第章:異常















「―……」


雨の気配に目を覚ませば、其処に広がるのは自分の部屋の天井。
『隊長』という身分になってからは、部屋も大分広くなった。
…まァ、朽木家みたいに広無いけど。
屋敷って呼んでも良えくらいの広さにはなった。

せやけど実際、娼館に泊ったり、女の所に泊ったり…と、ボクはこの広なった家で寝る事はほとんど無い。
寝る事すらほとんど無いボクの家は、汚れる事も無い。
他の隊長格の人物は、自分の屋敷に使用人を囲っとる言うけど、ボクにはそない必要も無かった。

…ボクの隣で、顔を顰めたまま眠る、なまえちゃん。
昨日もまた、無理をさせた。
毛布が少し肌蹴とって、白い肌が露わになっとる。

最近はなまえちゃんを、自分の部屋で抱く様になった。
それはなしてか。

なまえちゃんの部屋には、時折阿散井君がやって来る。
躯を壊しがちななまえちゃんの心配をして、律儀に様子を見に来る。

阿散井君に見つかりた無い、と。
言い出したのはなまえちゃんで。
ボクもその方が都合良えし。

なまえちゃんのお陰で、この家で眠る様になったし、この家に生活感も出始めた。
そろそろ、屋敷に使用人の一人や二人は雇っても良えかと思い始めた頃やった。

っちゅう事で、ボクの部屋で彼女を抱く様になって早ひと月。
こないな関係になって、早半年。

何時までこないな事続けるのか、と。
訊かれても答えは見えへんかった。


ボクは湯を張り、身体を沈めた。
温かいお湯が、全身を解す。


そのまま、泥の様に溶けてしまいたかった。
思考も、快感も、この胸の痛みも全部。
溶けて消えてしまいたかった。



「…フー…」


唇の端から漏れる溜息。
風呂場に白く浮かび、そして消える。


ザバッと、水を引き上げたまま湯から上がり、新しい死覇装に袖を通した。
死覇装は洗うのが面倒やから、新しいのを何時も手配しとる。
使った死覇装が溜まったら、纏めて呉服屋とかに預けるけれど。
使用人を雇ったら、わざわざ呉服屋に預けへんでも済むのか、と。
使用人について思考を巡らせながら、死覇装の帯を縛る。
掛け軸に有る羽織を手にし、寝室へと戻った。

扉を開けると、其処には上半身を起こしたなまえちゃんの姿が在った。


「お早うさん。
ご飯、食べる?」
『要らない。死覇装、返して』
「先に湯、使った方が良えのと違う?」


怒気を含めた言葉が、ボクに浴びせられる。
せやけど、それにももう慣れた。


「ボクん家には使用人も居てへんし、そない躯のまま死覇装着る気?」
『ッ…誰が、こんな風にしたのよッ』
「ボクやけど。
昨夜の事、忘れてしもたん?」
『こ…のッ
くたばれ!』


そう言って手元の枕を投げつける。
布団から、長く白い脚を出し鼻を鳴らしてボクの隣を横切ろうとした。


「ああ、あかん。性欲最大や」


ボクはなまえちゃんの耳元でそう言えば、すかさずなまえちゃんが拳を振り上げる。
パシンッと乾いた音がして、ボクの掌に収まるなまえちゃんの拳。
そのまま引き倒す様にして、布団に彼女を戻す。


『ちょ…ッ止め…!
ふざけんな!遅刻する!』
「良えやん。遅刻くらい」
『嫌だって言ってんの!』


これでもかっちゅう位、暴れ回るなまえちゃん。
まァ確かに、昨日阿散井君が様子を見に来ていて、其処になまえちゃんが居てへんで、今朝遅刻っちゅうたら、言い訳出来ひんもんな。

せやけど、そないな事お構いなしにボクは事に及んだ。


「早よ済ませるさかいに」


そう言っていきなりモノを突き立てれば、叫び声と罵声がボクの鼓膜を震わせる。

何時まで続けるのか、と。
訊かれても答えは見えへんかった。

唯、何処までもこの躯に堕ちて
堕として…

泥の様に溶けて消えてしまいたかった。













「兄は普段、良くやっている。
しかし、次は無いぞ」
『はい、申し訳ありませんでした』


失礼します、と言って、あたしは隊首室を出た。
結局、遅刻した。
でも、アイツはそんなの何処吹く風。
飄々とした態度の裏は、まだ見えない。

一体彼は何を考えて、何を想っているのだろうか。


『は…馬鹿馬鹿しい』


何であたしが、アイツの事を気に掛けなければいけないんだろう。
あたしは雑念を振り払って、仕事に集中した。






「じゃあ、くれぐれも体に気を付けろよ?」
『はい。
わざわざ有難う御座いました』



その夜、深々と頭を下げる先には、阿散井副隊長が居た。
阿散井副隊長は、あたしが病弱な者だと思い、仕事が終わった後はこうして様子を見に来てくれる。
昨日は何処に居たのか、と。
聴かれて咄嗟に吐いた嘘は『四番隊に居た』というもの。
阿散井副隊長があたしの体を心配してくれている気持ちを、あたしは巧く利用したに過ぎない。
ああ、何て汚い。


自己嫌悪を背負った背中に、嫌な声が飛び付いた。


「ひゃあ、まるで通い妻やな」
『ッまた、お前か』
「せやから、お前やのォてギン・や。
なまえちゃんになら、特別に呼ばしたるわ」


相変わらず張り付けた様な笑みと、読み取れない態度。
何時の間に入ったのか、何時から其処に居たのか。
色んな疑問が浮かんでは消える。
どれも意味を持たないから。

どうせ今日も、このままあたしは連れ去られる。


『…あたしだけが特別な訳じゃない。
十番隊の副隊長も、下の名前で呼んでいるじゃない』


会話の続きをしただけなのに、ふと違和感を覚えた。
この言い方は、まるで…


「ヤキモチ妬いてるん?」
『ッばっかじゃないの!
そんな訳ないッ』


自分で言っておきながら、全否定する。
その光景すら、可笑しくて笑える。


「そないムキになると、余計怪しいで?」
『煩いッ』


コイツと話していると、ペースが崩れる。
完全にアイツの手中に陥る。
悔しいけれど、これが事実。


「今夜は愉しめそうやね…」


不気味な笑顔と、鳥肌が立つ言葉。

何故、あたしは…
こんな奴に掴まってしまったのだろうか。

狂わされただけ。
そう。

あたしは狂ってなんかいなかった。

でも、狂ってからは遅かった。
正常な世界に戻るには
時計のネジを回す様に
容易い事では無かったから。














そう、異常。
常識とは異なった日常。

でも、それが今や常識。

何処で入れ替わったのか。
はたまた、最初から狂っていたのか。

答えは見つかる訳も無く。

ボクの下で喘ぐなまえちゃんが
唯、泣いて、啼いて、鳴いて…

それでボクが嗤う。
唯、笑う。

心の孔を満たすのは、彼女の声。
彼女の存在。

それを異常と。
呼ぶ様になったのは何時からか。
考えた所で、全ては彼女の漆黒に呑まれる。






「田中と申します」


深々と頭を下げた彼は、ボクん所にやって来た使用人。
朽木サンに教えて貰て、良え所の使用人を雇った。

身形も身のこなしも、全てが一流やった。

ボクは彼、田中に適当に屋敷内を案内し、道具なんかの説明をした。
大体全てを説明し終えた所で、ボクの出勤時間になった。


「ほな、後は宜しゅう頼むで」
「はい、畏まりました」


ボクは田中に見送られ、屋敷を出た。
なまえちゃんも、もう出勤した頃や。

最近、ボクが抱いても抵抗を見せへん様になった。
その表情からは"諦め"が見てとれるのだけれど。

それでも、彼女がこのまま。
ボクに堕ちてしまえば良えと思っとった。

どうしようもなく、途方も無い願いやけど。






第八章:異常
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手の届かない願いを、人は皆、夢と呼ぶ。


(そして求めて、手を伸ばす)





 

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