精一杯の五センチ





「ッアー、肩凝ったァ」
『ふふ、珍しく集中してたんじゃない?』


グッ、と腕を上げて伸びをする荒北。時計を見れば入店して一時間半が過ぎていた。
メープル材の机に開かれたノートは三ページ程埋まり、利き手側に置かれた珈琲カップには乾いたカフェラテの泡のラインがついていて。
荒北の頼んだべプシの氷は溶けきっていた。


『―…荒北、ソコ数式間違ってる』
「あ゛?どこだヨ」


ふと視線を下ろした荒北のノートには、荒北らしい少し筆圧の強い字で数字が並んでいた。
その数字の列を目で追うと、一ヶ所間違いを見つけた。


『ここ。ここはxを代入するから…』


私が荒北のノートに手を伸ばし、シャーペンで薄く印をつける。
荒北は頬杖をつきながらじっと私のペン先を追いかける。

勉強中なんだから当たり前だけど、荒北の真剣な視線に、気づいてしまったらもうドキドキは止まらない。
せめて指先が震えないよう、神経を集中させて数式を整えていく。


『…で、答えは―…』
「ちょっと待て、自分でやるからァ」


一通り整えたところで答えを導こうとしたところで待ったがかかり、私はペンを引っ込めた。
荒北は私が教えた通りに数式を整えていくと、時間もかけずに正解にたどり着いた。


『ふーん。やればできるじゃん』
「てめ、バカにしてンだろ」


唇を突き出して不満たっぷりな表情を向ける荒北に私は楽しげに笑った。


「つか、腹減ったな」


荒北は両肘を椅子の背もたれにかけて、気怠そうに壁掛け時計の方向へ首を傾ける。


『そうだね、もうお昼だし…どっか食べに行く?』


そんな荒北に倣うように私も時計を見遣る。
時刻は午後13時20分。お腹が空くのは最早当たり前の時間だった。
けれど、懸念されるのはこの時間にお腹が空くのは私たちだけではないということと、たった二時間弱で麻痺していた交通機関が戻っている可能性は低いこと。

まだ電車が動いておらず、遅延、帰宅難民はまだ駅に溢れかえっているだろう。
となると、駅前の飲食店は全滅と考えたほうが良さそう。

ここ、[ Lecture Temps ]は食事系のメニューは殆どないうえに、図書館にも似た空間のためお客の出入りは穏やかで、先ほどまでの遅延による駅の喧騒なんて遠い国の出来事のようにすら感じられる。

でも、お腹すいたのはなかったことには出来ないし、かと言ってこのお昼どきの混雑を解消するなんてもっとできないし。
さてどうしたもんか、と考えている私の視界に映ったのは、ビックリするくらい意地の悪い荒北の笑顔。


「別に食べに行かなくても良くねェ?」
『は?なん―…ッ』


ニヤニヤとムカつく笑みを浮かべる荒北は、自分の鞄から見覚えのあるランチポーチを取り出した。
すっかり忘れていたその存在が意図せぬ瞬間に再び自分の目の前に現れたもんだから、半分パニックだった。


「天気もイイし?弁当もある」


荒北が指差すのは天井だけど。
その天井の向こう側にはきっと、澄んだような青空が広がっている。


「外で食う?」


ほんと、この駅に降りてから荒北の提案は全部、私の心をいちいち躍らせる。
白い肌に落ちる木漏れ日に、私も笑って応えた。


『そうね、行こっか』


私たちは広げていた教材を閉じた。
荒北は全部ぐしゃっと鞄に詰め込んですぐに立ち上がったけれど、もたもた片付けている私を決して置いていったりせず、急かすわけでもなく。
その場で静かに待っていてくれる。その小さく静かな優しさは、落ちてくる木漏れ日に似ていた。


『ごめんね、お待たせ』


慌てて立ち上がると、荒北は別に待ってねェ、なんて言うけど。
私はそんな冷たい言葉でさえ暖かく感じる。ねェ、私が気を遣わないように言ってくれたんでしょ。

荒北の隣に立つと、それに合わせて歩き出す荒北。制服の裾が触れ合うくらいの距離で、私は荒北の後ろを歩く。
会計時になぜか荒北が払うとか言い出したもんだからひと悶着あったけれど、弁当のお礼、なんて言われたら引っ込むしかない。
自分で勝手に作ってきただけだから、と言っても荒北には無駄だと悟った私は、大人しく奢られた。


『次は私が出すからね。イイ?』
「ふーん、次があるんだァ?」


ニヤリ、笑った荒北に完全完敗。どうしてこの男は、こんなにも私を惑わせるのだろうか。


『…次、同じ時間の同じ車両に乗り合わせて、たまたま電車が止まって、諦めてこの駅で降りたらね』


と、今日と同じ偶然全てが重なった全く同じ日に奢る、と捻じ曲がった答えに荒北は面白くなさそうに表情を歪めた。
微妙な沈黙の中、やっぱり見知らぬ風景を二人並んで歩く。

流石に駅からこれだけ離れると荒北も土地勘は薄れるらしく、足取りは少し重くなっていた。


「ッかしーな。確かこの辺だったと思ったんだけどォ」
『? どこに向かってるの?』


荒北が右手でガシガシと乱暴に頭を掻く。その様子に、荒北はきちんと目的地に向かって歩いていたのだと初めて気づいた。


「ンー、前にロードで通ったときに見かけたンだけど…、やっぱ違う道から来ると分かンねーもんだな」


はぁ、と少し深い溜息と共に小声で何か呟いたけれど、あまり意識して聞いていなかった私はその呟きを完全に落とした。


『まァ良いじゃん。天気も良いし、平日だし。なんか楽しいよ、こういうの』


平日、いつもなら退屈な授業を受けている。
窓の外に広がる青空を呪うように見つめ、荒北は何してるんだろう、なんて考える授業は唯々長い。

今日もいつもと同じ平日になる筈だったのに、どういうご褒美なのか同じ車両に乗り合わせて。
電車が止まって学校は休み。雰囲気抜群のカフェで二人時間を潰して、恨めしいだけだった青空の下を、二人肩を並べて歩いている。

そんななんでもない日常、私にとっては特別な一日が、楽しくない筈もない。


「…楽しいなら良いけどヨ」


荒北は少しホッとしたように表情を緩めると、先ほどとは打って変わってゆったりとした足取りで緩く進む。


『そういえば、もうすぐインターハイなんでしょ?』
「まーな」
『荒北って、スプリンターなの?クライマー…ではないよね』


荒北のことを少しでも知りたくて、グーグル大先生に教えてもらった付け焼刃を披露する。
急にど素人の私からロードの話を振られたことに驚いたのか、荒北は細い目を丸く見開く。


「オレぁ、オールラウンダー」
『オール?』
「まァ、簡単に言えば万能型だナ」


スプリンターやクライマーみたいに特化型ではなく、どの場面でも対応できるのがオールラウンダーだと説明する荒北。
え、なにそれ。当たり前みたいに言うけど、それってかなり凄いことなんじゃない?


『荒北って…格好イイ…』


ポロリ、唇から落としてしまった言葉は慌てて拾って口の中に戻す、なんてことはできず。
自分でも落としたことに気づかないまま、荒北の鼓膜を揺らしていく。


「バ、…バァカ!褒めンな!」


耳先まで赤くした荒北に堪えきれずに吹き出すと、今度は笑うな、と怒られる。
そんな荒北がおかしくて堪らなくて、久しぶりにお腹から笑った。

笑う私を止めることを諦めた荒北は、ちっ、と小さく舌打ちしながらも小さく微笑んだ。
目尻に涙が溜まるほど笑っている私には、残念ながらその表情は見えなかったけれど。



「…あ、ここだ」
『え?』


ひとしきり笑った私は涙を指の関節で拭いながら荒北の視線の先を見遣る。
バーベキューの設備があったりドッグランがあったりする少し大きめの公園で、昔家族ときたことのある公園だった。
勿論、ゴミさえ片付ければ飲食も可能だから、天気の良い昼下がりにお弁当を広げるには持って来いの場所だった。


園内に足を踏み入れると、さすがに駅から少し離れたということと、飲食店も近くにない公園に遅延帰宅難民は居らず、犬の散歩をしている年配の人や小さな子どもを連れたお母さんがちらほらといるだけだった。

私は日当たりが良くて、人の邪魔にならなそうな場所を探してきょろきょろと視線を動かす。
荒北も同じく左右をゆっくりと見渡していた。


『あ、あそこで良いじゃん』


日当たり抜群の芝生を指差して駆け出そうとすると、すかさず荒北に止められた。


「バァカ、下に敷くモン何も持ってねーだろ。座れるとこ探せ」


荒北はそういうと反対方向へと歩き出す。
でも、ベンチがある場所やテーブルが置いてある場所は基本的に木の下や茂みの近くにあるから、日当たりの良い場所と比べるとどうにもじめっとした印象を受ける。
そんなとこでご飯食べるくらいなら、芝生の上の方がマシ。


『やだ!地面に直で座っても良いから、日当たりの良いとこで食べたい!』
「あァ?スカート汚れンぞ」
『良いの!芝生の上だから大丈夫!』


子どもみたいな駄々をこね続ける私に、観念した荒北は小さく溜息をついた。


「わァったよ。せめて木陰にしろ」
『やったー!』


私は大きく万歳をして、日当たりの良い場所の近くにちょうど良くできた木陰へと一目散に走った。
背後で荒北が何か言ったけど、あんまり聞こえなかった。ていうかどうせお母さんみたいな小言だと思ったから、聞く気がなかった。

日当たりの良い場所を通過して、良い感じの木陰に座り込む。
暑い初夏の日差しを遮る木陰と、芝生の冷たさが気持ち良い。

少し遅れて荒北がやってくると、当たり前のように私の隣に腰を下ろした。
ふわり、香る荒北の匂いにドキッと心臓が大きく跳ねた。
大きく跳ねた心臓は余韻を残すように、強く脈を打ち続ける。


『なんか、近くない?』
「あ? 離れてたら逆に不自然だろォ」


それもそうか。妙に距離をあけて座っている男女って、なんだか色々と誤解を生みそうだ。
少しだけ、もぞっと動いて、ほんの五センチだけ荒北から離れた。

心臓の音が聞かれてしまいそうで、怖くて、怖くて。
けれど、荒北の香りを感じるこの距離は大事にしたくて。
葛藤の末の五センチ。荒北にさえ気づかれない程度の、自己満足の距離。


「何か飲みモン要る?」
『あー、私いつも中庭の自販機で飲み物調達してたから、今何も持ってないや』


荒北もでしょ?と問いかけると、ベプシが飲みてェ、という言葉だけ返ってきた。


『じゃあ買ってくるよ!確か近くに自販機あったし』
「待て、オレが行―…」
『すぐ戻ってくるね!』


荒北が腰を上げそうになったのを見逃さなかった私は、財布を持つと荒北の言葉を遮って立ち上がった瞬間に駆け出した。
さっきのカフェでも奢ってもらったのに、飲み物まで買わせるのはさすがに申し訳ない。
ていうか、いつも荒北がミルクティー買ってきてくれるし、そのお礼にお弁当作ったのに。
結局、今度はカフェオレを奢ってもらうなんて。お弁当の存在意義を疑うわ。


走ってほんの45秒。全力ダッシュは普段しないから中々キツイ45秒。
自販機には荒北のべプシも私のミルクティーもあって、二つ抱えて帰ろうとしたところだった。


「あれェ、女子高生じゃん」
「なんで平日の昼間にいるの?」


神経を逆撫でするような、嫌な声色が背中を撫でた。
心の底から嫌な予感がして、振り向くことも躊躇われたけれど、後ろから正面に回ってこられちゃったんだからもうどうしようもない。

諦めて視線を上げると、いかにも。なDQNと、いかにも。なパーリーピーポーが立っていた。



「え、しかも可愛くネ?」
「あー、電車止まっちゃったから帰れないパターンじゃネ?」


ニヤニヤと笑う男たちに、私の眉間の皺はグッと深まる。


「俺たち今日、バーベキューしてんだけど君もこない?」
「女の子の飛び入り大歓迎ー!しかも可愛いとかヤバくネ?」


うっせぇ、なんでお前らは常に疑問符つけて喋ってんだよ。
そんなに世の中に疑問が溢れかえってるんだったら家帰って辞書でも引いてろ、バーカ。


…というのは全部心の声であって。
小心者の私はせめて触られないように体を小さくすることしかできなかった。


『け、結構です…』


どうにか絞り出した声に、なぜか大興奮の男たち。


「結構です、とかマジ可愛いんですけどォー!」
「今時そんな丁寧に断らなくネ?マジで」


じゃあどうやって断ってんだよ。ていうか断ってんだから諦めてどっかいけ。


「もう強制連行でイイんじゃネ?」
「警察上等ー、ぜってェ楽しいし、むしろ最終的に来てよかったってなるっしょ」


小さくしていた肩を当たり前のように抱かれ、その腕の感触に吐き気さえ覚える。
知らない男のスキンシップって、細胞が拒否するレベルで嫌い。

どうしよう、どうしよう。
この場を打開する方法を模索して視線を落とすと、腕の中にベプシが見えた。
瞬間、脳裏に浮かぶのは荒北の姿。

…でも、都合よく荒北が来てくれる訳もないし、むしろこの面倒に巻き込みたくないから来て欲しくない。
インターハイが近いのに、血の気の多い荒北が問題を起こしたら。
三年生で最後の大会なのに、私のせいでペナルティを課してしまったら。

きっと私は、荒北に好きって伝えるどころか一生口を聞いてもらえないかもしれない。
それだけは、いや。絶対にやだ。

携帯で荒北に連絡して、この人たちに付いて行った方が無難かもしれない。
こういうパリピDQNなら、グループに女性だっていると思うし変なことはきっとされない。
でも、荒北と過ごす少し特別な平日を、こんな奴らのせいで台無しにもしたくない。


…欲張りな私、最低。



ぎゅっとべプシを握り締めて、小声で訴えた。


『わ、私彼氏と来てますんで』



彼氏という単語に唇が痺れる。
こんな状況で不謹慎かもしれないけど、脳内は甘い感情で満たされる。


「えー、何?その彼氏。彼女に飲み物買わせてんの?」
「それって最低じゃネ?俺らだったら全部奢りだしィ」


しまった、とんだミスだ。荒北の株が大暴落。
こんなクソみたいなパリピに荒北のことを悪く言われるのは嫌だ。


「じゃあ、俺らが説得しに行ってあげるよ」
「つか説教?ウケルー」


ゲラゲラと笑う男たち。どっちにしろ荒北が巻き込まれるなら、こんな嘘つかなきゃよかった。
私のバカ。もう、走って逃げちゃおうか。


『っ、とにかく…彼氏が待ってるんで!』


男たちの腕から無理矢理逃れ、男たちに背を向けないように後ずさりすると。
ドン、と何かにぶつかった。慌てて背後を確認すると、そこには見覚えのある制服…。


「…彼氏ですケド?」


聞き覚えのある声に安心感が指先まで染み渡る。
そっと、私の右肩に置かれた手のひらから、体温が伝わる。


『…荒北ぁ…』


思わず声が鼻にかかる。
目頭がツンとして痛い。

巻き込みたくない、とか言っておいて。
ごめん、来てくれてありがとう。


「え、何なに?彼氏の登場?」
「ナンパされてる彼女助けにくるとか、超カッケェ」


ヒュウ、とわざとらしいテンションに苛立つ。


「高校生相手にマジになるとか、超ダサくネ?」
「それな。つか、カワイコちゃんは勿体無いけど、彼氏が来たら面倒だわー」


やれやれ、と勝手に自己完結した男たちは私にばいばーいと手を振って帰っていった。
え、なに?あいつら。台風?


『あらきた…』
「ン、の!バァカ!」
『ひぃっ』


降ってきた雷に、子どもみたいに首を竦める。


「遅っせェから様子見に来たら、何絡まれてンだよ」
『こ、好んで絡まれたわけじゃないもん』
「バァカ、隙だらけだから絡まれンだよ」


荒北の怒りは収まらず、舌打ちまで降ってきた。


『でも、一人で乗り切ろうとしたよ』
「それもバカだっつの。呼べよ、ボケナス」
『巻き込みたくなかったんだもん』
「…オレはおまえに何かあった方が嫌だってンだヨ」


目覚めが悪ィだろ、と唇を尖らせる荒北に私の頬は紅潮する。
痛いくらい、静かで小さな優しさが恐怖で絡まった心を解いていく。

我慢していた涙が、とうとう瞳から溢れてしまった。


『荒北ぁ、』
「ンだよ」
『怖かった…』


ぐすぐすと泣く私に、荒北は呆れたように溜息をついた。


「わァってンよ」


荒北の骨ばった手が、私の頭を優しく叩いた。
荒北の体温と優しい振動が心地よくて、でもやっぱり涙は止まらなくて。

あの男たちの腕は死ぬほど気持ち悪かったのに、荒北の体温は唯々気持ち良いなんて。
現金かな。でも、それがきっと普通。

荒北の優しさがもっと欲しくて。
荒北の体温を、もっと感じたくて。

ほんの少しだけ、荒北に近づいた。
その僅かな距離に荒北も応えるように、荒北の大きな手のひらが移動した。
ぽんぽん、と叩くだけだった荒北の右手は私の髪を上下に何度か撫でたところで、後頭部へと回された。
ぐい、と。足りない分の距離を埋めるように。引き寄せられた。
踏ん張りがきかずにそのまま荒北の胸に寄りかかる体勢になった私は、荒北の香りに包まれた。
聞こえるのは、うるさいくらいの鼓動。

これは私の?それとも、荒北の?


胸の内側を叩く鼓動。
聞かれたくなくて距離をとったのに、その距離は今やゼロセンチ。

埋まった距離が、愛しくて仕方ない。





精一杯の五センチ

16 11/24





 

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