夕暮れ影法師





「…最近荒北と一緒にいないじゃん」


窓際の日が当たる気持ち良い席。ただ残念なのは、今が夏であるということ。カーテンを閉めていても夏の熱気にじわりと汗をかく。
そんな自分の席で肩肘ついて顎を乗せる私に、物珍しそうな顔をして問いかけてきたのはびす汰。
びす汰の右手には、中庭で買ってきたであろう少し汗をかいたりんごジュースのパックが握られていて。それを見て、中庭に荒北いた?なんて聞いてしまいそうになる私は末期症状。ステージX。ラストステージで、ジ・エンド。


『…元々そんなに一緒にいないよ』
「そう?見かけるたび一緒にいたような気がするけど」


飲み込んだ質問がバレないように少しだけ視線を逸らしたけれど、びす汰はそれには気付かなかったようで、自席でもある私の前の席に腰を下ろすと窓に背を向けて椅子の背もたれに片肘をかける。


『まァ、受験生と図書委員なんだから必然的に一緒にいることも多かったかもね』


びす汰は先ほど買ってきたと思われるパックのジュースにストローを差して、意味深に笑った。


「でも、その図書員と受験生ペアが見られないってことは、何かあったの?」
『…もうすぐインターハイだしね』


取り繕ったような尤もらしい理由にびす汰もそっかぁ、と頷いた。
本当は、違う。別にインターハイだろうが何だろうが、荒北だって平等に授業を受けているし昼ご飯だって食べる。トイレにだって行くし、相変わらずベプシ補給もしてる。
会おうと思えば、いつでも会える。会えないんじゃない。会わないだけ。

あの日、電車が遅延したおかげで夢みたいな平日を過ごした日。
無理矢理とっていた五センチの距離はあっという間に埋められて。その埋まったたった五センチが愛おしくて仕方なかった。

―…けど。

その五センチが私たちの関係を変えてしまった。






…どうしよう。
もう大丈夫。を言うタイミングを逃した私は、未だに荒北の胸に寄りかかったままでいた。
どちらのものかわからなかった鼓動は落ち着きを取り戻し、規則正しく正常に動いている。

荒北の温もりを感じていたいような気もするけれど、このゼロセンチの距離が続いたら続いた分だけ、今度は逆に離れてしまいそうな恐怖があった。


「腹、減ったァ」


沈黙を先に破ったのは荒北だった。


『そうだね、お弁当食べなくちゃ』


乾ききった口は声を出すことさえしんどい。
絞り出した声を合図に荒北は私から離れて、来た道を戻る。
私も置いていかれないように荒北に続くけれど、その距離は遠い。

背後の私の気配を感じながら、私とつかず離れずの歩幅で歩く荒北。
追いつける距離、追いつける速さ。けれど私は、開いてしまった距離を埋めることができなかった。

天気も良くて、心地よい風が二人を撫でていく中。渾身の出来のお弁当はなんだか苦く感じた。
会話も弾まずに、お弁当の感想なんかも聞かずに。取り出したスマホで電車の遅延情報なんかを見ながら、降り始めの雨みたいな静かな会話をしただけだった。

それから、電車が動いてすぐ。私も荒北も自宅へと帰り、あんなにキラキラしていた平日は一瞬で曇った。
指先を僅かに掠めてしまった油性ペンのように、気付かない内に気付かないくらいの小さな汚れがついてしまった。たった一ミリの汚れは、もう一週間以上取れないままでいる。



「インターハイ、応援行くの?」


びす汰の言葉に、現在へと意識が戻る。
今年のインターハイは、ここ。箱根で行われるらしい。


『…びす汰は?』


元々新開くんファンのびす汰に敢えて質問で返す。びす汰はニヤリと口角を上げて、当たり前じゃん。と笑った。


『びす汰が行くなら、私も行こうかな』


狡い私。口実を見つけたことに少しだけホッとしてしまった。
好きな人を素直に応援に行くことも、開いてしまった距離を埋めることも出来ないのに。友達を利用しているのに。
それでもやっぱり、好きな人に会える理由ができたことが嬉しい。


「じゃァ、一緒に行こうね」
『……うん』


夏の日差しは変わらないし、窓からの熱気はやっぱり私の汗腺をじわじわと開いていく。
けれど、先ほどよりかいくらか教室が明るく見えた気がした。


あれから幾日。過ぎ去っていく時間は確実に夏を連れてきて。
時折自販機の傍で見かける荒北は変わらず涼しげな白い肌をしていたけれど、最後に見かけた時よりもずっと筋肉がついたように見えた。

荒北を見かけるたびに何度も彼の名前が喉を駆け上ったけれど、結局固く閉じられた唇から、荒北の名前が溢れることはなかった。
クーラーの効いた放課後の図書室。学期末テストに追われる三年生は図書室に通いつめるけれど、その中に荒北の姿はない。

図書室を閉める時間が近づいて、あと五分で閉めます、と声かけをすればノートと睨めっこしていた人たちはバタバタと片付けて図書室から出て行く。
忘れ物や戸締りの確認をしてクーラーのスイッチを切る。自分の身支度も済ませて、図書室を出て鍵を閉める。

自分で距離を開けたくせに。
駆け上る名前を何度も飲み込んだくせに。

独りきりの夕暮れは、寂しくて。寂しくて。


『…会いたいな』


それを拾ってくれる人は誰もいなくて。私はオレンジ色が寂しい無機質な廊下に一人影を落として歩いた。
荒北は、まだローラーを回しているのだろうか。広いトラックの横にある、自転車競技部の部室にはまだ明かりがついていた。

革製の鞄の取っ手を握り締めると、ギリッと軋む音がした。
私は誰もいない廊下を足早に進んで下駄箱へと急ぎ、取り出したローファーを玄関へと落としてつま先を滑り入れた。
夏とは言え、もうだいぶ薄暗くなった校庭を横切って自転車競技部の部室へと走る。
薄闇は私の姿を消してくれた。そろり、忍のように部室に近づいて明かりが漏れる窓から視線だけ覗かせる。


「ッアー!!」
( っ、 )


凄まじいローラー音が響く中、二人の影が見えた。


「オラオラオラァ、どォした福チャァン!そんなモンかよォ!」
「口が過ぎるぞ、荒北」


尋常じゃないくらいの汗を流すのは、福富くんと…


『…荒北』


乗ることさえも難しそうな三本のローラーの上で二人競り合うようにペダルを回す。
ノートに向ける視線とはまた違う、もっと荒々しくて獰猛な目。
そんなに一生懸命な目で。必死にペダルを回して。どこに行くの、これ以上…距離を開けられちゃうのは…。


「なまえじゃないか」
『っし、新開くん…』


ぽん、と肩に手を置かれて心臓が跳ねた。
慌てて振り向くと、パワーバーを咥えたまま微笑む新開くんがいた。


「荒北か?呼んでこようか」


新開くんの提案に、私は思い切り首を横に振った。
もう首から上があんぱんのあのキャラみたいに千切れて飛んでも良い。

荒北に私の存在は知られたくない。


『いい。いいの。まだ明かりがついていたから覗いただけだし』


そんな私に新開くんは声のトーンは変えないまま、そうか。と頷いた。
なんだろう、物分りが良いのかそれとも鈍いのか。イマイチ掴めない新開くんにちょっと戸惑う。


「まあ、もう二時間も回してるからそろそろ終わると思うけど」


待ってる?なんて提案も勿論思い切りお断りさせていただく。


「そうか、おめさんもあんまり遅くならにようにな」
『うん、ありがとう』


新開くんに言われた通り、帰ろうとする私に何故かパワーバーを握らせて新開くんも部室へと入っていった。
あれかな、大阪のおばちゃんがやたら飴くれるみたいな感覚なのかな。

私は掌のパワーバーを見つめ、それを鞄の中に入れると家路に着いた。
まだ僅かに照らす夕日は、私の影をこれでもかと伸ばしていく。

道に落ちるのは、私の影だけ。
独りきりの影が、住宅街に伸びる。何をしていても、意外と私の頭の中は荒北がいるのに。
少なくとも、荒北がロードに跨っている間は、彼の中に私の存在なんて欠片ほどもなくて。
それが寂しくて。でも、そんな荒北さえも好きで。

ヤキモチや嫉妬よりも、もっと大きくてどす黒い。
彼が好きだという、自分自身の想いが胸の内側を切り裂いて抉っていく。

そんな夏、インターハイまであと二日。





夕暮れ影法師

16 12/2











 

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