ーーーあらた、
 室内の空気は外に比べてしまえばさほど良いものではないのに、呼ばれた名前が自分のものだと理解するまでにひとしきり黙り込んでしまったのは、たった三文字の文字がとてもとても綺麗な音を含んで聞こえてしまったからだ。白白明けのきんきんに冷えた真冬の空気のように澄んでいる。聞き逃しそうな細い声だというのに、そう思わせない凛とした声で。
「あらた」
 無視しないでよ、と二度目から。まどかは新の目を見てから暫くして困ったように笑う。
「…無視してねーし」
「呼んだんだから返事ぐらいしてもいいじゃん」
 返事し忘れたんだよっ!
 そうは流石に言えない。自分のメンツが潰れてしまう。
 何も言わない。何か言ってくれてもいいだろ。名を呼んだ先。そこさえあればきっと解答は用意できたはずだ。
 十八年生きてきた。まだ若輩者よろしく、と母親に言ったことがある。殴られた。強面の顔だと頻繁に言われる新だがそんな冗談も言える程のお茶目さは持っている。たった十八年だ。どこまでも十八年でまどかも十八年を生きてきた。そのたった十八年でされど十八年間で名前を何度だって呼ばれたはずなのにその意味をことごとく変えてしまった。
「怖い顔してる。眉間に皺、すごいよ。わたしなんかした?」
「いや、なにも」
 そう言ったそばから新の顔が余計強張る。まどかが不思議そうに覗き込んで、何も考えていないあざとい上目遣いに、咄嗟に顔をそらして失敗したと思う。

「もしかして、照れてる?」
 悲しくも事実である。それを嗅ぎ付かれてしまったことが誤算だ。ふふふ、と含み笑いが妙に癪だけれど残念なことに何時もの軽口も罵倒も言うだけの余裕もない。
 胡座をかいていた膝にそっと手が触れた。観念して横目で見ると案の定嬉しそうに笑うまどかがそこにいて新は逃げ出したい気持ちになる。
「あらた」
 ねぇ。
 甘い声が脳髄まで響く。あそこまで食って掛かって、それに負けず噛み付いてきたはずのまどかと関係性が飛び抜けてしまってからどうもおかしい。いびっていた口も容易に回らなくなってその代わりまどかがずんずん前に押し返す形になってしまっている。敵意を剥き出しにしていた目が、こんなに物柔らかに愛しく変わることなんて、新は知りたくなかった。
「あーらーた」
 知ってしまえば運の尽きだ。口元を隠して必死の抵抗も虚しく、まどかの顔を見て熱がこもる。
 ひでぇ、はなしだろ。初めて好意を寄せた相手に名前を呼ばれて酷く動揺するなんて。何度も何度だって言ってやる。そうしてまどかは名前を呼ぶ。何度も何度も。
「うるせぇー」
「あらた、好き」
「…うるせぇーよ」
 初めてまどかに名前を呼ばれたんだ。嬉しいに決まってる。照れるに決まってんだろっ!!ちくしょー、ばかやろー。






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -