御伽噺のつづき





( 嘘でしょ…… )


朝の通勤ラッシュ時の電車。
乗車率は120%を超えている。
殆ど爪先立ちで、両隣の人からの圧力だけで立っているような状態で、それは起きた。

私のお尻を、もぞもぞと這い回るゴツゴツとした手。
朝から発情するなんて信じられない。
しかも、選りに選って私をチョイスするなんて。

スタイルが良い訳でも、露出が高すぎる、低すぎる訳でもない。なんて言ったってスーツだし。スーツ万歳。
まあ確かに外見は地味で、周りからは静かそうって言われるけど。

こんな360度人しかいないところで、痴漢です!なんて叫べない。ラッシュ時に女性専用車両に乗らなかった方が悪い、なんて思われたらもういっそ死にたい。

自分のお尻を撫で回したことなんてないけど、撫でるような価値なんてないから、すぐに飽きるはず。
私は身を固くして耐える覚悟をした時だった。


「何してん」


低い低い声が、隣から聞こえた。
え、私?!あまりにも近くから聞こえたものだから、一瞬私に言われてるのかと思って肩を震わせた。

しかし、視線だけそろりと声がした方に向けてみる。
私の右隣に立っていた男性が、私の後ろを睨みつけていた。

銀色の綺麗な髪から覗く、白い肌。
なんて綺麗な男の人なんだろう、と彼に見惚れてしまった。

隣で低い声を発した彼の問いかけに、私の背後からは何も応答はない。
でも、私の尻を撫で回していた手は消えていた。

ホッと胸を撫で下ろす。
通勤快速電車だから、次の駅まであと五分はある。
私みたいな貧相な尻が、五分間も揉まれ続けたら磨り減ってなくなってしまうところだった。

私は隣の男性に小声で


『あ、ありがとうございます』


と伝えた。
私の声に銀色の髪はさらりと揺れて、先程とは打って変わって柔らかい声が向けられた。


「良えよ。あと、まだ気ィ抜かん方が良えで」


この時、彼の言葉の意味は理解できなかったんだけど、それは忘れかけた頃に起こった。


次の駅で停車したけれど、あまり乗降者数は多くない駅だったからか、乗客の入れ替えは殆どなかった。
私の左隣の人は下りて、代わりに露出度の高い女の人が乗ってきた。キツイ香水の匂いに、頭が痛くなる。

電車の扉が閉まり、ふぅ。と小さく溜息を漏らす。
これは多分私だけじゃない。扉が閉まるのと同時に、扉付近の人なんかは力んだ肩をすとん、と落としていた。

さてさて。あと一駅で目的地だけど、この駅間が1番長い。
今発車した駅から、次の駅まで乗車時間は十五分。
少し高めのヒールを履いて、ぎゅうぎゅう詰の車内で背の低い私は、つり革の争奪戦は不戦勝。
カバンを抱きしめたまま、踏ん張りの効かない状態で、時折襲い来る激しい揺れに耐えるのはかなりキツイ。

発車して多分、五分は経ったと思う。
停まらない駅を一駅通過したところで、再びあの感触に襲われた。


( っ、また…?! )


もぞ…と、少し警戒しながら私の尻に指先が充てがわれる。
暫く指先だけで円を描いていた動きは、私の抵抗というよりも、私の右隣の男性の反応を伺いながら徐々に大きくなっていく。

立ちっぱなしで体力は削られ、足元に血が溜まっていく。
今日は寝坊しかけたから朝食も摂らなかったし、彼此もう二十分は立っている。
加えて、知らない男の手が私の尻を這い回る。
キツイ香水の匂いは、空っぽの胃の中に直接入って来る。


( いい加減気持ち悪くなってきた… )


眉間に皺を寄せると、右隣の人が動いた。
ふわり、香った匂いは柔軟剤みたいな優しい香り。


「何してん、おっさん」
「い゛、いだだだだだだっ?!」


男性は私の背後へとその長い腕を伸ばして、私の尻を撫でていた手を捕まえた。
静まり返った車内に響く、男性の声に一瞬でざわめきが起こる。

隣の彼は掴んだ手を上に突き上げるようにして、手の主を見つけ出した。
捻り上げられた手首の痛みに、堪らず声をあげたのは禿げかけた脂っぽい中年男性。
こんな人に触られていたのかと思うと、一度引っ込んだ吐き気が再びこみ上げて来る。


「朝から女の子のお尻撫で回すなんて、良え趣味やね」


ギリギリと、肌が捻れるような音が聞こえる。


「い、痛い痛い!!その手を離してくれ!」
「何言うてはるの、次の駅で降りてもらうで」


それまで離すわけにはいかへんなァ。
低く唸るような声に、男性は怯えたように表情を強張らせた。


「か、勘弁してくれ。会社に知られたら―…」
「会社どころか、社会にもバレるで。すぐに」


隣の彼はにんまりとした笑顔を貼り付けたまま、中年男性を見下ろしていた。


「今、若者はスマホで動画すぐ撮ってサイトにアップしはるからなァ。今日の夕方のニュースにならへんよう祈ることやね」


この情報社会で痴漢行為を働く、ということがどれだけリスキーなことか。中年男性は今更気がついたらしい。


「そ、んな……この程度の女の尻、本当に撫でたかった訳じゃない!」


いきなり喚き散らす中年男性は、思い切り私を指差す。


「地味で色気もない、男っ気もない可哀想な尻を慰めただけだ!この女だって、それを望んでいたはずだぁ!」


もし本当に動画を撮っている人がいるなら、お願いだからここを修正してからアップしてくれ、と心の底から願った。

それよりも、こんな公の場でなんでこんなこと言われなくちゃいけないの、と羞恥心が全身を支配していく。
耳の先も首も全部熱いのに、指先だけは異常に冷たい。


「…良ォそないなこと言えるなぁ」
「う゛…!」


肌が捻れる音が、強くなった。
それ以上強く握ったら、手首から先が千切れちゃいそう…


「お、い…なんか言えよ、そこの女!触られて気持ちよかったって!嬉しかっただろお?」


んんー?と、脂汗で光った汚い顔で私を覗き込んで来た。
なにこの男、唯のクズかよ。
クズに触られた私の尻が可哀想だよ。でも何よりも、クズにクズだって言えない私が一番情けない。


『っ…』


目頭がツン、と痛くなる。
どうしよう。本当に悲しくなって来た。
泣きそう。

胸の前で抱えたカバンを、更にきつく抱きしめる。


「…なァ、それ。ボクの顔見て言える?」
「はぁ?」


突然の彼の言葉に、中年男性は顔をしかめた。


「この子、ボクの好きな子なんやけど」


爆弾発言って、きっとこういうこと。
小さくなったざわめきは、再び黄色を帯びて大きくなった。

でもきっと、これはこの中年男性を煽る言葉。
もしくは、優しい彼が私のためについてくれた嘘。
真に受けてはいけない。と思いつつ、さっきまでとは明らかに違う熱が顔全体に広がる。今度は指先もちゃんと熱い。


「好きな子バカにされて、黙ってられるほどボクは優しくないで」


くつくつ喉で笑う彼に中年男性はしまった、と眉間に皺を深く刻む。
その時、駅に停車するアナウンスが流れ、辱めを受けた十五分は終わりを告げた。


「ほら、降り」


銀色の彼は荒々しく中年男性の引っ張り出す。
すると、誰かが騒ぎを連絡してくれていたのか、駅について電車を降りると駅員さんが数名と、私服だけど、多分鉄道警察とかいう人たちが数名。

銀色の彼が中年男性を警察官たちへと引き渡すと、一瞬で男性警官に囲まれていた。
駅員の制服に身を包んだ女性の職員に気遣いの言葉をかけてもらい、幾つか質問に答えた。


「お名前、教えて貰えますか?」
『あ、みょうじなまえです』
「みょうじさんですね、被害届はどうされます?」


ちらっと横目で中年男性を見ると、此の期に及んで、違う、とか。私はやってないとか。あの女が悪い、とか。とにかく醜い悪足掻きをしていた。

十五分もの間辱めを受け、精神的にも体力的にもごっそり削り取られた私は、残りのHPは僅か15%。
こんな状態で被害届書いたり、そのほかの質問に答えなくてはいけないのは正直しんどい。

今日は大事な会議も入っていなかったし、外出予定もない。被害届なんて出さずに、今日はもう家に帰って布団にダイブして眠ってしまおう。全て夢だったことにしてしまおう。

そう決意して、その旨を伝えると困ったように笑いながらも、わかりました、と言ってまた幾つか質問に答えると私の元から離れていった。


「大丈夫?」


一人きりになった私に向けられた、優しい声に顔を上げる。
橙色の朝日に助けた銀髪が、キラキラ光っていた。


『あ、はい…っていうか! 時間大丈夫ですか?!』


電車が発車するベルが鳴り響くホームで、漸く彼の都合にまで気が回った。
私のことなのに、私は何もしていない。


「あァ、今日は仕事休みやし。ボクんことよりも自分の心配しとき」
『すみません…』


どこまでも果てしなく優しい彼に、申し訳ない気持ちが溢れ出す。
しゅん、と俯く私の頭上に、くすっと小さな笑みが落ちてきて、


『いっ!』


額に強い衝撃を食らい、あまりの痛みに額を両手で抑えた。
涙目で見上げれば、彼は少し意地悪な微笑みを浮かべていた。
白く、長い人差し指がこちらに向けられていた。
あァ、あの指が私の額を弾いたのか、と理解した。


「ボクが欲しいのは、すみませんなんて言葉やないねやけど」


そうだ、これだけ色々助けてもらっておきながら、私はきちんと感謝の言葉も伝えていない。
私はばっと姿勢を正し、深々と頭を下げた。


『本当に!ありがとうございました!』


1、2、3…と心で数えながら頭を上げる。
頭をあげると、そこには固まったままの彼。

あれ、声大きすぎたかな。

モヤっとしたものが心を覆い、不安気に彼を見つめると彼はゆっくりと手を口元に持って行き、小さく震え始めた。


『え、ど…どうかしたんですか?!』


様子が可笑しい彼に近寄って、俯き加減の顔を覗き込んだ。


「ふ…っ」
『…え?』
「ふ、ふふ…っ いや。違うねん」


覗き込んだ彼は、あろうことか笑っていやがりました。


「いや、予想しとった言葉と違ったもんやから…」


笑いを堪えているせいで、彼の柔らかな声は震えていた。
一体何を予想していたのやら。

彼はひとしきり笑った後、目尻に溜まった涙を指で擦る。


「はー、おかし」


くくっ、とまだ収まりきれていない笑いが漏れる彼に、少し頬を膨らませてみた。
素直に感謝しただけなのに、こんなに笑われることなんてない。失礼しちゃう。


「そないな顔せんといて。そない顔も可愛らしいけど」
『っ…何を…』


可愛らしい、なんて。多分人生で一番可愛かったであろう、生まれてからの三年間くらいしか言われたことない。

物心ついてから、初めて面と向かって可愛いと言われ、顔が熱くなる。
反応に困って俯いて居ると、彼の細い指が私の髪をひと束掬った。
指に巻きつけるようにして、私の髪に自身の唇を当てた。
それだけの行為が、物凄く妖艶な物に見えて嫌でも顔が赤くなる。


「で、ボクの欲しい言葉は分かった?」


繰り返される、彼の質問。
頭をフル回転させてその質問の答えを探すけれど、適切なものが見つからない。
困って彼を見上げると、彼はまた意地悪く笑った。


「ボクの好きな人は君なんやけど」
『え゛!』


一瞬で再生されるのは、車内で辱めを受けていた時に、彼が中年男性に放った言葉。


「この子、ボクの好きな子なんやけど」


あの言葉は、その場で溶けて消えるだけの雪のようなものだと思っていたのに。その雪は溶けずに、また私の上に降り注ぐ。


『だ、だって…さっき会ったばっかり…』


私にとっての彼も、彼にとっての私も、同じ車両に乗り合わせただけの、1億3,000万人の中の1人だったはず。
通勤ラッシュの風景の1つだっただけの彼に色がつき、言葉を交わして初めて、彼という存在が風景の中から出てきて、私の生きる世界に入ってきた。
それがほんの数十分前。


「….実は、ボクはずっと前から君のこと知っててん」
『へ…』
「毎朝同じ電車の同じ車両に乗り込む、黒髪の良ォ似合う女の子。スーツはいつでもパリッとしているのに、寝坊した朝だけは毛先が跳ねとって」


小さく笑いながら話す彼。そんなことまでバレてるなんて、と羞恥心が私を取り巻く。


「そのアンバランスさが、えらい可愛らしゅう見えて、気がついたらいつも目で君を追っとった」


長い長い乗車時間、私は唯俯いて、ヒールで踏ん張るだけの毎日だった。
そんな私は、彼の中では風景の一部じゃなくて物語の登場人物になっていた。

不思議なこともあるもんだ。私は役をやるのが嫌で、いつも森の木Bとか、ワカメCとかを進んで演っていたのに。

誰かの物語の中で、主役をやっているなんて。
誰が想像出来ただろうか。


「…ボクの欲しい答え、分かった?」


もう三度、同じ質問をされているのに。
全て違う意味に聞こえるのは、彼の持つ不思議な魅力のせい。


『からかってません?』


背が高くて、足も長い。
嘘みたいに白い肌に、サラサラの銀髪。
整った顔立ちに、果てしない優しさ。

そんな彼が女性に不便しているようには思えなくて。
しかも、こんな地味で何の特徴もない私を好きになるなんて。

神様に逆らうも同然の行為だと思う。


「好きやなかったら、乗り換えの激しい車内で君の隣を死守しようなんて思わへんし、痴漢されててもあない必死に止めたりせェへんよ」


一切の恥ずかしさを見せずに、顔色さえ変えずに言うものだから。そのストレートすぎる言葉は私のど真ん中を貫いた。

ついさっき出会って、しかも私は知らない中年男性にお尻を触られて。車内であんな辱めを受けたのに。

不謹慎かな、でも。
この出会いを手放したくなくて。運命かも、なんて思っちゃう私は、自分で思っているよりも乙女チックらしい。


『―っき、今日はもう…会社休もうと思って…』


声が震える。彼はあんなに恥ずかしい言葉をつらつらと言うのに、私は彼の質問に答えるだけで、爆発しそうなくらいドキドキしてる。


『あの、もし良ければ…』
「せやね、ご飯でも行こか」
『っ、ご飯でも―、え!』


カバンを抱きしめながら必死の思いで言おうとしていたのに、彼には全てお見通しらしい。
見上げれば、今まで以上に意地悪な顔をした彼がいた。


「ほな、行こ。なまえちゃん」


自然に私の手を取り歩き出す彼。
ずるい、そんなの。私が誘うの、分かってたのね。


『はい、って、え? 名前何で知ってるんですか?』
「さっき、女の人に聞かれてたやろ」


最初から知っていたかのように、当たり前のように私の名前を呼んだ彼。本当にずるい。私はあなたの名前なんて知らないのに。


『っ、貴方の名前は?』
「ボク?ボクはギン。市丸ギン」


彼は立ち止まって振り返り、私と向き合う形になった。


『ギン……』


珍しい名前。けれど、口に出すとずっと前から知っていたような不思議な感覚に陥る。


「ん?」
『あ、いえ。呼んだだけです』
「…もう一回呼んで」


突然、縋るような彼の声は子どもみたいに小さく震えていた。


『ギ、ン…』
「もっと」
『ギン』


名前を呼ぶたびにギンは一歩私に近づき、大きな両手で私の顔を包み込んだ。
鼻先5センチまで近づいた距離に、一瞬戸惑う。

―けれど、何故か嫌じゃない。

むしろ、もっと近づきたい。
鼻先0センチの距離まで近づけて、それで―…


「足りひん」


彼の吐息が唇に触れる。


『ギン、ギン…』


何度も何度も、彼が満足するまで名前を呼んだ。


「なまえ」


低い声が私の名前を呼ぶ。
甘い甘い振動が、私の鼓膜を震わせて脳が痺れる。


あァ、私。キスして欲しいんだ。


そう気づいた私は、無意識に視線だけゆっくり下げる。
待て、を守っていた犬のように。
私が視線を外すと同時に、ギンは私の唇に噛み付いた。

運命みたいな出会い。
王子様みたいな素敵な彼。

人目を憚らず、我慢できずに噛み付いた唇。

夢みたいに甘いこのワンシーンに、胸のときめきが止まらない。


「ずっと、名前を呼ばれたかってん」


唇を離して、笑いかけるギン。
どうして、なんて聞かなくてももう分かる。


「ずっとずっと、君だけを見てたから」



甘ったるい言葉に、塩気を。
私も負けじと意地悪く笑った。


『ストーカーみたい』


思いがけない反撃に、ギンも楽しそうに笑った。


「せやね、今度はボクが痴漢しよか」
『やめて』


笑えないような冗談も、ギンが言うと何故か嫌じゃない。
応えるように笑うと、今度はどちらからともなく手をつないだ。


ギンの手は冷たくて、熱のこもった私にはちょうど良くて。朝の喧騒の中で、私たちだけ夢の中にいるみたいに静かだった。




御伽噺のつづき

16 9/23





 

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