アペロールモーニ





スーツが良く似合って、時々かける眼鏡がこれまた破壊力が高くて。
そんな彼は私より七つ年上の彼でした。


『阿近さんっ』


何時もの駅で待ち合わせ。
人ごみの中、背の高いスーツ姿を見つけ出すのが私の特技。


「お疲れ、なまえ」


振り向いた彼の、少し意地悪な口元に僅かな笑みがあって、そこから漏れる私の名前がやけに甘く聞こえる今日この頃。


難しい書類が詰め込んである鞄を持つ腕と反対側に立って、少し幅の広い阿近さんの歩幅に置いて行かれないように腕にぶら下がりながら小走りで歩く。


「何時ものとこで良いだろ?」


そう言う阿近さんに、うん。と頷くだけで相変わらずぶら下がったまま阿近さんの歩く道を進む。
私にぶつからないように、器用に人ごみを分けて歩いていく阿近さん。

辿りついたのはウィスキーをロックで、「なァ、マスター…」とか言いながら、コップを磨くマスターに話しかけちゃうような雰囲気のオシャレなバー。
勿論、私一人だったら死んでも入らないし、門前払いとかされちゃうんじゃないかって、気後れして入ることもしない。


カランカラン、となんとも粋な音を鳴らしながら店の扉が開いて、名前も知らないようなジャズが流れる店内。
薄暗くて、落ち着いたライトが照らすカウンターの何時もの席に座る。


メニューなんか見ても、さっぱりわかんないお酒の名前ばかりが載っていて、私には唯のカタカナの羅列にしか見えない。
ということで、今日もメニューから頼むのは諦めて阿近さんに少し拗ねた様な表情で訴えれば、阿近さんは少し馬鹿にしたように含み笑いで返す。


「マスター」


片手を軽く上げてマスターを呼べば、マスターがそっと近づいてきて。
阿近さんの甘く響くような声でお酒を頼むけど、結局私はそれが何処かの国の言葉なのか、呪文なのか理解できなかった。


私の隣で阿近さんがゆっくりと眼鏡を外して、鼻の付け根あたりを指で軽く揉んでいた。


『疲れてるの?』


心配してそう聞けば、少しな。とだけ言ってまた大人な仮面を付けて全てを隠す。
どうしたの?何かあったの?
私の心配なんて言葉にしたところで、阿近さんに適当にあしらわれて終わる。


「学生のお前が、変な気遣しいなくて良いの」


何かと言えば、学生学生って。
確かに、まだ社会に出ていない私に社会人の阿近さんの辛さがわかるわけないけど。
疲れも悩みも。仕事の愚痴でさえ、何も教えてくれない。

頬を膨らませて、ふくれっ面する私の隣で、阿近さんは少し困って様に笑っていた。


どんなにオシャレしても、背伸びしても。
全然届かなくて、まだ足りなくて。


『もう、阿近さんはそうやってすぐ、学生学生って…』
―…そんなに私は頼りない?


真剣な目で訴えても、すぐ熱くなる私をいとも簡単に宥めてしまう。
何時だって冷静な阿近さんとは、碌に喧嘩もできず。
結局私が勝手に熱くなって、盛り上がっておしまい。
阿近さんが感情をぶつけてくれることなんかなくて。
それが少し寂しい、と言えば、大人の笑顔でお決まりの「子どもだな」という決まり文句。

お財布の中身も。頭の中身も。
知識、経験、年齢も。

何一つ追いつけないし、追い越せないし。

結局埋められないのは七つの年の差とかじゃなくて、私の心の中なんだ。


そうね。
例えばお腹が痛くて、うずくまったとして。
私が脳裏に描く理想像は、冷静な阿近さんの表情が崩れて血相変えて抱きかかえてくれる姿。

でも実際やってみたらどうってことない。
私の症状を詳しく聞いて、酷そうなら救急車呼んで、そうでもなさそうなら近くのカフェやファミレスに入って落ち着くまで待って。
唯一の優しい言葉「立てるか?」「大丈夫か?」と、大きな掌差しだされるだけ。

血相変えるくらい、私のこと心配して見せてよ。
表情変えるくらい、私を愛してるって。態度で見せてよ。


そんなの知ったこっちゃない。とでも言いそうなくらい冷静な阿近さんに私の小さな願いは届かなくて。
心の中でひっそり、チッて舌打ちして。
頬膨らませれば、大きな手で頭を撫でられて、ぐしゃぐしゃになった私の髪を見て楽しそうに微笑むだけ。

何をやっても敵わないや。って、諦める瞬間。


『私のこと、好き?』


ありきたりな質問。
でも、全てが詰まった言葉。

不安なのよ
好きって言ってよ
嫌いって言わないで

欲しいのは、一言だけ。


「―…なまえはまだまだ子どもだな」


ふん、と鼻で笑って煙草を吸う姿がやけに様になっていて。
でも、私が欲しかった言葉は何一つくれなかった阿近さん。

スーツ姿が良く似合っていて、お酒の頼み方も知っていて。
何時だって冷静で、喧嘩も出来なくて。
感情をぶつけるなんてしなくて大人の仮面は崩れない。


唯一私が、寂しくて涙した相手は、難しい書類を持っていても何も違和感のない七つ年上の彼でした。



「…なまえ…?」
『ッ阿近さんの、バカ…』


頬を転がる涙は顎を伝って床に落ちて。
その涙を拭ってもくれなかった阿近さんの細い指が、長くて綺麗で。
その指は煙草を吸ったり、パソコンのキーを叩くときのみ動いていて。
私の為に向けられることはなくて。


『も、良いもん…』


目の前のカウンターに出されたのは、私の心境なんて知らない・って言ってるみたいに鮮やかなオレンジ色。
これ飲んで機嫌直せ。なんて、子ども扱いする阿近さんは相変わらず表情一つ変えなくて。

このカクテルの味を知るのが怖くて、グラスに手を付けることもなく、鞄を肩にかけて少し高い椅子から飛び降りるように降りた。


「なまえ?」


焦った様子もない声を背に、場違いみたいに大人びたバーから出た。

カランカランって、粋な音は私には似合わない。

薄暗い店内も、名前も分からないジャズもクラシックも洋楽も。
意味のわからないカタカナの羅列、少し高い位置にある椅子もカウンターも。
広い歩幅、スーツの良く似合う後姿、難しい書類、細く長い指、少し苦い煙草の匂いも。

全部、私には似合わなかった。釣り合わなかった。
カウンターに出された、場違いみたいに甘そうなカクテルだけが妙に私に似合っていた。



こんなときでさえ、阿近さんは追いかけてきてもくれなくて。
私を呼ぶ声さえ聞こえない。

私が彼に残したものと言えば、頬を転がり落ちる涙くらい。
止まらずに流れる涙も気にせずに、駅までの道を一人で歩く私は、やっぱりまだ子どもかも。って、思ったのは内緒。


お財布の中身も。頭の中身も。
知識、経験、年齢も。

何一つ追いつけないし、追い越せないし。




私の方が多かったのは、好きだという気持ち。




―…空は晴天。
スーツも着慣れて、難しい書類も抱えるようになって。
財布の中身も少し増えて、無理矢理してたオシャレは止めて、自分に似合う服着るようになったの。
唯のカタカナの羅列だったお酒の名前だって覚えた。


煙草だけは今も昔も吸っていないけれど、やっと私も、あの頃の貴方の年になりました。


貴方の腕にぶら下がるように歩いてたあの頃の私はもういなくて、不貞腐れた顔をすることもない。


阿近さんと良く行ったバーに、一人で足を踏み入れる。

カランカランって、粋な音は変わっていない。
薄暗い店内も、高い位置にあるカウンターも変わらない。

カタカナの羅列の意味はわかるようになった。
店内に流れるジャズもクラシックも洋楽も、すんなり耳に入って来る。


『マスター』


片手を挙げてマスターを呼ぶのは、阿近さんの真似。


『アペロールモーニ』


呪文みたいなカタカナを噛まずに言えるようになったのは最近。
メニューなんか見ないで言えるようになったのも最近。


阿近さんの誕生日だって覚えてるし、どれだけ年月が経っても貴方だけは特別だった。
もし、この街で貴方を見かけたら、迷わず声かけられるかな。

まだ見かけたことさえないのに、遠足前の子どもみたいにドキドキする私は、やっぱりまだ少し子どもで。
貴方に逢ってもどうせ子ども扱いされるんだろうけど。

今度逢ったら、愚痴を話してくれるかな。
疲れや悩みを、打ち明けてくれる?



カウンターに出されたのは、あの時手も付けなかったカクテル。
鮮やかなオレンジをした、あの時のカクテル。


手にとって、口を付ければグレープフルーツの酸味がほんのり薫る。

一口だけ口に含んで、胃の中に落とす。


『ほら、ね…やっぱり』


舌の上に残されたのは、フルーティな甘さだけ。
甘いカクテルをまた口に含めば、舌の上で転がるアペロールの甘味。
鼻を抜ける柑橘系の爽やかな香りと悔しいくらいマッチしていて。


自分に似合う服をよく理解してた貴方のことだから、このカクテルがあの頃のあたしに一番似合うって思ってたんでしょう。

喉を通るカクテルが甘くて、美味しくて。
あの時、このカクテルの味を知るのが怖かったのは、本当に子ども扱いされてたんだな、って、今更再認識することが怖かったから。




―カランカラン、

粋な音が背後で鳴って、ふわりと薫る煙草の匂いに気がついた。



「―よォ…」


聞き慣れた低い声が私の背中に向けられた。
その声が誰か、なんて分かり切っていて。
振り向いて少し大人びた声で


『あら、久しぶり』


って言えば、彼は私の手元を覗き込んだ。


「アペロールモーニなんか飲んでんのか」


呑みもせずにカクテルの名前を当てた貴方が、まだまだ届かない存在だと知った。





アペロールモーニ
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何も言わず、何も聞かず。当たり前のように貴方が隣に座った。


(少しは大人になったって、言ってくれる?)

13.03.08.20:13

小説の元ネタや歌詞の引用...
曲名:年上の彼
歌:奥華子



 

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