夏の自惚れ






「バァカチャン」


口角を上げて笑う彼に、私は毎度怪訝に眉をひそめる。


『私は "バァカチャン" なんて名前じゃありません』
「あァ? んなこたァ知ってんだヨ」


不敵な微笑みから一転。
不機嫌そうに口元を歪める。

どうやら、私の返答が彼の中で持ち合わせていた予想と合致しなかったらしい。


『……荒北だけだよ、私をバァカチャンなんて呼ぶの』


少し考えてから改めて答えを出すと、今度は模範解答だったみたいで、荒北は満足そうに笑った。


「俺以外にバカなんて呼ぶような奴が居たら、ブッ潰してやんヨォ」


ハン、と鼻を鳴らす荒北はグローブをぎゅっと締めて、愛車のBianchiに跨る。


『いってらっしゃい』


そう声をかけると、荒北はゆっくり走り出して背中越しに私に手を振った。
荒北の後ろ姿は3秒で見えなくなったにも関わらず、私は彼が消えていった方向を見つめていた。

ふむ、なぜ彼は今から外周に行くのにいちいち私に声をかけたのやら。
ちなみに私は自転車部のマネージャーでもなんでもない。
荒北の隣のクラスに所属する至って普通の帰宅部。
まあ、強いて言えば私は図書委員で、受験生の荒北はよく図書館にこもっているから接点はなくはない。

とは言え、それ以外に接点はないのだから、彼が部活前に私に声をかけてくる理由には到底なっていない。

バァカチャン、と呼ばれるきっかけはあった。
いつの日だったか忘れたけれど、確か3年になってすぐのとき。
お昼休みに自販機で飲み物を買おうと、中庭に出た。
校舎1階の角にある図書室の前を通ると、突然ガラリと音を立てて窓が開いた。

驚いてそちらを向けば、気怠そうに口をへの字に曲げた男子生徒。
隣のクラスの荒北靖友だ、と気付いたのは数秒経ってから。


「ん」


白すぎる手に握られていたのは、私の学生証。
完全偏見で、荒北みたいな人が昼休みに図書室にいることにも驚いたし、まるで見計らったように窓が開いて、3年間接点のない同級生が私の学生証を持っている。
そんな状況が飲み込めなくて、へ?と素っ頓狂な声を出して固まった。


「図書室に落ちてたんだヨ」


私の心情を読み取ったのか、言葉を足してくれた。


「でェ、同級生なのに見て見ぬ振りすんのも目覚め悪ィからァ、お前がそこ通んの待ってた」


ぷい、と私と真逆の方向に顔を背ける荒北。
私は、檻から手を出している肉食獣に触れるような緊張感に包まれながら、そっと学生証を受け取った。

触れないように意識すると、却って彼の白い指先が目に入る。


『あ、りがと…』


私のお礼を合図に、彼はパッと手を離した。


「…もう落とすなよ、バァカチャン」


そう言って荒北はにやり、笑った。
じゃ、と向けられた短い挨拶に反応する暇もなく、図書室の窓は閉められた。


あれが多分出会い。
そこから、私は委員の当番で図書室で彼とよく会うようになり、言葉を交わすようになるまでは早かった。

私も自分の高校でありながら詳しくは知らないけど、箱根学園の自転車部はどうやら王者と呼ばれているらしい。
荒北は王者箱根学園の中でもトップクラスの実力者だそう。

学生証を拾ってもらって。
言葉を幾つか交わしただけで、3年間知りもしなかった彼の情報はわんさか入ってくる。

思えば荒北は、図書室にいないときはいつも自転車に乗っていた。
荒北に出会うまでは、道路の端っこを走る妙に早い自転車、くらいにしか思っていなかったあれを、ロードレーサーということも知らなかった。

荒北自身がペラペラと、自転車のことになるとやたらと饒舌になるから、詳しくならざるを得ない、といった方が正しい。


( 本当に好きなんだなぁ… )


夏が近づいて、青さに磨きがかかった空を見上げて、唯ぼんやりとそう思った。


夏にはインターハイがあると聞いた。
しかも舞台はここ、箱根。

ちょっと見に行ってみようか。なんて、思ったのはきっと夏の気まぐれ。

そんなことを考えていると、不意に目眩が襲ってきた。


( くぁ、やば…… )


視界の端から、黒に侵食される。
ふわっとした感覚が全身を襲い、ヤバイ、と思ったときにはもう、立っているのかすら分からなかった。


「ッぶねぇ!」
『っ……』


ドサ、と言う音とほんの少しの衝撃。
そして鼻腔を擽るのは、知っているようで知らない香り。

うっすら目を開けてみるけど、視界は霞んでいて殆ど見えない。でも、聞き慣れた声ですぐに誰かわかった。


「こ、の!バァカ!!」
『あ、らきた?』


息が苦しい。吸っても吸っても、酸素が十分に肺に届いていない感じ。
荒く呼吸を繰り返す私に、盛大な舌打ちが降ってきた。


「チッ、ちょっと揺れっかんなァ」


脱力しきった体が荒北の熱に包まれて、心地良い揺れを感じる。抱かれてる、と理解したところで抵抗できる力なんて残っていなかった。


「このバァカ!炎天下で水分補給もしねェでぼーっと突っ立ってやがって!」


荒北らしい御説教が降り注ぐ。


「なんで日陰に入ったりしねェんだ、バァカ! しかも今回は一周しか走んなかったから良いけどヨォ。それでも1時間以上はかかってんだぞ!ったく、バァカ!」


所々バカという単語が目立つ荒北の言葉は、側から見たら唯の暴言。
でも、多分これは…


『心配、してくれてるの?』
「ッば、バァカ!!! 心配なんて誰がするかヨ!」


ぼんやりと戻ってきた視界で、荒北が首まで赤くなっていくのが見えた。


ねぇ、心配してくれてるって。
思っても良い?






夏の自惚れ


16 09/15





 

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