夏の影法師





目が覚めた時から、一人やった。
記憶を辿っても、些細な出来事も両親の顔も、兄弟の有無さえも思い出せなくて。ぼんやりとした意識の端っこに、引っ掛かっていただけの記憶は、ボクの名前が「市丸ギン」や・てことと、ボクは死んだ、いうことだけ。それももう、百年以上昔のことで。今は記憶の欠片さえも残ってへん、唯の昔話。



―…抜けるような青が広がっていて、重たそうな雲が意地だけで浮かんでいるような、そない夏空。ボクは三番隊舎二番詰所の屋根の上で、雲の流れと時間の流れを同時に感じていた。

( あァ、雨が降りそうやなァ… )

漠然とした予想が思考を横切っていく。何を考えていたのか思い出そうとしても、目の前の青に全て吸い込まれていくだけで、ボクはすぐに思い出すことを諦めた。

『バァッ!』
「っ、」

何もかもを目の前の青に吸い取られた抜け殻状態のボクの目の前に、突如現れた満面の笑みと、陽に透けた蜜柑色の髪に驚いて目を見開いた。

「…何や、なまえちゃんやないの」

動揺をひた隠しにして、慌てて笑顔を張り付ける。

『今、吃驚しました?』
「んー、せやなァ…72点」
『えっ、低くないですか?』
「高得点や、おめでとう」

よっこらせ、とゆっくり上体を起こすとなまえちゃんは一瞬の躊躇いも見せずに、ボクの隣に座った。ふわり、香ったのは…、

「金木犀?」
『あ、匂います?さっきまで吉良副隊長と手入れしていて…』

なまえちゃんは自分の二の腕に鼻を埋めて自身の匂いを嗅ぐと、小さく笑った。

『んー、自分じゃ分からないですね』

その、道端の小石みたいにその辺に転がっているような小さな笑顔でさえ、ボクにとってはお天道様よりも眩しくて。真っすぐ見つめることさえ許されない様な気がして、ボクはいつも通り目を閉じる。

「……自分の匂いって中々分からへんよね」

無理矢理繋げた会話の先で、君はやっぱり同じように笑うた。

『そうですね。あ!隊長の匂いはねェ…』

なまえちゃんはぐっ、とボクに身を寄せて首元の香りを盗っていく。
その距離僅か十センチ。吐息を肌で感じる距離に、心臓が跳ねあがる。もし今、心臓の音がなまえちゃんに聞かれてしまうくらいなら、いっそ心臓が止まってしもても構えへん。

『―…隊長は、お日様の匂いがします』
「お日様……?」
『はい、お日様です』

あまりにも自分のイメージとはかけ離れた単語に、思わず聞き間違いじゃないかと聞き返す。せやけどなまえちゃんの笑みは変わらず、帰ってくる言葉も変わらへんかった。

『隊長が仕事サボってる匂いです』

ふふ、と小さく漏らす笑いに漸く納得がいった。太陽みたいな人や、とか。君はボクの太陽や、とか。そない抽象的な表現ではなく。唯々、干したての布団に飛び込んだときのような、あの匂いがするだけらしい。

『ここ、日当たり良いですもんね』

私も眠くなります、と欠伸を噛み殺すなまえちゃんを横目に、ボクはまた空を見上げた。重たそうな雲の中では乱気流が生まれて、小難しいことは良ォ分からへんけど…、雨が降りやすそうな天気に変わる。

「…なまえちゃんの傍も、何やお日様みたいな匂いするわ」
『お日様、ですか…?金木犀の匂い、もう取れっちゃったんですかね?』

再び自分の二の腕に鼻を埋める姿は、真剣そのもので。ボクの中で幾年もの間忘れ去られていた感情が、溢れてくる。

「―はは…っ、あかんわ…。なまえちゃん、可愛えなァ…」

腹筋の内側が震えて、呼吸が少しだけ苦しくなる。生理現象なのか、目の端に涙が溜まっていくのを感じ、ボクは指の関節でそれを拭った。

「はー、あかん…。こない笑うたのいつぶりやろか…」
『私、初めて見ました。隊長が”本当”に笑っている姿』

きょとん、と。それはそれは不思議そうな表情を浮かべるなまえちゃんの目の中には、仮面を外して笑うボク。あァ、ボクはそない顔して笑うねや。

―…目が覚めて、百余年。
乱菊と出会って、死神になって、隊長になり上がって、イヅルが傍におるようになって…。それでもどうしても、拭いきることのできひんかった”孤独”。それは、ボクの心の端っこにささくれのようにずっと引っ掛かっていて。チリチリと、嫌な痛みだけが残るソレの取り除き方を忘れとった。
この痛みはもうずっととれへんまま、このまま生きていくんやなァ、なんて。夏空の天気予報くらい漠然と考えとったけれど…。

『初めまして、本日より三番隊に配属されました、みょうじなまえと申します』

よろしく、と笑う君。揺れる蜜柑色と弧を描く桃色。
君から一瞬目が離せなくなった。眩しくて眩しくて、暗闇の中に居たボクの目には痛いくらいやったのに。
それでも君から視線を逸らせなかったのはきっと、その痛みを待っていたからなのかもしれへん。

あの日を境に、孤独色に染め上げられていたボクの人生に、君の笑顔が舞い込んできよった。
蜜柑色の髪と、同じくらい明るい君の笑顔が、最初は唯々眩しくて。見つめることさえも出来なくて。

『隊長って、中々目が合わないですよね』
「何を言うてるの。ボクは目を閉じてるんやから、合わないのが普通やろ」

冗談めかして誤魔化そうとしたけれど、どうやら君の方が少し上手らしい。

『ううん、絶対に合ってないです。ちゃんと私を見てください』

ボクの視線の先に回り込んで。ボクの顔を覗き込んで。
思わず視線が絡まったその瞬間、君は眩しく笑った。

『ほら、合うでしょう?』 

蜜柑色と白すぎる肌が相まって、君がより一層眩しく見える。
暗闇の中で、ささくれた孤独と一緒に暗闇から出る事を、唯諦めていただけのボク。どうせ暗くて、足元も見えへんねやから、動いたところで転んでしまう、と。誰にも聞かれてへんのにそうやって言い訳ばかりを並べて。そないボクに。気付いて、怒って、笑って、手を引いてくれた。光はこっちだ、と。太陽はこっちだ、と。足元が怖いなら、私が照らしてあげるから、と。温かくて、柔らかくて、優しくて。
君の笑顔を見るたびに、ボクは思わず泣きそうになる。

「―…なァ、なまえちゃん」

夏空の下、お天道様よりも優しい蜜柑色がボクの声にふわり、揺れる。

『はい、なんでしょう』

蜜柑色の髪から覗く、白い肌と柔らかい笑み。その全てに触れたい、と。言ったら君はどない顔をするんやろうか。

「お願いがあるんやけど…」
『仕事には戻ってもらいますよ!』

甘やかしません、と頬を膨らませるなまえちゃんに、ボクはまた吹き出した。

「ははっ…、まァ、仕事に戻らへんで良えねやったら、それが一番やけど…」

ボクは僅かに震える指先で、揺れる蜜柑色を一束掬った。

「また、暗闇で迷子になっても…、勝手にいなくならんとってな…」
『……はい、大丈夫ですよ』

唐突な願いにも、君は怪訝そうな表情は浮かべずに。子どもをあやすように、優しく笑うてくれるから。ボクはその笑顔に甘えたなってしまう。

『貴方に黙って、消えたりしません』

約束です、と付け加えてくれたなまえちゃんに、ボクも応えるように笑うた。
足元を照らす光を知ってしまったボクは、君がいなくなってしもたら怖くてもう二度と、歩き出すことはできひん。また暗闇の中で、影から伸びる孤独に自由を奪われて、その場にしゃがみ込んで子どもみたいに泣くんや。君が手を引いてくれな、歩くことはできひんって。我儘いうて、唯々泣くんや。

「……もし、ボクがまた暗闇に囚われてしもたら、その時は―…」
『ええ、ちゃんと探しに行きますよ』

最後まで言わへんでも、君は全てを悟ったように笑うた。

『こっちですよー、って、ちゃんと迎えに行きます』
「―…ありがとう」

君が笑うてくれるだけで、世界は幸せだと思えるから。


そのためにボクは、君が笑う世界を護るため、君に黙っていなくなる。
きっとその先で、ボクは暗闇に引きずりこまれるんやろうけど。
君が笑えへん世界なんて、ささくれた孤独の痛みよりもずっと痛いから。

せやから、ボクは―…



「や、今日も仕事をサボって日向ぼっこかい?―…ギン」



夏の爽やかすぎる空の下、それに溶け込むくらい自然な笑みを浮かべる男にボクの仮面は一瞬凍り付く。

「…厭やなァ、今から戻りますわ。藍染隊長」
「そうかい?あァ、美味しい茶菓子が手に入ったんだ。君も来るかい?三番隊の…、みょうじ君だったかな?」

彼の視線が、ボクの隣へと注がれる。あァ、あかん。この子は…、この子だけは。
あんたの所へは行かせへん。

『え?あ、是h―…』
「なまえちゃん、甘いモン嫌いやなかった?」
『う…。今バラさなくても良いじゃないですか』

なまえちゃんの微笑みが、アイツに向けられる前にその言葉を遮った。
なまえちゃんの視線が、ボクへと戻る。

「そうなのか。残念だ」
「良えやないですの、ボクだけじゃ華はあらしまへんけど」

ボクは屋根から降りて、彼の隣に立った。
まだ屋根の上からボクを見ているなまえちゃんに、手を振った。

「バイバイ」
『はい―…あ、隊長!仕事は!?』
「帰ったら、なァ」

ボクは、君を置いていくよ。
君のいる世界を、護るために。

もう二度と、ボクは帰ってこないかもしれへんけど。
もし、帰って来れたなら。その時は、君の白い手を取って、一言言わせてほしい。






―ボクは、君が好きや。






白い肌をうっすら紅色に染める、君が見たかった。




夏の影法師

17 09/10




 

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