第章:あの晩















―…あの日の空も、晴れていた。
雲一つ無い青天で、あたしは出掛ける父に言った。


『いってらっしゃい』


振り向いて、行って来ます。と微笑んだのは夢の中で。
実際のあたしは、その日、"いってらっしゃい"が言えなかった。
何で、今日に限って。
そう思って、哀しくて、自分を恨んだ。

昨日の晩、あたしは眠るのが遅かったの。
だから、今日はもう少し寝かせて。

まどろむ中、誰にでも無く、唯頭の中でそう呟いた。

誰かが部屋に入って来た。
お父さんだ。
そう直感したけれど、睡魔によって閉ざされた瞼は、開ける事を許さない。


「兄弟達を、宜しく」


あたしの枕元に、優しい声を落とす。
凜としていて、でも優しくて。
何処か強気で、だけど綺麗で。
そんな父の声が大好きだった。

母は死んだ。
以来、父は瀞霊廷には住まずにあたし達と共に流魂街に住んでいた。
絵本を読んでくれた。
一緒に歌を歌ってくれた。
料理は少し下手だったけれど、勉強は教えてくれた。

そんな父のが大好きだった。


「行ってくるね、なまえ」


ダメ。

ダメ、行っちゃ。

ダメ、ダメ。

早く止めなくちゃ。
行ってしまったら、帰って来ない。

嫌、行かないで…ッ
ダメ。待って…







『待ってッ』


ぬるぬるとした、嫌な汗が噴き出す。
額に汗で前髪が張り付いていて、それが更なる不快感を呼び起こす。
無意識に伸ばしていた腕は、ずっしりと重かった。

伸ばした腕は、父の面影に触れるどころか、夢の断片にすら触れない。

荒い呼吸だけが、一人きりの部屋に響く。
まだ見なれない天井。

ああ、此処は瀞霊廷。
あたしは死神になったんだ。

兄弟達はそれぞれ自立した。
妹は、同じ様に霊術院に入った。

この悪夢に魘されて、何度夢を途中で投げだした事か。
何故、あの時あたしは起きれなかったのだろう。
何故、その前夜に早く眠らなかったのだろう。
後悔ばかりが、あたしに重く圧し掛かる。

苦しかった。

でも、それよりも憎かった。

アイツが、あたしの全てを変えた。
アイツを殺すまで、あたしは―…

伸ばした腕を、胸の前で固く握った。
あたしは…
その先が思い付かなかった。
アイツを殺したからって、全てを許せる訳じゃない。
父が帰って来る訳でもない。
全てが終わる訳でもない。
あたしは結局どうしたいのだろう。
アイツを殺して、その後は?

…ふと、朽木隊長の顔が浮かんだ。
朽木隊長は、雰囲気が父に似ている。
凜としていて、気品が有って、強気で、綺麗で…
父に憧れていたし、尊敬もしていた。

恋をするのも、良いかもしれない。

なんて。
人を殺す事しか考えて無い奴が、考える事じゃない。と自嘲気味に笑った。
昨日の事の様に瞼に妬き付いて離れない残像。
あれは夢では無い。

傷だらけの父。
あたしの目の前で、留めを刺したアイツ。
気味の悪い微笑みを浮かべたアイツは、まるで蛇の様だった。







あの晩、確かに"憎しみ"は其処に有った。
お父さんの呆気ない"死"という悲劇の元に誕生した、哀れな"憎しみ"。

あたしは父の忘れ形見として。
今日も"憎しみ"と共に生きる。




妙な感じがした。
これが胸騒ぎという奴なのか。
ざわざわと、心が落ち着かない。

何だろう、これは。

今朝、起きたら父が居なかった。
明け方の、ぼんやりとまどろむ中で『行ってくるね』という父の声を聞いた気がした。

何時も欠かさずに『いってらっしゃい』と言うのに。
今日だけは言えなかった。
それが、この胸騒ぎに関係しているのか。

兄弟達も寝静まった後、あたしは一人、家を出た。

父の働く、瀞霊廷。
父は何か有ったら来なさい。
と、通行書をあたしに預けていた。

これが無いと旅禍なんかに間違えられちゃうから、大変なんだって。
父がよく言っていた。

あたしは通行書を翳し、通行許可を得た。


夜も更けていた。
瀞霊廷も静まり返っている。
見なれない風景の中、あたしはきょろきょろと辺りを見回しながら歩く。


ふと、父の"気配"を感じた。
父が其処に居る、という"気配"。
これを霊圧と言うのだと、父に教わった。

あたしはその"気配"を辿る様に歩いた。


その先に有るのが、"死"という理不尽極まりない舞台で。
あたしの人生が一転してしまうなんて、この時はまだ、気付いていなかった。





そっと茂みの中から様子を伺う。
此処は確か、五番隊の隊舎裏。

其処から見えたのは、月明りに照らされた父の姿と、あたしと同じくらいの年頃の男の子。

男の子は不気味な笑顔を貼り付けていて、唯じっと、父を見つめていた。
鞘から刀身を引き抜き、独特な構えで立つ。

父が、笑った。

期待している様な、笑顔で。
何処か愉しそうな、瞳で。

同じ霊力が有っても、死神等には全く興味を持たなかったあたし。
そんなあたしに無理強いはしなかった。
けれど父は、心の何処かでは、あたし達に死神になって欲しかったに違いない。

…でも、あたしは…

あたしも死神を目指していたら、父もそういう表情を向けてくれただろうか。
悔しかった。

見た事の無い、父の顔を。
真正面から受け止めている男の子に嫉妬した。
でも、そんな感情も一瞬で消え失せる。


「―…射殺せ・神鎗…」
「……ゴフッ…」


刃が月明りを浴びて、父を貫いた。
夜の闇に映える、紅。
それはまるで、蝶が飛んでいるかの如く、鮮やかで軽やかに。

しかし、その美しさの裏に隠れる牙が、"死"という悲劇の幕を切り裂いた。
理不尽で、そして、呆気無く。
父はあっという間に、"死"の舞台に引き込まれた。

あたしは慌てて駆け寄ろうとしたけれど、脚が震えてその場から動けなかった。


「…ッなまえ…ヒュッ」


父が、息も絶え絶えにあたしの名を呼んだ。
もしかして、あたしが此処に居る事に気が付いているのか。
でもその瞳に、光は見えなかった。

そんな父に、男の子が近付く。
どうしよう、止めなきゃ。止めなきゃ。

そう思っても、体が動かない。
嫌、ダメ。

動いて。


男の子は、倒れた父を見降ろした。

それはそれは、至極愉しそうに。
無邪気な子供の様に。

そして、もう一度。
彼は刀を振り下ろした。


「ぐああぁぁぁ!!」


聞いた事も無い、父の叫び声。
涙が出た。


「…なまえ…ッ
兄弟達を…頼む…よ…」


そう呟き、父はピクリとも動かなくなった。






何で、何で、何で。

傷だらけの父。
あたしの目の前で、留めを刺したアイツ。
気味の悪い微笑みを浮かべたアイツは、まるで蛇の様だった。


男の子は少しの間、ぼんやりと父の亡きがらを見つめた後、何も無かったかの様にた去って行った。
その顔には、何処か満足気な表情を浮かべて。

あたしは震える足で、横たわる父の傍に行った。
当然の如く、彼の瞳に生気は無く、死に顔は死神に魅入られた様に美しかった。


『ッあああぁぁぁぁぁああぁあぁあ!!』


叫んだ。
月に向かって。
その姿は、吠える獣と大差ない。

それでも叫んだ。
喉が切れてしまう程に。

それしか出来なかった。
哀しみよりも強い、憤りに、体を支配されそうだった。
叫ぶ事で、どれを放出したかった。
胸の中を渦巻くドス黒いモノは、この日、この晩にあたしの中に芽生えた。

あたしの目の前で、父を殺した男。
何故、父が殺されなければならなかったのか。

あたしは不思議で、哀しくて







…憎くて…






唯、泣いた。
制御しきれない想いを吐き出す様に、泣いた。
涙になって零れる感情。

それが愛なのか、哀なのか。

区別はつかなかった。

自分の中に沸き起こる、今までに感じた事の無い気持ちを吐き出したくて。





―ザッ…


誰かが、あたしの目の前にやってきた。
その人もまた、死神の格好をしていた。
もうこれ以上、父を傷付けてなるものか。
あたしは父を抱え込む様にして、庇った。


「…酷い事をする…」
……え…


叫び過ぎたからか。
泣き過ぎたからか。
喉が切れて、声が掠れる。


「…僕は、君の父上の上司だ」


父の…上司…


『藍染副隊長と言ってな。
穏やかで、優しい人だ。
戦闘能力にも優れていて、人望も厚い。
とても、凄い人だよ』


父の言葉が蘇る。






藍…染ふ…隊…ちょ…?
「そうだよ。
…ああ、可哀相に。喉が切れてしまっているのだね」


あたしの声に、眉を顰める。


「大人しくしていなさい。治してあげよう」


彼は何か呪文の様な言葉を言うと、あたしの首に手を当てた。
温かいオレンジ色の光が、喉を包む。
ああ、これ、知ってる。
"きどう"って奴だ。

父が四番隊で働いていた頃、こうして怪我をした時は治してくれた。
温かくて、心地良い。


「これで大丈夫だろう」


彼の手が、あたしから離れた。
喉が痛くない。


『有難う御座います…』


声も掠れていない。


「良いんだ。
それより、父上の方だが…」
『…ッ』


嫌だ、訊きたくない。


「…こちらで、手厚くするよ」


そんなあたしの心情を読み取ったのか、彼は直接的な言い方は避け、宥める様に優しい声色で呟いた。
あたしは頷いて、両手を離した。
父の温もりは、もうとっくに失われていた。

彼は父を抱き上げると、じゃあ。と呟いて去って行った。

あたしの心の中で、ゆらゆらと蠢く小さな黒い炎。
憎しみ、恨み、哀しみ、怨念、全てが詰まった炎。
あたしは誓った。
腕の中で消えて行く父の温もりに。


『アイツを…アイツを殺す…ッ』


不気味な微笑みを湛えた、銀髪の男。
蛇の様に不快感を与えるアイツに、あたしは復讐を誓った。






ボクの手は、紅色に染まっていた。
咽返る、鉄の匂いが充満する中、ボクは唯立ち竦んでいた。
目の前で動かなくなった彼を見つめながら。

これでボクに、居場所が出来た。
その事実だけが、妙に嬉しくて。

血に染まった彼の綺麗な顔は、黒で塗り潰されとって。
もしかしたら夢なんやないか・と疑ってしまう程、何処か遠くの出来事の様やった。

綺麗な三日月が、夜空に浮かんどった。


凜とした空気のお陰で、星が良ォ見える。
綺麗過ぎる夜空は、この鉄の匂いが充満した血の海では、場違いにも思えた。

ボクはそのまま、微笑みを湛えてその場を去った。


何事にも始まりは有って
何事にも終わりは有る。
それが世の中の理で
全てやから。

ボクはあの日、人を殺した。
それが始まり。
ボクの手が血に汚れたのは
そう、あの日。

目の前に広がる光景。
血は朱くて
血は汚くて
血は...


―……ボクの眼の色…








混沌とした
憎しみと恨み、欲望と哀しみ。
それが交わり
運命が交差した。

ボク等が道を踏み違えたのは
この時点。

ボク等が出逢ったのは
この時点。

全てが夢やと願った。
全てが夢やったら
君と違う出逢い方を
してたんやろうか。






そして振り子は戻り
現在に。
運命のゲームは少しずつ佳境に入る。
子供の笑顔は少し歪んで見えた。





『藍染…サン…』


突然現れた五番隊隊長、藍染惣右介。
まるで全てを見ていたかのように、完璧なタイミングで。
そない彼の名前を、少し掠れた声で呼ぶ彼女。


「や、元気そうで何よりだよ。
みょうじ君」
『お久しぶりです…』


極普通の会話を繰り広げる。
久しぶりっちゅう事は、前にも会うてるって事?
何時?何処で?何故?


『ッ失礼します』


場違いやったボクの疑問を抱いたこの心は、彼女が立ち去った事によって形を成し得た。
藍染隊長が姿を現し、彼女はすぐに立ち去った。
黒い髪から薫る、シャンプーの残り香だけを置いて。


「ギン、覚えているかい?」
「…何をですか」


鼓膜を揺らす、耳触りな声。
穏やかで柔らかい、作られた声に鳥肌が立つ。


「君が殺した父親の娘だよ」


ざわざわと、何かが揺れた。
後悔、罪の意識。
それが全部束になって、ボクを襲う。

ボクは拳を強く握り、俯いて唇を噛んだ。






「彼女は君を赦していない」


そら、そうや。
そもそも、赦して貰おうなんて思ってへんし。
大切な人が死んでしもて、大切な人を殺した奴が其処に居って。
今すぐにでも殺したい・と思うのは普通。


「君は居場所と引き換えに、彼女の大切な人を奪った。
君が臆病で、寂しいから」
「煩い…」
「蔑まれ、何時だって好奇の瞳に晒されて」
「黙り…」
「君は居場所を作れなかった」
「黙り言うてるやろッ」


肩で息をする。
瞬歩を乱用した時みたいに疲れる。
感情を剥き出しにしたのは初めての事やった。


「ギン…君は何時、壊れるのかな」
「……ッ」


掴み掛かろうと、顔を上げた。
しかし其処にはもう藍染隊長は居てへんかった。
怒りにぶるぶると震える拳が、遣り場を無くした感情を表しとった。


壊れる?
ボクが?

そないな訳、あらへん。
壊れる訳無い。

彼女に壊されたとしても
運命に壊されたとしても

残酷な事実は、ボクの喉元に切っ先を向けた。

ボクの喉元に向けられた切っ先は
確実に其処にあって。

それがボクを壊すか
はたまた壊されるか。

それすらも運命が決める事。
ボクは運命の玩具。

飽きたら壊される。

せやけど、ボクが自分から壊れようだなんて、思わへん。
…どうせ壊れるんやったら
道連れを―…






隊首室の扉を開けた。
すっかり闇に取りこまれた瀞霊廷。
三番隊の隊舎は、まだ明かりが灯っとった。


「…あ、お帰りなさい、市丸隊長」


イヅルの声が、項垂れたボクに届く。
この居場所は、望んでた世界。
イヅルの弱々しい笑顔も、くどくどとされる説教も。
ボクに向けられている。
それだけで、存在が認められた気がして。


「なァ、イヅル…」


消え入りそうな声で、イヅルの名前を呼ぶ。


「はい、どうかしました?」


何時もと違う雰囲気のボクに、イヅルは出来るだけ優しい声色で返してくれる。


「ボクは…此処に居っても良え?」


ボクの質問に、イヅルは少しの間黙っとった。
項垂れたままのボクに、イヅルの表情を伺う事は出来ひん。
それが余計にボクの不安を煽る。


「そうですね…
もう少し仕事をしてくれたら、良いんですけどね」


けど、イヅルの声は、予想よりもずっと温かかった。
そっと顔を上げると、其処には眉尻を下げて微笑む何時ものイヅルの姿。


「隊長は隊長なんですから。此処に居て下さい」


鼻の奥がツンと痛くなって、目頭が熱い。
イヅルの一言が嬉しくて、心が満たされたみたで、ホッとする。

此処に居っても良え。

そう誰かに言われたのは初めてで。
言い表し様の無い気持ちが溢れる。


「おおきに……」


そう呟いた途端、瞳から何かが零れたけれど、それはすぐに無くなった。
もう随分泣いた。
もう涙は出ェへん。

最後の一滴を絞り出す様に、頬を転がる雫。

イヅルは少し驚いてから、困った様な微笑みを見せた。
イヅルはボクを認めてくれた。
それがどんなに嬉しかったか。

言葉で表す事は出来ひんけど、何時か伝われば良えと思う。


「それはそうと、隊長。今日はしっかり残業してもらいますからねッ」
「えー…」
「えー、じゃありません。また阿散井君に怒られてしまうのは嫌ですからね」


イヅルはそう言ってボクの席に書類を置いた。
それはそれは物凄い量の書類を、容赦なく。


「鬼や、イヅルの前世は鬼!」
「そんな訳ないでしょう。
お茶淹れてくるので、やってて下さいね」


そう言ってイヅルは給湯室に入る。
ボクは席に置かれた書類を見つめた。


「此処に居っても…良えねや…」


ボソッと呟いた言葉を、聞いてくれる人は居てへんかったけど。
その言葉に温もりが宿っていたのは、イヅルのお陰。





結局残業が終わったのは、瀞霊廷が静まり返った頃の事。
月も高く昇り、星も良く見える綺麗な夜空が、ボクの頭上に広がっとった。
ほんまの居場所が見つかって、至極温かなモノが心に溢れる。
柔らかくボクを包む、薄いベール。
このまま帰るのは少しもったいなかったから、少し夜空を見ながら帰ろうと、わざと遠回りして歩いた。


ふと、人影が有る事に気が付く。
こないな時間に、人が居てるのは不自然や。
しかも体型からして、女の子や。

一歩一歩、歩を進める。
指先に触れる霊圧に、覚えが有った。

暗闇に溶けてまいそうな、漆黒の髪。
月明りに反射する、青白い肌。
そこに映える、紅色の唇。


『…ッ!』


ボクに気が付いた彼女は、最悪だと言いたげな表情を向ける。


「……今晩は…
なまえちゃん」


彼女は金縛りに遭ったみたいに、微動だにしない。
表情すらも歪ませて、この世の終わりを見た様な。
その顔は、藍染隊長の様に、裏に隠れる"恐怖"は無く、全面で"憎しみ"を表しとった。

その顔は、ボクをそそる。
ボクの中に疼く、"何か"を掻き立てる。
胸の中に燻る、小さな炎が音を立てて燃え広がる。
その炎の正体は分からへん。

唯、その小さな炎は、ずっと其処に有った。
彼女を初めて見た時。
そう、あの書類で彼女の名前と写真を見た時、全身を駆け上がった"何か"。
それはボクの胸の中に小さな火種を遺して消えた。

しかし、それは知らへん内に大きくなって、今ボクの中で燃え広がる。

彼女の綺麗な顔、漆黒の髪。
全てを丸呑みにしたなる。

壊れたんやろか。
狂ったんやろか。

きっとそれも、運命の所為。





「こないな時間に、どないしてん」


ボクの言葉に、聞こえない位小さな舌打ちをして、顔を背ける。


『帰るの』


そう言い放ち、彼女はボクから見て右に進路方向を変え、歩いて行く。
彼女は六番隊の隊士。
っちゅう事は、隊舎はあっち…
そっちは確か…


「…四番隊の綜合詰所やで?」


ボクの言葉に、ピタッと歩くのを止める。
何や、どないしたんや。

彼女は回れ右をして、今度はボクから見て左に向かって歩いて行く。
いやいや、六番隊舎はあっち。


「そっちには甘味処が在るだけやで」


というボクの言葉に、また足を止める。
……もしかして。


「……迷子?」


ボクの言葉に、此処からでも分かる位、顔を紅く染める。


「六番隊舎まで、連れてったろか?」
『…ッ構わないで』


ボクの善意から出た申し出も、きっぱりと冷たく断る。


「そんなん言うてたら、朝になるで?」
『煩いッ』


彼女のこの反抗的な態度。
それが妙に心をくすぐる。

組敷いて啼かせるのも、悪ゥ無い。

ボクの口角が上がった。




「何や、えらい冷た無い?」
『……藍染さんに、揉め事は起こさない様にって…
言われてるのよ』


癇癪を起していない、至って普通の彼女の声は綺麗やった。
高い訳でも、低い訳でも無い。
彼女の声は心地良く、鼓膜を揺らす。

…彼女の父親も、綺麗な声をしとった。
遺伝子やな。


「ほな、大人しゅう付いて来た方が良えのと違う?」


彼女はぎゅっと拳を握り締めて、下唇を噛んだ。


『結構です』


彼女はそう言って、ボクの真横を通り過ぎようとした。
背筋がゾクゾクと甘く痺れる。
ああ、何やこの感じ。

彼女が真横に差しかかった時、彼女の甘いシャンプーの香りが鼻を掠めた。
ボクは無意識に、彼女の腕を掴んでその場に倒した。


『……ッ!!』


背中を強打し、息が詰まってしもたらしい。
苦しそうに顔を歪め、咽返る。
また、背筋が甘く痺れた。
夜も更けた今。
瀞霊廷内に人影は無い。


『…ッ何…ッすんのよッ』


ボクを殴ろうと、彼女の右手が飛んできた。
―パシンッ
と乾いた音がして、ボクの掌に彼女の拳がすっぽりと収まっている。
両腕の自由を奪われた彼女は、今度は上に圧し掛かるボクをどうにか退かそうと、蹴り上げてくる。
その脚すらも軽々と抑え込み、成す術も無くなった彼女を上から見下ろした。


『この…ッ』


未だ諦めの色を見せず、抵抗する彼女。


「大人しゅうしとり。縛道の一・塞」
『…ッ』


鬼道を腕力で解く事の出来る奴は、そう居てへん。
居たとしても、それは男である事が前提。
彼女はいくら優秀でも女。
細い手足に、鬼道を解く力は無い。


『アンタ…一体何する気?!』


綺麗な声が、少し高くなる。


「あかんて…
そない大声出しなや。綺麗な声、聴かせてくれるやろ?」
『な…い、嫌…』


彼女の死覇装の衿から、手を差し込む。
彼女の白い顔が、一気に青褪める。


「良え気味」


そう嘲笑うかの様に微笑んだ。


『いやああぁぁぁぁあぁッ』


静まり返った瀞霊廷の闇の中、彼女の悲鳴にも似た声が木霊しとった。










―…迷った。
どうしよう。

まだ慣れていない瀞霊廷。
朽木隊長と阿散井副隊長に頼まれて、あたしは残業をしていた。
断れる立場に無いあたしは、その他の人達の仕事まで請け負い、気が付けば夜も更けて…

残業を終えた頃、小腹が空いて遅くまでやってる甘味処でお団子を食べた。
帰ろう、と店を出た時、隊舎までの道が分からなくなっていた。

どうしよう。
こんな時間に、人は居る筈も無く。
甘味処もあたしが最後の客だった様で、もう閉まってしまった。
人影どころか、明かりすらも見当たらない瀞霊廷。
どうやって戻れば…?

拭い様の無い不安が、次から次へと押し寄せて来る。
野宿をするしか無いだろうか。

そんな不安を抱えているあたしの視界に、今一番会いたくない人物が現れた。
誰か通りかかれば、とは思っていたけれど、こんな奴だったら誰も通り掛から無くて良かったのに。


「こないな時間に、どないしてん」


想像していたよりも、ずっと優しい声に、どう反応して良いか分からずに舌打ちをして顔を背けた。


「帰るの」


そう一言だけ言って、体を左方向に向けて歩き出す。
しかし、そんなあたしに掛けられた言葉は


「…四番隊の綜合詰所やで?」


という、何とも屈辱的な言葉。
歩くのを止めて、回れ右をする。
そして今度は逆方向に向かって歩き出す。


「そっちには甘味処が在るだけやで」


と、またも屈辱を浴びせられる。


「……迷子?」


アイツの言葉に、嫌って程顔が熱くなった。
耳まで赤いの、バレてしまっているだろうか。


「六番隊舎まで、連れてったろか?」


悔しい。
馬鹿にされている気がして、悔しくて仕方無い。


「…ッ構わないで」


そう、言葉を投げつけるが、アイツは顔色一つ変えない。


「そんなん言うてたら、朝になるで?」

「煩いッ」


分かってる。
アイツが善意で言ってくれている事くらい。
でも、それを受け入れるのがどうしても嫌だ。
悔しくて仕方ない。

そんなあたしを見て、アイツの口角が上がった。





「何や、えらい冷た無い?」


気味の悪い笑顔を貼り付けたまま、アイツは言う。
でも、あたしがアイツと関わりたくない理由は、恨み以外にも有る。


「……藍染さんに、揉め事は起こさない様にって…
言われてるのよ」


そう、穏やかで優しさを纏ったあの人に、言われている。
あの人には恩が有る。
父を手厚く葬ってくれた恩が。

だから、揉め事を起こすなというあの人の言葉を、護らなければならない。
どうせ同じ死神なのだから、任務が重なった時にでもどさくさに紛れて殺す事は出来る。
私事で揉め事を起こさなければ良いのだ・と、都合の良い解釈をした。


「ほな、大人しゅう付いて来た方が良えのと違う?」


確かに、それが一番荒波の立たない方法だ。
それは分かっているけれど…
あたしは拳を握り締めて、下唇を噛んだ。


「結構です」


そう一言言って、今度は真っ直ぐ突き進む。
アイツの隣を通り過ぎようとした時、鼻をくすぐる、良い匂いと見上げるほどの身長に、不覚にもドキッとした。




―…刹那。

あたしは背中に激痛を感じ、空を見上げていた。
背中を打ち付けた所為で呼吸が止まる。

アイツ越しに見える夜空には、ムカつくくらい星が綺麗に瞬いていて…
その手前で不敵に笑うアイツに、背筋が凍る。

瞬間的に『怖い』と感じてしまった。


「…ッ何…ッすんのよッ」


右手を振り上げた。
でも、殴る感触が拳に伝わる前に乾いた音がして、アイツの掌にあたしの拳がすっぽりと収まっている。
お陰で両腕の自由を奪われた。
でも、まだ脚がある。
上に圧し掛かるコイツを、一刻も早く退かさなきゃ。
そう思い、蹴り上げる。
しかしその脚すらも軽々と抑え込まれ、成す術も無くなった。
そんなあたしを見下ろし、微笑む。


「この…ッ」


それでも諦めずに抵抗を続けようと試みるが


「大人しゅうしとり。
縛道の一・塞」


と、鬼道をかけられる始末。
あたしの力では、この鬼道を解く事は出来ない。


「アンタ…一体何する気?!」


声が上ずる。


「あかんて…
そない大声出しなや。
綺麗な声、聴かせてくれるやろ?」

「な…い、嫌…」


ゴツゴツと骨ばった掌が、死覇装の衿から侵入してきて、あたしの肌を這う。


「良え気味」


そう笑ったアイツの笑顔は、やっぱり唯の飾りにしか見えなくて…
体全身で恐怖した。
アイツの笑顔が、畏怖の対象に変わった。


「いやああぁぁぁぁあぁッ」


静まり返った瀞霊廷で、あたしの声に反応してくれる人なんて居らず…
夜の暗闇が、あたしの声を溶かしていった。




第四章:あの晩
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夢は夢でも、望まない夢はなぁんだ。


(人はそれを、悪夢というけれど。)





 

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