”xyの難題方程式は壊滅し”と時間軸同じ
玲が連れ去られる前の話し


高校生という肩書きが終わりを告げて大学生という響きに期待感を募らせた祈紗枝の新たな生活は実家の仕事と慣れない大学での日々、膨大な課題で多忙を極めていた。
楽しむだけ楽しむといったスタイルだけで過ごせる程、人生は甘くない事は高校生の内でも少なからず経験はしてきたのだが、同時になんだかんだ投げるとこは投げてしまった負い目も少なからず感じていたからこそ、もう好き勝手なんて言葉は今の紗枝には出来るはずもない。
実妹は紗枝に、自分の道を歩んで欲しい、と切に祈っている。実母も紗枝の幸せを、といつも想ってくれている。縛られなくてもいいと、健康と幸福、笑って生きて、帰る場所が此処ならば、とそんな言葉と行動で紗枝を見守ってくれていた。自分自身で勝手に圧迫感を感じ変に縛られた中等部時代から高等部半ば、我が儘にも家庭事情にも関わる愚弄を働いた紗枝を家族達は誰も責めなかった。逆に良かった、と妹と母の笑顔を見たときホッと肩の荷が下りた気がした。
良いも悪いも、天地学園は自由だ。自分で決めて自分で動く。その環境下が紗枝に大事な事を教えてくれた気がするのだ。

大学生になったら家庭の仕事を手伝おう、既に紗枝は高校最後の年に自分で決めて自分で動く決心をしていた。縛られたわけではない。そう自分で確固たる意志の元、決断をしたのだ。

だから苦ではない。多忙な日々を送ってはいるが大学に通う選択をしたのも家庭の仕事を手伝う事も忙しくなると分かっていて始めたサークルも全て自分がしたいと思ってそうしたからだ。

そんな硬い意志があっても紗枝も一人の人間ーー心も身体も鍛えていたとしても超人でも化け物でもない、一人の女の子。疲労だって蓄積すれば慣れない環境でのストレスも溜まる。何よりたった一人の、それこそ高校三年の時に出来た恋人と中々逢えない事で少なからず気が滅入っていたのだろう。めっきりやる気というやる気が無くなってしまっていた。ダメだ、これじゃ。と奮い立たせる身体に鞭を打ち始めても何も身が入らない。多忙な中、娯楽に入ったサークルでさえ心から楽しむ事が出来なかった。


「五月病ね…」
無理矢理名前を付けて溜息と一緒に呟いた声は暗く、紗枝自身追い込まれているのだと思い知らされる。
大学から帰宅し直ぐに自室に直行した紗枝は力なく頭を机にくっつけたまま、机上にあるめざまし時計をぼーっと見ていた。刻々と流れる時間に、課題が終わってない。お風呂も入っていない。ご飯も食べていない。あれもこれも、習慣化された行動も億劫なってしまっている。

「しゅーちゃん、何してるかな…?」
やはり滅入っている。紗枝は自分の置かれている状況を冷静に把握していく。あまり弱音を吐かない自分が弱音を吐き出したくなった。甘えたくなった。声が聞きたくなった。少しでも、一時でも顔が見たいと思った。あまりの多忙さに連絡手段はラインのみになってから一ヶ月半が立つが、恋人元い、斗南柊の名前を出さぬようにしていたのに。声に出せば会いたくなる。寂しくて寂しくて、鼓舞していた自分自身が音を立てて弱くなると理解していたからだ。

ポケットに突っ込んでいた携帯を手探りで探す。ロック画面にはラインの返信は無かった。
めんどくせぇ、と言いながらも将来を見据えて体育教師の免許取得の為、柊も紗枝と同様に大学生へと進学している。一人暮らしという事もあり、学業とバイトの両立。また体力作りの為、以前の米軍基地で週三ペースで通い、やりたいサークルにも所属しているようで、柊も柊とて多忙な事は紗枝も知っていた。

今日は米軍基地だろうか。一ヶ月半で理解した柊の日程によればそうなるだろう。ならば今頃汗水垂らして訓練に励んでいるに違いない。

紗枝は無意識に何度目かの溜息を零す。そうして体内の蓄積された負のオーラを出そうと試みているように。力なく机に携帯を溢れ落とし、徐にめざまし時計を見ると三十分経過していた。既に21時を回っている。明日は一限から授業だった。逆算して一時には寝ていたいと紗枝は思うが動こうという思考は働かなかった。

紗枝はゆっくり目を閉じる。眠いわけではない。何も見たくないのだ。目の前の時計も鳴らない携帯も、今の自分の現状も。
果たしてここまで弱ったことはあるのか。紗枝にとって未知な自分であった。大学の友人が病むと連呼していたが、これがそうなのかと自嘲しながら紗枝は思う。

一つ、二つ、三つと細かい息を吐き出し暗闇の中、自分自身を落ち着かせるだけに五感を使おうとするが、どうしたことか。暗闇の中、浮かんできてしまう顔は恋人だった。

小さい時に母は言った。
ーー自分を疎かにしないように、と。
思いを蔑ろにする事は自分に嘘を吐いているのだと教えてくれてから、それでも折り合いが付かない事に慣れてしまった紗枝にとってこの時にその言葉を思い出してしまえばもう我慢など出来なかった。



寂しい。逢いたい。寂しい。逢いたい。寂しい、寂しい

「しゅーちゃん…」
耐えられない、紗枝はそう思った。

目を開け携帯のロックを外し、電話帳から斗南柊の名を探す。少しだけ戸惑う指先は意を決して押された。コール音を聞きながら何故か緊張している自分がいる。出るのか出ないのか。出て欲しい。もし出てくれたらなんて言おうか。久しぶり、元気?まず、そう言おう。そんなたわいも無い挨拶だけを反芻させて待つがコール音が止んだ時、柊ではない機械的な声が紗枝に聴覚を震わす。

留守電。当たり前だ。さっき自分で柊のスケジュールを思い出していたのだから。だとしても、もしかしたらという期待感を持っていた紗枝は先程同様に携帯を起き机に置いた。

「あーっ!もおっ!しゅーちゃんのばかっ、

わたしの…ばかっ、」

やり場の無い感情を声に出して理不尽だと思う。紗枝は消沈していた気分を無くすように自身の頬を両手でパンっと一つ叩き、この後の事を考えた。先にお風呂に入ろう。悪い事をしてしまったが、もう冷めてしまっているだろう母が作ったご飯を食べて、今日分の課題を進めて明日の為に寝よう。











***

「紗枝、あなた顔色悪いわよ」
「うーん、風邪かな。今日は早く寝るから」
「無理しないのよ。あなたといい紗希といい」
「大丈夫だって!お母さんは心配すしぎよ。おやすみ」
入浴を済まし、一人寂しく夕飯を食べ終え、食器を洗っている時に母は心配気に紗枝を見ていた。そんなに、自分の顔は今おかしい事になっているのだろうか。母が言うのだからそうに違いない。要らぬ心配は掛けたくない紗枝は逃げるようにリビングを出て自室へと向かう。途中、紗希に母と同じように「おやすみ」と挨拶をしたが、顔を顰めて何か言いたげに「…おやすみ」と返された。あの表情は良い結果がない。紗枝は何も言われぬよう背に感じる視線からも逃げた。

扉を開けて、ふう、と一息吐いてから机に置かれた携帯を見ると着信が三件。全て斗南柊と通知されている。直ぐに掛け直すがやはり出ない。すれ違いもいいところだった。どこまでも運が悪い。いや、合わない。なぜだろう、誰かが自分と柊を引き裂いているような被害妄想さえ今は考えてしまう。

何時もはシャワーだけで終えていた入浴も今日は湯船に入りゆっくり時間を費やした。それもリフレッシュを目的とし、少しでも疲労と滅入ってしまった気持ちを取り戻したかったからだ。その甲斐もあり先程の死にそうな兎のような孤独感は薄らいでいた。それでも母には心配され妹には怒られそうになっている。終いにはこの着信ときた。紗枝は自己嫌悪に陥る。観念した筈の思いがまた膨れている事に。

「さぁ、やるか…」

既に22時半を過ぎている。早急に手を付ければ1時には余裕で寝れる筈だ。
紗枝は切り替える。切り替えは早い方である事は理解していた。課題は本日出た心理学のレポートだった。来週の同じ時間に提出するレポートであったが紗枝は後回しにする事を嫌い、その日に出来るのであればその日に終えてしまいたい人間だ。テーマは《記憶》。
”人間は忘れる事はない。思い出せないだけ。”本当にそうなのか。例えば小さい時の記憶など殆ど覚えていない。思い出せない以前にそういった軌跡さえ分からないのだ。自然と興味関心、色濃い衝撃的な事や、自身の感情の揺さぶり。はたまた色や形などの造形色などで記憶の度合いは決まる。楽しいこと嬉しいこと、悲しいこと辛いこと、その感情が激しいだけ強く覚えているに違いない。

ふと、紗枝はペンを止めた。今日のこの感情の起伏は自分自身を経験がないことである。何ヶ月、何年あっても覚えているだろうか。この寂しさが辛さが無いものになるのは怖かった。蔑ろにしたくないと、紗枝は思った。確かに寂しくて寂しくて、逢いたい気持ちが先走った瞬間、泣きそうな程苦しかったのだ。好きだ、とぶっきら棒に、頬を赤らめた柊を紗枝は今でも覚えている。思い出せる。色褪せる事はあっても決して忘れないだろう。初めてキスした時も肌を重ねた時も、誕生日やクリスマス、天地学園に居たあの頃の記憶は今も大切に自身の心に仕舞ってあるのだ。だから直ぐに引っ張り出せた。忘れる事はない。

あたしは一人ではない。


何時の間にか走り書かれたペンが次に止まる時にはレポートの表紙に名前を書き終えた時だった。時計を見れば0時になる前。こんなにも早く終わるなんて、と紗枝は苦笑を浮かべる。どこかスッキリした気分になり、一仕事終えた手は大きく上に突っ張らせ「うーん」と全身で身体を伸ばした。

凝り固まった負の感情はまだあるにはあるのだが良い意味で範疇内に留まってくれたようだ。このレポートを書いている最中に何人もの顔を思い出し駆け巡り、夢中になった。たくさんの人に会いたくなり、そして純粋に混じりっけのない淋しさだけが残った。


携帯が鳴る。どうしてなのだろう、タイミングが良い。さっきのすれ違いが嘘のようだ。ロック画面に映し出された名はーー斗南柊。

スライドさせて、耳に当てる。
在り来たりな挨拶はいらない。
もう、言う事は一つだけだった。

「しゅーちゃん…逢いたい…」

柊が何かを言う前に、紗枝は素直に自分の想いを音に乗せた。大人になっていく紗枝が大人になっていく度に出せなくなった叫びはたった一言で。
「…今、下にいる」
柊に届いた。





***



静まり返った家中を音を立てず、それでいて脚は急ぎ、玄関を開けると日中の暑さは嘘のように涼しい風が肌を撫でた。
柊が居る。柵の外、優しい笑みを浮かべた柊と紗枝の目が合った。
玄関から柵まで走る。「しゅーちゃん」名を呼びながら紗枝は柊の胸の中へ飛び込むと柊はしっかりその華奢身体を抱き締めた。

「どーしたよ?久し振りに会ったと思えばカワイイことすンなァ」
「しゅーちゃんだって柄にない事してるじゃない」
「悪いっすか?コッチもそろそろ限界なンだよ……フツーに」
「…あたしも、限界超えたみたい。逢いたくて、寂しくて…」
「紗枝…」
柊の抱き締める力が増すと紗枝は余計に擦り寄るように回した手で縋る。軋むほど強い抱擁に、痛いよ、と紗枝が笑うと柊はお互いサマっしょ、と笑った。
紗枝の頭に口元を埋める柊は動かない。時間を掛けてゆっくりと紗枝を確かめているように。紗枝も柊を確かめるようにドクン、ドクンと少しばかり速い鼓動と大好きな柊の匂いを一杯に吸うと、幸せを吸っている気分になった。寂しさに埋もれそうになった想いがウソのように満たされていくのを感じる。この感覚も覚えていたい。

どっちからともなく隙間を空けた。その距離が恨めしく感じたが柊は一つ、紗枝の額に唇を落とす。それを合図に手が紗枝の頬へと当てられると、柊は優しく唇を奪った。触れるだけのキス。一つ、また一つ。見つめては、口づけをし、その度込み上げてくるどうしようもない激情が紗枝の目元を震わした。
「紗枝、好きだ」
泣くな、とは柊は言わなかった。好きだ、逢いたかった、と滅多に言わない歯に浮く言葉を伝えキスを送る。目元に溜まる涙を舐め取られ、柊の唇が紗枝の唇に触れると、とんっと柊の舌が紗枝の唇をノックした。難なく薄く開いたその先にゆっくり柊は舌を挿し入れると瞬間紗枝はキュッと、柊のシャツを握った。熱い舌が紗枝の舌を逃さない。紗枝の腰に回る片腕が逃さない。紗枝も逃げるつもりはなかった。やっとだ。やっと切実にも欲しいと願った瞬間が今あるのだ。

角度を変える度、どちらともない吐息が漏れる。それだけで紗枝の理性が焼き切れそうだった。

少しでも長く、そう思うように絡められた舌を動かすと柊の眉頭がピクリと動く。薄く開いた瞳から見る柊は余裕もなく顔を歪め、目の前の状況に柊も理性と戦っている。そして自分も、どうやら同じようだった。口づけを受けながら柊の指が紗枝の耳を触っている。情熱的なキスだけで息が上がるというのに耳の縁をなぞられるだけでゾクゾクと背中に電流が走る。
歯裏を舐められると
ーーん、ふ。と僅かに開いた自分の口から吐息が漏れた。
くちゅ、と唾液と舌と擦れる音に煽られてからゆっくり唇を離すとお互いが荒く肩を揺らしている。
熱い。蕩けてしまいそうだ、と紗枝は熱に浮かされる頭で思う。濡れた柊の唇と燻る熱を前面に出した瞳と、離さない腕に紗枝の身体が女の喜びを感じてしまっていた。

しかし、それでも、ダメだ。今日は、と紗枝は唇を噛み締める。このまま帰したくない。ずっと一緒に居たい。もっと抱き締めて欲しい。抱いて欲しいと、欲が溢れかえるが其れをゆっくり押し留める。
柊も理解しているように優しく抱き締めて、一つ深呼吸をしていた。

「アー、そうだァ。免許取った。夏ドッカ行こうなァ?あの破天荒組ツれてぇ、海でもなんでもさァ」
「うん。行く。行きたい」
「ンで、偶にはメシでもどーよォ?忙しいと思っケド、合間縫って。」
「予定合わせましょう。ウチでご飯作ってもいいし」
「紗枝の手作りっスカ。なンか、怖い気もする」
「大丈夫よ。愛情で物を言わせるわ」
「なら、安心」

ふふ、と額を合わせて笑いあう。先程の膨れ上がった欲情は無く、無邪気な表情で。

「今日は、車で来てくれたの?」
「ン、あ。ヤベェ、風呂入ってねぇーつーのに。悪い、紗枝。臭くねぇ?」
「臭い」
「マジか!!」
「ウソよ。だから離れないで…」
まだもう少しと離れた距離を埋めるように柊の袖を引っ張った。もう少し、と紗枝は思うが口にしなかった。何時だろう、と野暮だと思っても考えてしまうのは自分の為というより柊の事を考えてのこと。これから柊は車で帰るのだ。此処から1時間は掛かり、それでいて明日は授業がある。

紗枝は背伸びをして触れるだけのキスをする。
「また連絡する。来てくれてありがと。嬉しかった…」
その言葉に柊は困ったように笑い、頬に撫でる。
「そんな顔すンなって。いつでも来てやんよ。明日でも明後日でも、ほんの少ししかいれなくてもな」

そう言った柊はもう一度抱き締めると車へと向かう。少しでも顔を見ていたい紗枝はそれを追った。自分で言っていて後悔しているが、仕方ない時もあるものだ。欲は膨れ上がるばかりで、会う前の自己嫌悪がまた出てきた。しかし、叶ったのだ。これで我慢出来なければ神様にどやされる。
気おつけて?ダイジョーブ。ありがとな。着いたら連絡してね?オッケー。眠かったら寝ていいから。
名残惜しい挨拶を交わして、柊が笑顔で手を振った。紗枝は柊が乗る車が見えなくなるまで手を振った。見えなくなった頃、紗枝の中にあったのは純粋な寂しさだった。それでもどうしてなのか、まだ残る熱が柊が触れた感触が残滓が紗枝に笑みをくれる。もう、大丈夫だ。軽い足取りで紗枝は家の扉を開けた。







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