染谷が嬉しそうに頬を綻ばせるとあんなに力が入っていた身体がすっと緩くなるのが分かる。
 あ、と間抜けな顔をしていたんだろう。空っぽになった手がゆっくり降ろされた瞬間、「なんて顔してるのよ」と笑った。
「いいわよ。いつなの?」
「えっと、今日…」
「今日!?なんでもっとはやく誘ってくれなかったの!はやく支度して行きましょう」
「あ、はい。」

 拍子抜けしたというか、なんというか。そもそも、そこまで大イベントでもなかったのだろう。今更、それに気付いても今までの気苦労が無くなるわけでもない。それでもいい。それでも良かった。震えていた手も、肩も。緊張でガチガチになって足だって、きちんと自分のものだ。押されてしまった背が今度は自分の力で押せるよう、そのための一歩だ。たった一歩はあたしにとってたいした一歩だった。だから良かった。染谷の嬉しそうな顔が見れて。笑った顔が見れて。

「順、行きましょう」

 今度はあたしから手をとってみせるから。笑っていなせるようにするから。それまではどうか、どうか不甲斐ないあたしを許してほしい。







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