終幕と予感





灼熱のレースはついに三日目を迎えた。
照りつける日差しは弱まるどころかどんどん強くなり、焼けたアスファルトは陽炎を映し出す。


「よくこんな中走れるよねぇ…」


あっつい、と汗を拭うびす汰にそうだね、と答えて私も飲み物を口に含んだ。さっき買った飲み物はもう温くなっていて、喉を潤すことはできても冷たさで癒されることはできなかった。


「これじゃあ、誰か倒れても可笑しくないね」


びす汰のその言葉が私の心の中で胸騒ぎに火を点けた。不吉なことを、と冗談めかすこともできず、胸騒ぎはどんどん炎の勢いを増していく。


『―…私ちょっとトイレ』
「ん、いてら」


今日も私たちはゴール付近にいた為、さすがにまだ選手は来ないだろうとその場を一時離れた。レース中ということもあり、備え付けのトイレは女子トイレでさえ空いていた。

けれど、この茹だるような暑さの中、備え付けの簡易トイレの中は蒸し風呂状態。匂いもかなりキツくなっているであろうトイレに入るのは、かなり躊躇われる。私はトイレの前をそのまま通過して、少し先にある公衆トイレを目指した。


ちょうど木陰が続き、木々をすり抜けてくる風は涼しく感じた。木漏れ日が肌に心地良い。レース会場から少し遠のくと、それと同時に緊張感も指先から抜けていく。
昨日は僅差で箱学がゴールをとった。王者だ王者だと言われ続けた箱学のプレッシャーも、王者の椅子を奪い取ろうとする総北も京伏の迫力も。全てがこの会場の空気を作り出して、唯の観客である私たちの心さえも震わせる。



「これじゃあ、誰か倒れても可笑しくないね」

「ロードは最後まで、何があるか分かンねーんだヨ」



かなり白熱している、灼熱のロード。荒北が口癖のように言っていた言葉が、びす汰の台詞と交互に頭の中で流れる。
肌の表面も、体の内側も、この暑さでかなり熱を持っているのに、不安が後から後から襲ってきて鳥肌がたつ。嫌な考えも全部流してしまおう、と唯トイレを目指す。


『―…げ、』


そして、暫く歩いて漸く見えてきたのは、女子トイレに並ぶ長蛇の列。みんな考えることは同じだった、と一瞬誰もいない簡易トイレが脳裏をちらつく。
戻ろうかとも思ったけれど、やはりあの簡易トイレに入るのはちょっと…、という思いがどうしても強く、私は仕方なく列の最後尾に並んだ。

それでも暑いからか薄着の女子が多く、意外とすんなりと列は進んでいき、汗が額に滲むよりも先に私は個室の扉を開いた。
トイレから出ると不思議とさっきまでの心のもやもやはなくなっていて、来る時よりもやや軽やかな足取りでびす汰の元へと向かった。

木陰のトンネルを抜けてすぐ、びす汰の姿を見つけた。簡易トイレのあたりをうろうろとしている様子から、びす汰もトイレかな?と呑気に近づく。


『びす汰もトイレー?』
「なまえ!どこにいたの!?」


スマホを片手に、この暑い中顔面蒼白なびす汰を見てトイレで流してきた不安が再び背筋を駆け上ってくる。


『ごめん、向こうの公衆トイレの方行って―…』
「荒北が倒れた」


私の話なんてどうでも良い、と言わんばかりにびす汰が私の腕を掴んだ。その指先は恐ろしく冷たくて、びす汰の唇が紡いだ言葉が脳を直接殴った。


『え、な―…』
「何でかはまだ分からないけど…、さっき箱学の人たちが物凄い勢いで走って行った」


びす汰の話を聞くやいなや、私は駆け出していた。灼熱の箱根を、慣れない靴で。がむしゃらに走った。どれくらい走ったかわからないけれど、呼吸が苦しくなった頃、箱学の部活のTシャツを着て走る人が目の前に現れた。その人たちが向かう先には、救護のテント。あそこだ、と直感した私は走るペースを上げて箱学の人たちを追い抜いて、テントまで一気に駆け抜ける。

関係者以外立ち入り禁止の文字は目に入ったけれど、一瞬で視界の端に流れた。


『―っ荒北!』


バサッ、と勢いよくテントを捲って中に駆け込むと、そこには既に脱落した選手たちが数名と看護師らしき人が数名。各選手に一人ずつくらいの同部活の人が付き添っていた。


「ちょ、ここは関係者以外立ち入り禁止です!」


私の存在に気がついたスタッフが私を追い出そうと近づいてくる。やばい、どうしよう、思考がぐるぐる回転するけれど結局答えがでないままスタッフが目の前に来たとき。


「―…ここォ」


荒北の真っ白な腕が弱々しく手招きするのが見えた。私を呼ぶ荒北に、制止したスタッフも少し怪訝そうに眉を顰めながら引き下がった。
私は選手が休むための簡易ベッドと、スタッフが開けてくれた僅かな隙間を縫うようにして荒北の元へと急いだ。


『…荒北…っ』


私が荒北のベッドに辿り着くと、傍にいた後輩らしき人は身を引いて私のためにパイプ椅子を用意してくれた。私はその子に軽く会釈をして荒北のすぐ隣に座った。ベッドに力なく横たわる荒北は、血の気が引いていつもよりももっと白く見えた。


「どーして居ンの?」


掠れた声は弱々しく私の鼓膜を揺らしていくけれど、それでも久しぶりに私に向けられた声が嬉しくて仕方がない。
今、私たちの間には開いてしまった距離はなくて、あの日ついてしまった汚れも、心なしか薄くなった。


『荒北が、走ってるとこ見たくて』


すんなりと、素直に思ったことが口から出て行く。荒北の名前さえも閉ざしてしまった唇と、同じだとは思えないくらいあっさりと。


「ハ…、格好悪ィだろ」


エースをゴールにさえ運べなくて、と呟く言葉は、初めて吐いた荒北の弱音。


『ううん。格好良かった』


今日はまだ、走っている姿を見ていないけれど。それでも初日に見たカーブに一切恐れない姿も。チームのためにがむしゃらに走る姿も。夏の風を巻き込んで走る荒北は全部格好良かった。


『指先まで震えたよ、荒北の走りを見ると』
「…そうかヨ」


笑いかけると、荒北はぷい、とそっぽを向いてしまった。
ねェ、照れてるの?


『…そのままで良いから、聞いてくれる?』


荒北は何も答えなかったけれど、それを肯定と受け取って独り言のように、脳裏に浮かぶ言葉を並べて紡いだ。
あの日のことが恥ずかしくて、どういう顔で荒北に会えば良いかわからなかったこと。インターハイの邪魔をしたくなくて、荒北に自分から絡みに行かなかったこと。ここ数日の記憶を整理しながら、荒北が何も言わないのを良いことに、懺悔のように話し続けた。


「―…部活落ち着いたら、また図書室行くからァ」


冷房、ちゃんとつけとけヨ。と、ひとしきり話し終えたところで荒北が不意にそう言うから。よかった、まだこの溝は埋められる浅さだった、と。開いてしまった距離は、まだ縮められる距離だった、と。安心感が漸く体の血管を通って全身に巡った気がした。


『うん。今度は私がベプシ用意して待ってるから』
「自分のも買い忘れンなヨ、バァカチャン」


漸く私の方に視線を戻した荒北は、まだやや力ないもののいつもの荒北の表情だった。傍に置いてあるラジオからは戦局が事細かに実況され、雑音混じりに流れてくる。
そのラジオから、総北の勝利と同時に箱学の敗北が告げられた。ゴールを獲った"おのだチャン"は、どうやらレース中に荒北が協調して先頭にまで引っ張っていった子らしく、荒北が複雑な表情で笑っていた。


『…ねェ、荒北』
「ン」


愛想のない返事はいつものこと。それでもちゃんと応えてくれるから、そんな些細なことでさえ好きだという気持ちを擽る。


『荒北って私のこと名前で呼んだことある?』


ギクッ、という擬音は本当はあるんじゃないかというくらい。荒北の反応はまさにソレだった。


『やっぱりないよねェ?私、バァカチャンかおまえ、とかおい、とかしか呼ばれた覚えないんだけど?』


都合が悪くなったからか、荒北は寝返りを打つようにして体ごと反対を向いた。すかさず私は立ち上がって荒北の向く方へと回り込む。


『ねぇ、なんで?』
「るっせ、どーでも良いだろォ」


再び視界に現れた私に、げ、とでも言いたげな表情を浮かべる。それでもメゲずに、私は頬を膨らませた。


『良くない!私にとっては重要なことなの』


荒北はごろり、今度は天井を仰ぐように仰向けになると静かに目を閉じた。


「じゃァ、何か呼び方考えとくヨ」


ふと、びす汰の声が脳裏で再生された。



「ゆっくりね」



そう、私は開いてしまった距離を埋めたくて。出し切った荒北にお疲れ様って。格好良かったって、伝えたかっただけ。
これ以上は、またブレーキをかけることになってしまうから。私は言いたいことを一旦飲み込んで、荒北に笑いかけた。


『うん…、お疲れ様、運び屋さん』


私がそう言うと、まるで魔法をかけられたように荒北は規則正しい寝息をたて始め、私は荒北の寝顔を暫く見つめていた。
思い出したように鞄からスマホを取り出すと、恐ろしい程のメールと着信が入っていて、その全てがびす汰からだった。テントに入る前にも何度も着信が来ていることから、トイレに行っている間の着信か、と画面をスクロールしながら確認していく。

着信履歴を確認したあと、メール画面も開いてびす汰に現状を伝えた。送ってすぐにスマホが振動し、びす汰から絵文字だけ送られてきた。親指を立てたその絵文字は、頑張ったね、よかったね、お疲れ様、了解。その全ての意味が込められているような気がした。

そのまま、何気なくスマホを弄っていると、荒北が咳払いみたいな声で一瞬寝息を乱した。画面から顔を上げて荒北を見つめるけれど、その表情は一瞬曇っただけですぐ元に戻った。

私は再びメール画面を開くと、初めて宛先に荒北の名前を表示させた。ただ一言を打つのに時間はかからず、指先が躊躇う前に勢いで送信ボタンをタップした。

無事に送信完了したのを確認して、私はスマホを鞄の中にしまい、席を立った。音を立てないように立ち上がったが、荒北の指先がぴくっ、と小さく動いた気がした。
そんな荒北の寝顔に少しだけ笑ってから、後ろにいた荒北の後輩に会釈をしてテントを出た。

私のスマホ。新規作成されたメールはびす汰やおかあさん、他の友達などの新着メールに押されて下へと下がっていくけれど。

荒北の名前が先頭に来た時。
私の胸は心踊り、指先は緊張で震えるんだろうなぁ…

遠くから見えた表彰式では、小さい眼鏡の子が何となく目立って見えた。


( あの子がおのだチャン、だったりして )


荒北が運んであげた子。荒北の高校の部活に終止符を打つ前に。運び屋として最後に運んであげた子。


( あの子とは、また何処かで会いそう )


そんな不思議な予感が背筋を擽る、炎天下。
始まったばかりの夏は、今日終わった。




終幕と予感

16 12/23











 

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