モノクロの世界に遺したもの






左手首から、流れるのは。
私が生きている、という

生温いのは、今の今まで私の体内にあったから。
生温いのは、私の体が温かいから。
生温いのは、私が生きたい、と叫んでいるから。







「バカなことしなや」
『―っえ…』


ぬるり、私の左手首に触れたのは。
流るる生温いそれよりも、ずっとずっと熱くて。
それは、生きている熱。


「…血ィはやっぱし鉄の味すんねんな」


やる気がなさそうに口角を下げたその唇の端には、私の左手首から這い出てきた生きている証。


「阿呆やなァ、こないなことして喜ぶ奴どこに居んねん」


唇の端に紅を塗って。
貴方はアホらし。と笑った。


なんとも不思議な出会いだった。















『…で、本当に死神さんなんですか』
「なんべんも言わすなや。どっからどー見ても、正真正銘の死神やろ」


前髪がおかしな角度で揃っている彼は、気怠そうに吐き捨てる。

白い羽織を羽織って、背中には【五】の文字。


『私のイメージとだいぶ違う』


未だに信じられない、という疑り深い目で見つめる。
そんな私の気持ちを読み取ったかのように、やれやれと両手のひらを上に向けて、アメリカンにため息を吐く。


「そらァ現世の死神はこない良え面してへんやろうけど」
『別にあなたもイケメンではないですよ』
「…骸骨よりかマシやろ」


ほんの少し前まで、生きている証が欲しくて欲しくて、たまらず自らの体を傷つけていた私。
そんな私が何事もなかったかのように淡々と話している。

それも、相手は"死神"と名乗り、なぜか当たり前のように私の隣に座っている。



( 私はさっき死んだのだろうか )


それとも、単に血を流しすぎておかしな夢を見ているだけ?


『その死神様が、なぜ私のところへ?まさか、私の魂を狩りに?』


そりゃあ、自ら命を捨ててしまおうと考えた。
自分のものだとしても、捨てるには尊すぎる儚いものを、簡単に投げ出そうとした。
そんな私への罰だろうか。
この人に、私の命は狩られるのだろうか。

急に、死が形を成して目の前に現れたような気がして。
指先に血が通わず、たちまち冷たくなっていく。


「は、阿呆ぬかせ。俺らは別に命を刈り取ったことなんやあらへん」
『じゃあ、なぜここに?』


私の質問に、彼は苦虫を噛んだような何とも言えない顔をした。


「…気晴らし、や」


それはそれは長期休み明けの学生が、現実逃避をしているときのような見覚えのある表情だった。


『死神とやらも暇なんですね』


つまらなそうにそう呟く私を、首をかしげて見下ろす彼。


「…お前、ほんまに覚えてないンか」
『は…?』


眉間に皺を寄せて、斜め上を見上げる。
さらり、重力に従って彼の指通りの良さそうな金色の髪が揺れた。

やる気のなさそうに垂れた瞳。
口角の下がった唇。
白い肌、金色の髪。

そして訛りのある低い声。

記憶の断片が脳裏が掠めた、気がした。


『―…前に、どこか…で……』


曖昧なセピア色をした記憶の断片。
覚えている、知っている
でも、その記憶は鮮やかさを失っていた。


「まァ、無理せんでも良えわ。何や俺ばっかお前のこと気になってるみたいで格好悪いな」


どことなく悔しそうにため息をつく。


『さっきからお前、お前って。私の名前は―』
「みょうじなまえ、やろ?」


私の言葉の余韻を消し去った低い声。


『なん、で…知ってるの?』
「言うてるやんか、俺はお前を知っとる」


そんなはっきりとは言われてないけど、と心の中で密かにつっこみを入れ、目だけは彼を見つめた。


『貴方は…?』
「……俺は―」


しがない死神や



彼がすべてを言い切る前に、私の断片的記憶が姿を現し始めた。
その時、確信した。


私は彼を知っている。


―…倒れろ・逆撫


『さか…なで…』


それが何の名前なのか、私は知らない。
それは記憶の断片にすら残っていない。

けれど、その名前を聞いたことがあるのは確かだ。
記憶を言葉にして吐き出したら、それがより確かなものになった気がした。


「…覚えてるン?」


彼の気怠そうな瞳にほんの僅かに喜びが光る。


『はっきりとはしない。なんだろう、記憶が水の中に沈んでるみたいにぼんやりしてる』
「何や例えが上手いなァ」


少しだけにやり、と口角を上げて笑う彼のその表情を、懐かしく感じたのは気のせいではない。

手首から溢れる、私の心の叫び。


「何や、血ィ止まってへんやんけ。ちゃんと押さえとき言うたやろ」


記憶を手繰り寄せることに夢中で、止血する力を緩めてしまっていたのが悪く中々止血できない。


「このまんまやと死ぬで、失血死や。しゃァないから手ェ貸し」


ぶっきらぼうに死という単語を投げかけ、私の手を雑に取る。
ぐいっと引っ張られ、傷がズクン、と痛む。


『いった…』


顔を顰める私を他所に、彼は私の左手首に右手を翳した。
ほんのりオレンジ色の光が彼の右手に灯り、暖かさが伝わる。


「ほれ、血ィ止まったで」


投げられるように返された左手。
そこに残る血の跡だけがまるで夢の跡のように残り、それ以外は何もなかったかのように傷跡さえも消えていた。


「鬼道言うねん。あんま得意やないけどな」


そのくらいやったらお茶の子さいさいや。と、得意気に笑った。


――刹那。


またセピア色の記憶が掠める。


『私、あなたに傷を治してもらったわ…そう、変な化物みたいなのが居て―…』


曖昧色をした記憶が徐々に私の中で色を取り戻していく。
ああ、思い出した。

いつだったか。

雪が降りそうな寒空の下。
私は貴方に会ったんだ。








( さァ、このまま。飛び込んでしまえば全てが終わる )


思い残すことは何もなかった。
心の中は空っぽだった。

幼い頃に両親は他界。
兄弟も居らず、親戚をたらい回しされた二十年弱の記憶はどれも薄っぺらい物ばかり。

幾度となく転校を繰り返しても両親がいないことをからかわれた小学生時代。
友達のつくり方を知らないまま過ごした学生時代。

両親を失った事実を受け入れられないまま、自殺しそびれている女。

気がつけば、そんなレッテルを貼り付けられていた。
叔父も叔母も、祖父も祖母も。
私を邪魔者扱いしていた。
金食い虫だと言われてきた。

私が死ぬことを、赤の他人の同級生でさえも望んでいるのだ、と。
本気でそう思っていた。



( よくもまァ、十八年間ものうのうと生きてきたわ )


意外と神経図太いのかな。
なんて自嘲した。

思い出という思い出もない。
死ぬ間際に、思い返す人もいない。

本当に空っぽの人生だった。

十八年間生きてきて、失うものすら作れなかった。

何も怖くなかった。
誰からも必要とされていない私は、生きていても死んでいるのと大差なかったから。


時刻は真夜中。
私の足元には流れる水。
それほど深くないこの川は、この高さから飛び降りれば溺死というよりも転落死になるだろう。

それでも、痛いと思う間もなく死ねる。
感じたとしてもそれはほんの一瞬だ。

死んでしまえば、唯のタンパク質の塊になるだけ。


遺書を残すのも面倒だったが、私の死の所為で親戚に疑いがかかるのも嫌だった。
立つ鳥跡を濁さずとも言うし、どうせなら綺麗に後腐れなく死にたかった。
だから理由などは書かなかったが、自ら死ぬということだけ書き綴った到底遺書とは言えないものだけは書いておいた。

靴も揃えた。

あとは手すりを離して一歩前に踏み出し、引力と重力という自然の力に任せるだけ。



( さようなら )



心の中で、特に誰に言うわけでもなく別れの言葉を遺した。
強いて言うなら、私が生きていたこの世界へ。

目を閉じたその時だった。


―ヴオオオォオオオオォォオオォオ


『!?』


聞いたこともないような唸り声。
驚いて目をあけ、音のした方を振り向いた。


『な、にあれ…』


目を疑った。
ここはSF世界なのか。映画の世界なのか。
私は実はもう死んで、別世界に飛ばされたのか。

視線の先には、非現実的な巨大な怪物。
恐怖で脳が痺れる前に確認できたのは、胸に開いた孔。
まるで心を失ってしまったと主張するような孔と。


緩やかかつ繊細な動きでふわり、舞い降りたのは。
白い羽織と金色の髪。
背中に【五】の字を背負った不思議な人。


その後ろ姿を見た瞬間。
得体の知れない感情が、私の胸の内側を叩いた。

初めて沸き起こる感情に戸惑い、心の扉を開けてしまったら取り返せなくなる気がして怖くなるくらい。
強く、強く私の胸の内側を叩くのは、何?


空っぽだった心。
モノクロだった世界。


世界の全てがどうでもよくて
世界の全てが怖かった。


なのに、言葉すら交わしたことのない彼の後ろ姿に、覚えたのは不思議な不思議な安堵感。


意識が、飛ぶ。

視界が白くなる。

辛うじて聞き取ったのは





「倒れろ・逆撫」




彼が手にしている日本刀のようなものに、そう呼びかけている声。






『―…ぅ…』


どうやら、意識を失っていたのはほんの数分らしい。
私は手すりの外にいたはずなのに、何故か内側の歩道に倒れていた。

視界には、さきほどの金色の髪を揺らす男がその怪物を仕留めた瞬間であろうシーンが映る。


血飛沫をあげ、崩れ、消滅していく怪物。
それを見届けるような彼。

怪物が跡形もなく消滅しきると、彼はくるり向きを変えて私を見遣った。
特に身の危険は感じなかったが、突然のことに脳がまだ混乱していて、どうやって体が動かすのかわからなかった。


一瞬視界から男が消えて、消えた。と認識する頃には私の目の前に立っていた。


『瞬間、移動?』


掠れ気味な声でそうつぶやけば、彼はふっと柔らかく微笑んだ。


「倒れてる割にはそないボケもかませんねやな」


くつくつと喉で笑いを転がす彼に、妙な安堵感を覚えた。


「瞬歩言うねん」


ふわり、しゃがんだ彼。
緩やかな風圧で金色の髪と白い羽織が舞う。


『あなた、は…誰なの』


有り触れていて、定番の、それでいて日常では使うことのない言葉。
その言葉に彼は優しく微笑む。


「俺か?俺はしがない死神や」
『死神…?』


聞いたことはあれどあまりにも非日常的な言葉が鼓膜を揺らし脳へとつながる。


「まァ、現世で言われとる死神とはちィとちゃうねんけどな」


そう言った彼が、うつぶせに倒れたままの私の腕を掴んで起こした。


『っつ…』


自分の脚で立とうと、踏ん張ってみると全身に痛みが走った。
どこかを強く打ち付けてしまったのか。
あまりの痛みに顔を顰める。

そんな私を見て、彼は少し悲しそうに笑った。


「脚、出してみィ」
『?』


私は言われるがまま、右足を少しだけ浮かせて彼の前に出す。
痛みで震える脚を、彼が優しく捕まえた。


「多少マシになると思うわ」


そう言った彼の右手から、暖かなオレンジ色の光が放たれ、私の脚を照らす。
じんわりと染み込んでくるような暖かさに、なんだか涙が出そうだった。


「これで良えやろ……ご免な、俺がもう少しはよ気付いとれば」


彼の眉尻は下がり、悲しそうな顔を見せたがその声は酷く優しかった。


「絶対、俺が迎えに来たるさかい」


意味深にそう言うと、彼は骨ばった右手を私に伸ばした。
どこかほっとするような優しい匂いが、私の鼻腔をくすぐった。
暖かい彼のぬくもりが、私の頭に乗せられ、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回された。

優しいけれどどこか乱雑なその行為に、抵抗しよと視線を上げたその先にはもう。



彼は、いなかった。



それをきっかけに、私は意識を失い―……









『……あれ?』


曖昧な記憶はきちんと形を成した筈なのに。
彼と別れた直後が思い出せない。


『そういえば、私は昨日何をしていたっけ?』


思い出せない。


何を食べた?

何を見た?

何を思い

何を感じ

何を考えた?


思い出せない。思い出せない。
思い出せない 思い出せない 思い出せない 思い出せない 思い出せない


「思い出せへんのもしゃァない」
『え……』


理解が追いつかず状況の整理ができない私は涙目で。
瞳に溜まる涙のせいで彼の表情が歪んで見える。


『私に、何が起きたの?』


私は、なぜ左手を切ったの?
なぜ、生きていると感じたかったの?
なぜ、死にたいと思ったの?



私は何をしていたの?




私を見遣る彼は、酷く悲しそうな表情をしていた。


「あの日、お前は―…なまえは」


次の言葉が怖かった。
なんとなく、予想がついたから。


私は、もしかしたら。

瞳が、息が、鼓動が、



震える―…





( 巨大虚か。まァ、暇つぶしには良えわ )


ふらり、任務から逃げとォてやってきたのは現世。
現世は今深夜らしく、人の影がない。

どの家もビルも、ほとんど明かりが消され濃紺に包まれた世界になっとった。
そんな中、場違いのように明るい色をして大きな声を出す巨大虚が居った。
放っといても良えけど。
霊圧が大きく現世の魂魄に影響を与えかねない。


( 倒しといても問題あらへんやろ )


俺はそう考え、刀を振る。
解号を唱えれば、柄が円形になり甘い香りが漂う。

戸惑い始めた虚を一瞬で切り裂く。

消滅していく虚。それと共に虚の放っていた霊圧も消えていく。


「……あァ?」


消えていく大きな霊圧に比例して現れたのは酷く小さな霊圧。
こんな霊圧、今までここにあったのか、と。
気のせいかと思うほど小さな小さな霊圧。

確かめるように、霊圧をなぞるように振り向けば、100mほど離れたところにある橋。

その手前に倒れているのは、真新しい魂魄
その魂魄が俺を捕えたのを見て、俺も近寄ろうと瞬歩を使った。

突然目の前に現れた俺に、驚いたのか瞳孔が揺れる。


『瞬間、移動?』


寝ぼけたような声に思わず緩く笑う。
そんな彼女を足元に、俺は思わず手すりの " 向こう側 " を見遣った。

緩やかに流れる川。
さりげなさを装うために、じっくりとは見られへんかったけど、その川の流れに逆らうことなくゆらりゆら。
揺られて流るるのは、水と混じった深紅。そして漆黒の―…


俺は悟られないよう、ゆっくりと瞬きをするとふわりとしゃがんで彼女を瞳の中に捕えた。


綺麗やった。

漆黒の長く手入れの行き届いた長髪も。
黒曜石みたァな大きな瞳も。
透き通るような白い肌、華奢な肩。

何よりも魂魄が無垢やった。

何も知らない、赤ん坊のような綺麗な色の魂魄やった。



( なしてこない子ォが…… )


死に方からして自殺や。
せやけど、多分…自分が死んでしもたことに気付いてへん。

何かの拍子で落ちたんやろう。

死のうとは思ってたかもしやん。
せやけど、まだ生きていた魂魄を、死なせてしもたんは俺の所為や。

ちゃんと周囲の状況確認せんと、深夜っちゅうことだけで戦いに及んだ。
ああ、この子は俺の所為で。


因果の鎖も、もう断ち切れとる。
完全に魂魄のみ浮き彫りにされてしもたんや。


彼女を起こすと、痛みで顔を顰めたのがわかった。
体は死んでしもてんねや。そらァ魂魄かて痛みくらい感じるやろな。


「ご免な、俺がもう少しはよ気付いとれば」


俺は彼女の脚を治療しながらそう呟いた。
彼女は、ぽかんと意味がわからない顔を見せる。
それはそれは子どものような。


「絶対、俺が迎えに来たるさかい」



お忍びで現世にきた上に、巨大虚の出現。
その上その戦闘で一人の少女を死なせてしまった。


ここで魂魄を回収するには、面倒なことが多すぎる。
それに―…


( このまま魂葬したところで、流魂街に飛ばされるだけや。運が悪ければ、そこでも…… )


なんとも言い難い気持ちになって、俺は右手を彼女の頭へと伸ばした。
この子の魂を、俺の傍においておきたい。
そう、強く思った。

この気持ちは同情なのか、懺悔なのか。


どの感情に当てはめれば良いかわからず、もどかしさを隠すように彼女の頭を少し乱雑に撫でた。
彼女が抵抗しようと素振りを見せた瞬間、俺は逃げるように瞬歩を使た。






自分が生きている、と錯覚したままの彼女の残留思念は。
きっと今日も、生きていると叫んでいる。









『そん、な…』


聞かされた事実は、予想していたとは言え心臓を振るわせるには十分すぎるものだった。
私の命はとうに尽きていて。
それでも生きていると実感したくて、何度も何度も自殺未遂を繰り返していた。


『じゃァ、叔母さんは…?』


そう聞いた瞬間、パタパタと忙しなく動くスリッパの音が聞こえてきた。
叔母さんの歩き方だ、と思うと自然と体が強ばる。

私の自室に近づいてくる足音。
ノックもせずに扉をあけ、嫌味という嫌味、小言という小言をつらつらと喋って出ていく。
私は叔母さんの憂さ晴らしの道具だった。


お風呂場をこんなに血で汚し、知らない男と二人でいたら何を言われるかわからない。
そう思うと恐怖と不安で心臓が一回り小さくなったような感覚を引き起こし、呼吸が乱れる。

しかし、隣の彼は平然と一歩も動く様子が見られない。



―ガチャッ


脱衣所の扉が開けられ、叔母さんが入ってきた。
扉が開け放たれたままの浴室から、その姿は鮮明に見える。


けれど、叔母さんは私なんか見えていないかのように風呂場の前を横切る。
そして洗濯機の中身をかき回し、洗いたての衣類をかごに詰め込む。


『お、ばさん…?』


声をかけるが、叔母さんは気づく様子もない。


( うそ…… )


私は信じられず、ゆるりと立ち上がって忙しく動く叔母さんの背後にたった。



『私が見えないの?』



そう声をかけると、叔母さんが勢いよく振り向いた。

大嫌いだった甘ったるいコロンの匂いと、パーマ液の薬臭さが混じった叔母さんの匂いが鼻を掠めた。

振り向いた叔母さんと、一瞬だけ目があったけれど。




「―…やァね、気の所為かしら。一瞬人の気配がしたんだけど」


そう独り言をぶつぶつと呟き、再び洗濯機へと視線を戻した。


「あの子…なまえに恨まれてるのかしら、なーんてね」


普段身近に感じないオカルトちっくな雰囲気に酔ったのか、至極嬉しそうに笑って見せる叔母さん。


「本当に自殺してしまうなんて、思ってなかったけど…」


叔母さんが手を止めて、古びたエプロンのポケットを探る。
その中から出てきたのは、くしゃくしゃになった私の遺書。


「遺書を隠してたし、旦那もいい具合に口裏を合わせてくれたから自殺じゃなくて事故死として処理しれくれたしね」


くすくすと、と息を含む笑い。


「水に浸かっていて死亡時刻が明確に出なかったし。死亡推定時刻頃に地震があって、誤って手を滑らせて落ちた。っていう素敵なシナリオが出来上がった」


横顔しか確認できなかったけれど、その顔は酷く醜いものだった。


「保険金もたんまりもらえて、食費や学費も浮いたし死んでくれて万々歳」


一人の死を、姪の死を、こんなにも喜ぶ人がいるなんて。
醜すぎて吐き気がする。



―ピシ、パシッ


辺りが軋む音がする。


「え、なに…何の音?」


きょろきょろと視線をくるくる動かすけれど、その瞳に私が映る筈もなく。
そうしている間にも、俗に言うラップ音が響き渡る。


憎悪と嫌悪と憎しみと恨みと。

怒りが、私の中で渦を巻いて。

私の体の内側から今まで感じたこともないような、自分でもわからない感情と力が湧き上がる。



「―…あかん」


私の目を、目隠しをするように覆うのは、大きくて暖かな骨ばった手。


『なんで、どうして止めるの…』


声が震える。
鼻の奥がつんとして、ああ涙が溢れる。


「なんだか怖いわ、嫌な感じ…霊感かしら?」


ふふ、と笑って叔母さんは洗濯カゴを持って脱衣所から出て行った。



『おば、さん…私の死を……何とも思っていなくて…!』


悔しい


そう吐き捨てるように、涙の嗚咽とともに言えば、彼がゆっくりと後ろから私を包み込んだ。


「俺が、一番になまえの死を想う」


彼の漏らす言葉も、どこか辛そうで、苦しそうで。
思わず慰めたくなってしまうほど、悲しくて。


「寂しい想いも、辛い想いも、もう…俺がさせへんから」


私を包む腕に、更に力が入る。
苦しいくらいのその力が、嬉しかった。


「せやから、俺と一緒に来ィ」


彼の温もりだけが、空っぽだった私の心を満たしてくれた。
何も失うものがなかったこの世界で、最期に私に光をくれた。


なぜ、あのとき手すりの内側にいたのか。
それはきっと、私はもう死んでいて意識だけが残留してしまっているからかもしれない。

何の面白みもない人生だった。
色を失った世界だった。

こんな世界に私の意識が残ってしまっているのは、きっと最期に見た世界がモノクロの世界で唯一色濃く私の記憶に焼き付いたものだったから。


貴方の靡く、金色の髪。
緩やかで乱雑で、優しい仕草。
強く、強く、貴方に触れることを望んだからかもしれない。



訳も分からず、涙が出た。
瞳を濡らしてこぼれ落ちるのは暖かい涙。

生きていた頃よりもずっと、心の中が暖かい。



私を抱きしめたままの彼の腕に、そっと触れた。
首元あたりにある、細くも逞しいその腕は暖かく、ひどく安心できた。



『―…貴方の名前を、教えてください』


頬を伝う、暖かな涙。
顎を伝って、彼の腕に落ちる前に彼が低く、優しい声で呟いた。


「真子。平子真子、や」


私は彼の腕の中からするり、抜けて向き合う体勢になった。


『真子、さん』


人の名前を呼ぶのに慣れていない私の唇は、少しだけ震えている。
私の声に、ん?と優しく反応し微笑む彼に、私は右手を差し出した。


『私を、連れてってください』


私は両親が死んでから初めて、心の底から笑った。
そんな私を見て少しだけ驚いたように目を見開いたけれど、真子さんは私の右手を優しく握った。

野良猫に差し出す手のように、怖がらせないよう、細心の注意を払うように。
壊れ物に触れるように。ゆっくりと、柔らかく。そして優しく。

大きな手のひらから伝わる体温が、心地よかった。




貴方に触れたかった。

貴方にもう一度会いたかった。




だから私は、きっと彷徨い続けてた。


残留思念とともに、貴方を求めて歩いていたの。








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唯々貴方に会いたいという気持ち。


( 続編に続く )

14.1.27.19:36




 

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