ーーーだからイヤだったんだ
そんな独り言に返事なんて返って来ないと思っていたら頭上から声が降ってきた。ゆっくり首を動かしたというのに鈍い痛みが襲い、視界の隅に存在を確認した後、、ガラクタのブリキ製の人形のように不自然に頭は垂れた。
「オイ、オイ。ダイジョーブっすか?」
「んー、大丈夫。疲れただけ」
怪我は?と問いかけられ、無い、と答えた。愛嬌はないの。ごめんなさい。そっと胸の内で小さな謝罪。だというのに、彼女は「そりゃ、良かった」とケロっと言い放つ。威圧しているのが分からない程、空気が読めないわけではないでしょうに。逆に、鋭いからか。一人、納得。あなたに付き纏う上条さんではないの、と言えたら良かった。
「他は?」
「ジャッジ等は撤去中。カイチョーさんは早々に帰宅。祈と神門は痴話喧嘩しながら、アタシみたいに見回り組」
さっきまでの喧騒は嘘のような静寂響く乾いた声。それぐらい、私の外も中身も乾いて、オイル切れらしい。
体育着も髪の毛もぐちゃぐちゃ。
「士道さんは?」
「モーお荷物として届けマシタ。」
自慢の爪なんて泥だらけで、しまいには僅かな間にも砂が入り込んで真っ黒だった。
手入れしなきゃ、
酷使し過ぎたこの身体で出来るだろうか。汗でベタベタの首筋に風が当たる。冷たい、無意識に零しても思考は今後の自分自身について。
ーー否、やらなければ、
そんな義務感に頭がいっぱいで彼女がしゃがみ込んでいた事に気付かなかった。
「うわっ」
ぬっと、視界に入り込んできた顔面に慌てて仰け反る。一瞬忘れていた。自分以外の存在は顔を顰めていた。
「いきなり、なにっ」
「さっきから居たンすけど」
「疲れてんのよ!!勝手に視界に入ってこないでよっ」
「スゲェー、イイ草…さすが祈にからかわれてるだけあンのナァー。肝がつえぇ、」
「何が言いたいのよ…」
「とりあえずそんなネイルちゃんに恐縮デスが……」
此処、危ないから。
僅かに和らいだ声。さっきの言葉を吐き出してやりたかった。あなたのこういう所が苦手なの。それも空気に振動せずに身体内の奥底に脱落したいった。
可哀想に。疲労具合は人それぞれだとしても、その後の清掃と安全確認をしなければならない。こうして迷惑をかける奴のようなのがゴロゴロいるんでしょうに。
「生徒会も大変ね」
「アンタが言うのは笑えるわ」
自分勝手な皮肉も丸ごと包まれた。
くく、と笑う声と同時に無意識に泥を握っていた手を取られた。引っ込めようとも、そんな体力も無く、長い指と優しい掌が泥を拭い始めていた。
「あー、汚れちまったナァ」
「まぁ、そんな事気にしてられないわよ」
「ネイルちゃんにしちゃ、イイ感じにかましてンぢゃん」
こまめに爪の間。取れる範囲の砂と泥を落としていく。あなたの手も汚れるわよ、と心配もしていないというのに安じた言葉に反吐が出る。
静久に勝つなんて、そんな結果は付いてこない事なんて最初からわかっていた。でも、ほんの少し。抗えていたら。ほんの少しでも、自分の刃が届けば。掠める程度でも、いい。その顔色に変化を与えられさえ、いれば。
「あーっっ!!悔しいッッ!!」
自然に出た叫び声は酷く喉を突き刺した。けれど、やっぱりそんな事に構っていられない。自慢の爪にさえ構ってられなかったのだから、もうどうでもいい。目の前の彼女はキョトンと目を丸くさせ、不思議そうに私を見ていた。きっと、彼女の前でこんな失態を見せてしまっているのはその所為にして、払っていた手を中断させてまで強く握ってしまったのは、腹いせとして。
「なンか、よくわかンないンすけど…とりあえずアンタはやっぱりキレイだな」
は?と俯いた顔を上げた。喧嘩を売ってんのかと思えばそうではないらしい、私に負けず汚れた顔は清々しい程、真面目に笑っていた。
「イイ手なンぢゃね?」
「なに、言ってーー」
ほら、と言葉を遮られ、力が入っていた手をやんわり解かれていく。
「イイ手っしょ?」
泥に塗れた二つの手。交互に見比べて違うのは角張った骨だとか、掌の大きさだとか、長い指だとか。あとはもう、真っ黒だから、比べて相違ない。同じであって同じでない手が並ぶ。
「ほらっ、しかたねーから。おぶってやるよ」
大きな手が私の小さな手を引く。嫌悪感とも取れる、纏わり付いた甘さは多分自分自身の弱さ。
「いいわよっ」
今度こそ、その手を払いのけてゆっくり立ち上がった。目の前の彼女は涼しい程、軽く立ち上がって、本当に人の気も知らないで、と苛立つ。
「なンだ、できンぢゃん」
「当たり前でしょ!!」
見守られているような、そんな瞳。もう手をかさない。よく、わかってるぢゃない。ぐしゃぐしゃにしたい歯痒さを拭い去るように、手を膝に添えて力を入れればやっぱり、痛い。このまま、また沈みたい程に。そんな思考も突っ張り、ギシギシと節々の痛みを噛み締めて帰るんだ。そうしたら、やっぱりお風呂に入って爪を手入れしよう。