唇に、君の名前を





恋は苦手だ。
人生で1秒たりとも戻ってこない時間なのに、たった一人の人間がその1秒を当たり前のように奪っていく。

その1秒は時々、宝物のようにキラキラしていたり。
曇り空のように重く暗い色に変わったり。

嫌なんだ。決して戻ってこない時間を一人の人間に大して一喜一憂しながら失っていかなくてはならないことが。なのにどうして、

私は、どうやら貴方が好きらしい。


「みょうじチャーン」
『…何、荒北』


教室の後ろの入り口に一番近い席。その入り口から呼ばれた自身の名前に反射的に振り向くけれど、そこにあった見知った顔に振り向いたことと、入り口に一番近い席になったことを少し後悔する。


「辞書貸してー」
『は?なんで。寿一くんに借りなよ』


わざわざなんで、私なの。寿一くんだって絶対に持ってるし、寿一くんは荒北のクラスの隣。私は渡り廊下を渡った先にある、荒北のクラスの隣の隣。寿一くんに借りた方が早い。ていうか効率が良い。

…そもそも、どうせ机に突っ伏して寝てる荒北に辞書は果たして必要なのだろうか。


「福ちゃん、移動教室でいなかったンだヨ」


いいから貸せ、と。およそ人に頼む態度ではない荒北に溜息を吐いてみせる。


『はー。単純に疑問なんだけど、あんたはこの重い辞書を持って帰っているの?それとも無くしたの?ん?』
「るっせ、後者だよ後者」


オラ、と手を差し出してくる荒北に、やれやれ。とわざとらしく呆れて辞書を渡した。


「あンがとねェ」


にやり、笑った荒北は辞書を手に自分の教室に帰っていった。


「なぁに、また荒北ー?」
『うん。辞書だって』
「…あいつに辞書いるの?」


荒北と入れ違いで教室に入ってきたびす汰が、私と同じ感想を述べながら、片足だけ廊下に戻して荒北の背中を視線で追いかける。


「なまえがこの席になってから、あいつ頻繁に物借りに来すぎじゃない?」
『それな。ホント同感』


荒北が見えなくなったのか、もうどうでも良いのか。
びす汰は漸く全身教室に入れると私の机に片手をついて意地悪く笑う。


「あんたのこと、好きなんじゃない?」


びす汰の悪魔みたいな顔に、耳の先まで熱くなる。
絶対に赤くなっている顔を、びす汰に見られまい、と指先まで引っ張ったセーターの裾で顔を隠す。


『そんな訳ないでしょ。あいつ、ロードと部活仲間以外に友達いないのよ』


私だって、たまたま委員会が同じで話しただけだし。と鼻で笑うふりだけしてびす汰の質問を躱す。
上手くいったのか、びす汰はふーん。と面白くなさそうに呟いた。


「まあ、荒北は本当に自転車が恋人ってくらい部活一筋な奴だしね」


びす汰は、色気が無いねーなんて笑う。
荒北に色気がないのは本当だし、色気がないことは私にとって好都合なんだけど。それは誰にも言ってないし、これから先も言うつもりはない。

もし、これを。この胸の端っこで走り回る感情を恋だというのだとしたら。
今はまだ端っこを走り回っているだけでも、暴走して飛び出していって。勝手に玉砕でもしたら、その欠片を拾うのは惨めだし、欠片を拾っている私の背中は、誰にも見られたくないから。隠して隠して、私だけが知っていれば良い。
それで良い。荒北にさえ、知られたくない。
願わくばこのまま、勝手気儘に心の中で、走り回るだけの感情でいて。


「そんなことより聞いて!新開くんがね、私にバキューンポーズ見せてくれたのー!」


急に声色に黄色が混ざったびす汰に、少し驚きながらも話題が変わったことにホッとする。
びす汰は隼人くんのファンらしい。勿論恋人になるに越したことはないけど、ただ見て、応援して、それに応えてくれるだけで幸せになるんだと、びす汰は言う。
びす汰の話を聞けば聞くほど、私のこの感情はそれとは違うんだな、と痛感するしかない。
走り回る足音は甘く、甘く、心の内側からじわりと染み出して何時の間にか指先にまで染み渡っている。

この甘い感情は、憧れや見てるだけで幸せ、なんて。
そんな風に言えるような純白の思いではなくて、かと言って、淡い初恋みたいな初々しい桃色でもなくて。

誰にも言わずに隠しているのは自分なのに、荒北を取られたくない、と心から思う自分の欲の色に染め上げられたこの感情は、ただの片思いよりも濃くて重い色をしていると思う。
それを何色というのか、私には皆目わからないけれど。


「でさ、新開くんから聞いたんだけど、荒北にね」


ぼーっとしていてびす汰の話を半分以上聞いていなかったけれど、それでも恋する耳は怖いことに好きな人の名前は嫌でも拾う。


「好きな人がいるらしいのよ」
『………っ、』


……息が、止まるかと思った。
肺に空気を送る方法を忘れて、時間も血流も神経も止まった気がして。なのに自分の鼓動だけは大きく聞こえる、不思議な瞬間が訪れた。


『それは、良いことなんじゃない?』


慌てて呼吸を取り戻し、取り繕うように笑う。


『てか、ついさっき色気がないって笑ったのはびす汰
でしょ?』
「そうなんだけどね。新開くんは、そういう人の感情を弄ぶような嘘はつかないと思う」


びす汰のフォローに、頭が痛くなる。
そう、確かに。隼人くんは冗談を言ったりはするけれど人を傷つけたりするような嘘は言わない。

だからこそ、痛い。隼人くんの言っていることが本当なら、それは私にとって不都合どころか絶望に近い。


「あ、そろそろ先生くるから席戻るわー。また後でね」


徐々に自席に着き始めるクラスメイトに倣って、びす汰も私に絶望だけ残して自席へと戻って行った。


( 好きな人、か… )


好きな人の好きな人は、きっと永遠に相容れない存在。
その相手が荒北のことを好きかどうかは分からない。
だから、ライバルでさえない。同じ土俵に立ってすらもらえない。スタート地点が違う相手。
それでも、好きな人の視線や感情が私じゃない人に向かっていると思うと、どす黒い感情が渦巻いて、自分じゃ制御できなくなる。

これだから、恋は嫌。嫌い。苦手。
大っ嫌いな椎茸よりも嫌い。自分のことなのに自分じゃどうしようもなくなる。でも、誰にもどうにもできない。
私はただ、振り回される他ない。

退屈な授業は耳を通り抜けて欠片さえ残さない。
廊下の窓の外は11月の重い空が広がっていて、54年ぶりに11月に雪が降るんじゃないかと騒がれている。

そんなこと、知ったこっちゃないけどさ。
この重くて暗い空は、今の私の心を表しているようだから。空にさえ、見透かされているようでちょっとだけ不安になった。









「…ンなとこで寝てっと、風邪引くぞォ」
『ん、』


肩を揺すられて、意識が浮上してきた。
真っ白だった頭の中に一瞬で最後に見た風景が思い出される。


『…っ!!』


ガバッと起き上がると、もうすっかり暗くなった教室。
あれ?なんで?どうして?

あ、そうだ…。
HRが終わって?びす汰は新開くんの部活を見に。
私は?なんだか妙に眠くて、びす汰を待ってる間に一眠りしたんだ。そうだ、そうだ。


『…ってことは、今何時?』


暗い教室の時計が差すのは19時。思っていたよりも遅い時間に焦燥感が指先まで広がる。


「ンでこんなとこで寝てンだよ、バァカ」
『げ、荒北』
「てめ、今ゲっつったろ」


折角迎えにきてやったのに、と付け加える荒北の言葉に疑問符が浮かぶ。


『? びす汰は?』


本来なら私の肩を叩くべきなのはびす汰では?
なのに、目の前には不機嫌そうに下唇を曲げた荒北の姿。
部活を終えたからだろうか、荒北からシャンプーみたいな柔らかい匂いが、ほんのりする。


「あー、なんか新開とどっか行った。みょうじチャンが教室で待ってるっつーから代わりに来たンだよ」
『びす汰、最近隼人くんとよく一緒にいるよね』


びす汰からの話を聞いていると、隼人くんと2人でいることが多い気がする。
びす汰とのここ最近の会話を思い出している私に、荒北が爆弾を投下してきた。


「あいつら付き合い始めたンだろ?」


荒北の声に、頭を殴られたような衝撃を覚えた。
なにそれ。聞いてないけど?


『し、らない……そうなの?』
「っつーか、オレもさっき聞いたしィ」


「バキューンポーズ見せてくれたの」

一瞬、びす汰のセリフが脳裏を過る。
隼人くんのバキューンポーズは、必ずしとめるって合図…
ということは、そういうこと。でもまだそのときは付き合ってなくて?あれ、でも今日からなの?

荒北は色々考えている私の隣の席にドサッと腰を下ろした。
暗い教室はそれだけで普段とは違う風景に見えるのに、そこに荒北が加わると最早CG並みに違和感しか感じない。

まだびす汰のことで脳は揺れているのに、目の前の光景が不思議で特別で、キラキラして見えた。


「ンだよ」


私の視線に気がついた荒北は、怪訝な顔で私を見見遣る。
私の方に体を向けて頬杖をつく荒北。いつもそうやって授業受けてるの?知らなかった荒北が、暗い教室ではよく見える。


『なんでもない…いや、でも…付き合えたんだ。良かった』


荒北へ向けた視線をそっと外して、真っ暗になった窓の外を見つめた。教室の窓の外の空は暗くて、グラウンドはサッカー部がまだ部活をしているのか、ライトアップされている。


「…みょうじチャンは好きな奴居ンの?」


突然の質問に、ビクッと肩が震えた。
構えていないときにその質問はずるい。


『………いる、かもね』


寝起きだからか。それともまだびす汰と隼人くんとのことに動揺しているからか。はたまた好きな奴からの質問だったからか。
あれだけ誰にも言わないと決めていたのに、本心がサラッと口から溢れでてしまった。


「ふーん。誰?」


オレの知ってる奴?と追求してくる荒北にまた視線を戻す。荒北の瞳は、どこか不安気に見えた。


『誰って…聞かれて答えるわけないでしょ』
「…何、もしかして新開ィ?」
『はぁ?何言ってンの、バカじゃない?』


私が言うのを躊躇っていると、何を勘違いしたのか斜め上の答えに思わずムキになって反論してしまった。


「ハ!ムキになっちゃって、あーやしィ」


荒北は私から視線を逸らして、頬杖をついていた掌に、今度はつまらなさそうに顎を乗せた。


『どうしてそうなるの。私が好きなのは隼人くんじゃない』
「新開は下の名前で呼んでんじゃねーか」
『寿一くんのことも名前で呼んでるよ』


私からの指摘に、荒北の視線は斜め上を見上げる。ほんの数秒考えた荒北は、それもそうか、と納得したらしく小さく溜息をついた。


「…じゃー、なんでオレは苗字なわけェ?」


その質問に私の心はギクリと震えた。
隼人くんは1年のときに同じクラスだった、と言い訳ができるけれど、寿一くんとはクラスが同じになったことはないし、会話なんて数える程しかしていない。隼人くんとの会話の中にちょこちょこ出てきた、というだけでは男子を下の名前で呼ぶ理由が薄い。
荒北のことは恥ずかしくて、とてもじゃないけれど名前でなんて呼べない。荒北の名前が唇を滑るだけで、心臓は痛いほど胸の内側を叩く。
でもそれを説明するには、荒北が好きだと伝えなければならない。あんたのことが嫌いだから、なんて。冗談でも言えないから…


『……何、名前で呼ばれたいの?』


いつも通りな私を演じながら、質問に質問で返す、必殺技に出てみた。私の予想は、別にィ。と興味なさげに呟く姿。でも、現実の荒北の反応は…


「…呼んでくれンのォ?」
『ぇ…』


予想とは違う答え。逸らしたままの視線は不安気に揺れていて、でも掌の隙間から見える白い肌は少し赤くなっていて。
どういうリアクションとして受け取って良いか分からずに固まった。


「ハッ…気にすンな。オレぁ嫌われモンだからよ」


私のリアクションが荒北にどう写ったのか。聞かなくても分かる。
荒北の言葉の端々から漏れ出ているのは、自分を傷つけないための防御。


『…ごめん』


口をついて出た言葉は、このタイミングだと最悪だった。すぐ答えられなくてごめん、の意味が全て隙間を通り抜けて消えていく。
無意識に、本当にポロリ。唇から落ちてしまった言葉が荒北を殴ったような気がした。


「…いーヨ。別に」


なんて、寂しい言葉。
聞いたこともないような声色に胸が締め付けられる。


『そんな言い方しないでよ』
「あ?何時も通りだろ」
『違うよ、全然…』


こっちを向いてくれない荒北の横顔に、奥歯に力を入れるように小声で訴えた。
全然違う。セリフだけを見れば、いつもと変わらないのかもしれない。

でも、鼓膜が違和感だけを残して揺れる。こんな喉に引っかかるような声は私の知る荒北の声じゃない。
喉にフィルターがかかっていて、篩にかけられた声だけが漸く唇の隙間から漏れてくるような。
私が好きなのは自信満々で、余裕があって。前だけを見ていて、迷いのない荒北のまっすぐな声。


「…オレ、帰るわ。おまえも遅くなり過ぎンなよ」


ガタッ、と床に椅子の足が擦れる音と衣擦れの音。寂しげな声を残して荒北は立ち上がった。
暗い教室では禄に荒北の表情も見えないけれど、微かに見えた荒北の横顔は泣いている子どものようにも見えた。

止める暇もなく、荒北は廊下へと出て行く。あァ、今。廊下側の入口に近い席であることを人生で一番後悔してる。
…って、いうか。後悔してる場合じゃないでしょ。次の後悔が襲ってくる前に。後悔のフラグを叩き折らなくちゃいけない。

私は荒北が立ち上がったときよりもずっと大きな音を立てて、椅子から勢いよく立ち上がると廊下へと飛び出た。
真っ直ぐ伸びた廊下にはまだ荒北の後ろ姿が見える。うん、やっぱり廊下に一番近い席で良かった。

私は駆け出すとともに、肺いっぱいに空気を送り込んだ。


『―…っ靖友…!』


精一杯の恋心を乗せて、届け、届け。冬の廊下を、風よりも早く駆け抜けて、彼の裾を引っ張って、こっちを向いて。

願いが届いたのか、それとも唯声が届いたのか。無機質で二人きりの廊下には、上履きのゴムの音さえ響くから。
彼がどれに反応して振り向いたのかは分からない。薄暗い廊下は、表情さえも隠してしまうから。

私は次の言葉を紡ぐよりも先に、廊下を駆け出した。
ごめんね、弱虫で臆病で、自分のこと守ってた。

恋って難しいし、口にするのは簡単だけれど、いざ立ち向かうとその巨大すぎる壁に後ずさりしてしまう。
攻撃を仕掛けようものなら、防御の呪文は役に立たなくていつだって深手を負う。
逃げることはできても、それには後悔が付きまとう。

面倒くさいし、叶わなかった恋に費やす時間は勿体無い。
今だって実際、面倒な問題にぶつかったと思ってるし、これで私の恋心が粉々に砕けたらどうしようかとも思ってる。

でも二人きりの暗い廊下。きっと、砕けた恋心をかき集めている姿も。
その欠片を捨ててる姿も誰にも見られないと思うから。

振りかぶって、投げつけてしまおう。
心の中にいつまでも仕舞っておいて、腐ってしまった恋心の方がきっと。砕けてしまった恋心よりも惨めで情けないから。


『…待って!』
「う゛ぉっ、」


荒北の振り向きかけの体に全力で飛び込んだ。触れられなかった距離は今、もうどこにもない。
一瞬で荒北の匂いに包まれる。柔軟剤の優しい匂いと制汗剤の香りとシャンプーの匂い。全部合わさって荒北ブレンド。
その匂いを少しも漏らすまい、と荒北の細い腰に両腕を巻きつけた。


『ごめん、ごめんね。逃げてただけなの!』
「ちょ、わァったから離せ!」


珍しく慌てた様子の荒北を完全無視して、逆に荒北に巻きつけた腕の力を強める。


『やだ、このまま聞いて!』


砕け散る前に、この恋がゴミ箱に捨てられてしまう前に。荒北の匂い全部閉じ込めて独り占めして。
この距離で砕けた恋心ならきっと、欠片を拾い集めるのもそんなに大変じゃないはずだから。

私のお願いに、逃れようと身じろぐ荒北は動きを止めて私の腕の中に素直に収まった。


『私の好きな人なんだけど…、』


荒北の体が小さく震えた。背中に押し当てた耳に荒北の鼓動がよく響く。
なんで荒北が震えているの?…それともこれは、私の震え?


『隼人くんでもないし、寿一くんでもない。でも、荒北がよく知ってる人』
「オレがよく知ってる奴ゥ?」


結局ビビってクイズ形式になってしまったけれど、荒北はきちんと答えてくれる。


『う、ん…自転車が好きで、犬派なの』
「あ?チャリ部にンな奴いたか?」


ガシガシと少し荒く自分の後頭部をかき回す荒北に、もう少しヒントを。


『その人は、オールラウンダーなの』
「オールラウンダー……福ちゃんとオレ、と…」


指折り数える荒北に、私の心臓は速くなっていく。確実に寿命が縮まっている中、私は最後のヒントを出した。


『毎日ベプシ飲んでるし、しかも三年なのに辞書無くして、わざわざクラス跨いで借りにくるの』
「…それ、」


荒北が自分で答えを出す前に、私は荒北の細腰をよりきつく抱き締めた。


『っ、私が好きなのは、荒北なの…!』

どシンプルなセリフが私の羞恥心に致命傷を与える。ほんの数秒なのに、沈黙が心を削っていく。

荒北の反応が怖くて、そっと荒北から離れて表情を伺おうとすると、


「っば、バァカ!今見んな!」


荒北の真っ白な手が私の視界を覆った。でも、一瞬だけ見えたのは耳の先まで赤くした荒北の姿。


『顔、見せて』
「い、や、だ。おまえだって顔見られないように、オレの背中に顔埋めてただろ」


それもそうだ、自分のことを棚に上げて荒北の顔見たいなんて。でも、そんなこと言ってられない。


『いやいや、荒北は私の顔が見たいとは言わなかったでしょ?しかも、最近私に物借りすぎよね。お返し、してもらってないんだけど』
「それ、ここで出すとか狡すぎンだろォ…」


ちっ、と小さく舌打ちしてから漸く手を離してくれた。


「ぜってぇ笑うなヨ」


ゆっくりと開かれていく視界には、そっぽを向いたままの荒北。その顔はやっぱり耳まで真っ赤で。
笑うな、って言うけど。笑えないよ、こんなの。
その反応は予想してなかったもん。ねぇ、その顔…


『私、のこと…』


荒北も半ばヤケクソみたいに私に向き直って、恥ずかしさを誤魔化すみたいに怒鳴られた。


「あァ、そーだヨ!オレぁみょうじチャンのこと好きなんだヨ!悪ィか!」


告白にしては声量は大きいし、語尾だって強い。でも、衣擦れの音もしない、誰もいない廊下、グラウンドの光が差し込む薄暗がりの中で、2人の鼓動が重なって、荒北も私も顔が赤くて。

むず痒い、青春がそこに生まれた。


『ううん、悪いわけ…ないじゃん』


私はもう一度、荒北に飛びついた。


「みょうじチャンが丁度良い席になったからァ、使わないものまで借りに行ってたんだヨ」


言うつもりはなかったけどな、と不本意そうに呟く荒北の言葉に、脳裏を過るのはやっぱりびす汰の言葉。

「あんたのこと、好きなんじゃない?」


びす汰、大正解だったよ。
私にとって期待の欠片もなかった、びす汰の何気ない言葉だったけど。あの時は、こんなことになるなんて思ってもみなかった。


『荒北と両想いだね』


言葉にすると、目に見えない何かが心を擽った。小躍りしそうなくらい嬉しいのに、荒北はどこか不満そうに口を曲げていた。


『…なに』
「…呼び方ァ」
『呼び方?』


不満そうな歪んだ唇から、零れてきたのは単語。呼び方、と言われて頭をフル回転する…までもなく。先ほどの教室でのやり取りがフラッシュバックする。

荒北だけ苗字で、ほかの人は下の名前。全ての答えを知った今、あの時の荒北の表情の意味がわかった。
遠ざかる荒北の背中を引き止めたのは、精一杯の彼の名前。あの時は、いっぱいいっぱいすぎて恥ずかしさも何も無かったけれど、いざ呼ぼうとすると羞恥心しか出てこない。


『いやいや、よく考えて?私が苗字で呼ぶのは荒北だけなんだよ?』


そっちの方が特別じゃない?と、無理矢理納得させようとしたけれど、それは無駄なことだったらしい。


「じゃー、オレだけ名前で後は苗字で良いだろ」


そっか、そうきたか。なるほど、さすがだ。


「走ってきて、勢いよく抱きついてきてェ?オレに好きだっつって、今更名前呼ぶのが恥ずかしいのかヨ」
『わぁぁあぁ!言うな言うな!掘り返すなバカ!』


要らんことまで言ってくる荒北を軽く睨みつける。
荒北は勝ち誇ったように笑うから、それが悔しくて仕方ないから、私も完全に油断してる荒北にカウンターを食らわせた。


『…なら、荒北も私を下の名前で呼んで』


みょうじチャン、じゃなくて、なまえって呼んで。
私の勝ちね、という意味を込めて微笑み返すけれど、このカウンターは荒北には効かなかったらしい。


「なまえ」


いとも簡単に、荒北の薄い唇が奏でたのは私の名前。
好きな人に呼ばれると、自分の名前でさえこんなにも素敵に聞こえる。


『っ、ずるい…』
「オレは呼んだから、次はおまえの番だなァ」


後ずさる私を逃がすまい、と、荒北は私のすぐ背後の窓に自身の右手をついた。唯の壁ドンならまだしも、荒北は拳の側面で窓を叩いたから、肘から拳にかけてを窓につけている。荒北の顔が、唇が、かなり近い。


『ちょ、近い…』
「わざとだヨ。オレぁもう腹ペコなんだ。いつまで "待て" させンだよ」


くっ、と口角を上げて笑う荒北からはもう、逃れられないらしい。諦めたように、靖友、と小さく呟くと同時に。


「いただきマァス」


靖友に、食べられた。



唇に、君の名前を

16 12/16





 

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