今夜は隣に、ボクが居る





「あーらら、こらアカンなァ」
『…市丸、くん』


大学三年、八月の終わり。
風物詩である台風が、三つ纏めてやってきた。
そんな、夏の終わり。








土砂降りに打たれた私は、為す術もなく大学の昇降口へと駆け込んだ。
そんな私を見遣り、笑ったのは同学年の市丸君。


「傘、えらい豪快に壊したなァ」
『いや、あの…。こんなに風強いと思わなくて』


傘をさして外に出ると、風が私を追い抜き、傘をも奪い取ろうとしていく強風に、取られまいと柄を強く握り締めた。
刹那、傘は裏返しになり骨組みは複雑に折れてしまった。

傘が傘としての機能を失った瞬間、私はシャワーを浴びたかのようにびしょ濡れになった。


「せやなァ、この辺高い建物多いから、ビル風も相まって…やろなァ」


知っていたなら、教えてくれれば良いのに。
なんてセリフが脳裏を過ぎっていったけれど、そのセリフを捕まえて言葉に出すように脳に命令するのは気が引けて、とりあえず止めておいた。


そんな私を尻目に、市丸君はニタニタ貼り付けたような笑みを浮かべている。

―…正直、苦手。この人。

ヌルヌルと、なんだか蛇みたいに人の心の中に侵入してくるような。
こちらからは何も伺えないのに、市丸君は私の全てを知っているような気がして。
隠し事も秘密も、この人の前では何の意味もないような気がして。

近づきたくない、と思っているのに。

引っ張られるような、強力な磁石に引き寄せられるような。
目に見えない引力が働いて、気が付けばいつも、視界の端で彼を捉えてしまう。

怖い。

だから、近づきたくない。


「―雨、やまへんねェ」
『…そうですね、』


その言葉の先に言葉を続けようと、何故か私の隣にずっと立っている市丸君を見遣る。

見上げてしまうほどの長身。
スラリと伸びた手足、白い肌。
整った顔立ちに華奢な体つき。

豪雨の所為でいつもよりも薄暗い、無機質な昇降口ではその全てが彼の存在感を際立たせている。

あァ、しまった。
見とれてしまった。これは唯々不覚。


「何、ボクに何かついとる?」
『―…あ、ううん。何でもない…ただ、市丸君は帰らないのかな、って』


さっき続けようとした言葉を無理矢理引き出してきて、慌てて市丸君から視線を逸らす。
あからさま過ぎたかな、とも思ったけれど…。
もうやってしまったことはしょうがない。


「あァ、せやね。けど、この中ボクも出て行ったらなまえちゃんと同じ様に傘壊れてまうからなァ」


くつくつ、喉の奥で鳴らすように笑う。


『…思い出し笑い禁止』


そんな市丸君に、少しむくれてそう返す。
人の失態を笑うなんて、ひどい人。


「まァ、良えやないの。こない中一人でおったら不安になるやろ」


頭上に降ってきたのは、思いがけない優しい言葉。
表情は変わらないけれど、その声色は普段聞く声よりも随分優しく聞こえた。


それもそうか、と納得したとき。
目の前でフラッシュがたかれたみたいに風景が白く飛んだ。

そして二秒と置かずに、お腹に直接響くような、低い雷鳴が轟いた。


『―…ッひ…』


幼い頃のトラウマから、本当に雷が苦手な私。
手足の感覚は一瞬で吹き飛んで、全身の血が止まったような感覚。

何の音も聞こえなくて、自分の心臓の音さえ消えていく。
視界も暗くなって、目の前の風景が変わっていく。


―あの日と同じ、誰もいない暗い部屋が目の前に広がる。











ー…完全に意識が飛んだ私を、誰かが呼んだ。


「―ん、―…ちゃん、」


聞いたことのある声だ。
でもおかしいな、今この家には私しかいないはずなのに―…


「なまえちゃん…!」
『ッ…!』


ビクン、と体が跳ねる。
目の前にあった光景はかき消されて、代わりに雨が地面を打ち付ける光景が広がる。


「なまえちゃん?」
『い、ち…まる君…』


初めて、笑顔を貼り付けていない市丸君の、心配そうに眉尻を下げた顔が私を覗き込んでいた。


「あァ、えかった…」


はぁー、と長いため息を吐いて、その場にしゃがみ込む。
サラリ、銀色の彼の髪が揺れた。


『あれ、私…、』
「雷、苦手なん?」


言いたくなかったら、良えけど。
と、彼らしくもない気遣いを見せる市丸君に、私は無理矢理微笑んでみせた。


『だいぶ、苦手』


それだけ言う私を見上げる市丸君。
彼のほうが下にいるなんて、初めてだ。


まだ雷に震える私なんかお構いなしに、雲の中ではゴロゴロと雷が唸っている。


「―…ほな、こないとこ居らん方が良えね」


市丸君はそう言って立ち上がると、本当に自然に私の手を引いて建物の中へと進んでいく。
唸る雷の声は遠ざかり、私は市丸君に引かれるがまま、廊下を進んだ。


角を曲がって階段を上り、少し廊下を進んだところ。
市丸組んはそこにある、[ 視聴覚室 ] と書かれた扉のドアノブに、ポケットから取り出した鍵を差し込む。
カチャリ、何の障害もなくすんなり鍵が空いて、重たそうな鉄製の扉を開けた。
促されるがまま中に入ると、市丸君は内側から鍵を閉めた。

そして入口で立ち止まったままの私の横を通って、緩やかな下り坂になっている通路を歩く。
少し大きめ。ライトグレーの"tobiuo"のショルダーバッグを適当な席に置くと、最前列の席に座った。


「ここやったら、雷の音も光も気になれへんやろ」


そう言う市丸君の言葉に、初めてこの部屋に窓がないことに気がついた。


『え、でも…なんで鍵…』
「あァ、ボク映研サークル所属してるんよ」
『エイケン…映画研究…?』


答えを求める私の声に、せや。と頷く。


「暫くここに居ったら良え」
『でも、そろそろ閉校の時間…』
「見回り来るかもしれへんけど、戸締りの確認しかしィひんから」


そう言う市丸君は、にやりと笑ってみせた。


「窓もないし鍵も閉めたさかい、電気点いとるのも空調使うてるのも、バレへんよ」


確信犯というか、常連というか。
狡賢い市丸君に、この時ばかりは感謝した。


けど―…、


『市丸君、時間は平気なの?』
「あァ、ボク?心配せんで良えよ。今日はバイトもないし、一人暮らしやし」
『一人暮らし、なんだ…』


知らなかった市丸君の一面。
今日この色々な偶然全てが重なり合わないと、きっと一生知ることのなかった情報。


「なまえちゃんは?」
『―…私、も…一人暮らしみたいなものだから』


市丸君は変わらず仮面みたいな笑顔を貼り付けているけれど、その表情が一瞬だけ曇った気がした。
きっと、私の影のある言い方に気づいたのだろう。


「―…映画、見る?」


話題を変えようとしたのか、市丸君は私の反応んも見ずに立ち上がると、部屋の奥にある視聴覚準備室に入っていった。


ほんの一分ほどで、数本のDVDを手に市丸君が出てきた。


「どれが良え―…って、そういえば、なしてそない遠いとこに立ってるん?」
『へ?』


今更気づいた、とでも言いたげな表情で私を見遣る市丸君。
中々広いこの教室で、入口に立つ私と教壇付近に立つ市丸君とで、二十メートルくらい離れている。

ここまで散々気遣ってもらっておきながら、" あなたが怖くて近づきたくないです " なんて口が裂けても言えなくて。

軽くパニック状態の脳が選んだ言葉が、慌てて口から飛び出していった。


『あ、ああああの、何となく何処に座れば良いのかわからなくて…!』
「…せやね、ボク的に一番大きいスクリーンで見るなら…、ここがオススメ」


滑り出したような言葉を疑いもせず、市丸君は最前列から六列後ろまで歩き、その列の一番通路側の席を指定した。


『あ、ありがとう』


私は少し早足でそこまで行くと、カバンを下ろした。


「で、どれが良え?」


市丸君は、改めて私に持ってきたDVDを見せた。


『え、っと………―…ッ!?』


市丸君が私に勧めた席に、五本のDVDを並べた。
しかしそのパッケージから見て取れるのは…


『全部、ホラー…』


吐く息のほうが多く、空中で消えていった言葉。


『い、色んなジャンルのを持ってきたわけじゃないんだね』
「? 何言うてるの。全部違うジャンルやで」


きょとん、とする市丸君。同じくきょとん、とする私。
改めてパッケージを見るけど、ごめんなさい。正直どれも同じに見えます。


「えェ?ほんまに分からへん?」


市丸君の言葉に力なく頷くと、やれやれ。といった具合に市丸君が一つ一つ指差し始めた。


「これが動物系のパニックホラーやろ、こっちがゾンビ、これがジャパニーズホラーで、これがグロテスク、ほんでこっちがサスペンス、他にもあるけどどないすr―…『いえ、もうお腹いっぱいです』」


そういうジャンルの違いね、なるほど。
アクション、コメディ、恋愛、とかそういうのじゃないのね。
さすが映研。…いや、さすがなのかな。


「ほんで、どれが良え?」
『……どれでも良かとです』


作られた笑顔じゃなくて、キラキラとした楽しそうな表情に絆されて…
というか、単純に諦めて、半ば投げやりに呟いた。


「んー、ほな…どれも捨て難いんやけど…この監督好きやねん」


そう言った市丸君は、ジョージ・アンドリュー・ロメロの映画を手にとった。
ふむ、ホラーは全般大嫌いだけど、ジャパニーズホラーじゃないだけマシか…。


「ほな見る前にボク、飲み物買うてくるわ。なまえちゃんもいるやろ?」
『え、じゃァ私も一緒に―…』


慌てて立ち上がろうとした私にを、市丸君は手のひらをこちらに向けて制した。


「良えの?多分まだ雷鳴ってるで」


雷、という言葉に一瞬体が竦む。


「―…ボクが買うてくるさかい、何が良え?」
『…ッ…じゃあ、ミルクティーを大きいペットボトルで』


私のリクエストに、わかった、と私の頭をぽんぽんと二回軽く叩いて、市丸君は視聴覚室から出て行った。


「あァ、せや。そろそろ見回りの時間やから、内鍵閉めといてなァ」


扉が閉まる前に、市丸君は隙間から顔だけを出してそう言い残し、自分は鍵持っているから。と出て行った。
私は言われた通り、市丸君が出て行ってすぐに視聴覚室の扉の内鍵を閉めた。




―……暫く、静かだった。
どのくらい経ったかはわからないけれど、唯静かで。
雷の音なんか全く聞こえなくて、私の呼吸音と心臓の音、衣擦れの音だけが妙に響く、広い教室。

ふと、市丸君が置いていった鞄を見遣る。
鞄から覗いているペンケースもタンブラー、メガネケースも全部CHUMSだった。


( CHUMSが好きなのかな )


CHUMSは愛らしいペンギンのロゴが印象的で、アウトドア好きな女子からも人気のあるブランド。スウェット地が使いやすくて、実はひっそりと、私も好きなブランドでもある。
でも、遠目でしか市丸君のことを知らなかった私には、市丸君がCHUMSを愛用しているなんて想像すらできなかった。


一つ、一つと市丸君の知らなかった一面が見えてくる。
―…ううん、知ろうとしていなかっただけで、きっと市丸君と仲の良い人たちなら、CHUMSが好きなのも、一人暮らしをしているのもきっと知っている。
私が知ろうとしていなかっただけ。

それだけなのに、そのことが心にモヤをかける。
少しだけ、胸が痛い。


映研に入っているのも、ホラー映画が好きなのも。
時々、仮面が外れることも、意外と優しいことも。

きっと他の人だったら知っている、当たり前の情報。
でも、私は知らなかった。

彼の白い肌と華奢な体躯、貼り付けた笑顔と銀色の髪。
私は表面上の市丸君しか知らない。
それなのに、彼を嫌いだと決めつけていた。

でも、嫌いだと思わないと…。
彼の引力に負けて、好きになってしまいそうだった。

だから、彼のことを知ろうともせず。
引力にさえ気づかないふりをしていた。

それなのに。

忌々しいあの日の記憶が、雷によってフラッシュバックする。
その場に居合わせたのが、何の因果があってか、ずっと遠ざけていた市丸君で。

気づきたくもなかった市丸君の優しさに、触れてしまって。
奇しくも、その優しさに頼らざるを得なくて。

そして今も、市丸君の優しさに寄りかかってしまっている。


どうして避けたい物事や人物って、避けようとすればするほど近寄ってくるんだろう。
本当に、それこそ神様とか運命とか、目に見えない…、存在すらも疑わしい力によって、操作されているとしか思えない。


もし、神様がいるなら問うてみたい。


『どうして…、私ばかりこんな目に遭わせるんですか』


誰もいない教室で、誰言うわけでもなくそう呟いた。



―…バツン―…ッ


『ッえ、』


突然大きな音がして、何かの電力が余韻を残すような音で切れたのがわかった。
目の前は真っ暗。停電だ、と一瞬で気づくも、もう全てが手遅れだった。

再び、あの日がフラッシュバックする。


小学三年生の夏のあの日も、こんな豪雨だった。
今日みたいに、大型の台風が近づいていた。
そんな日に限って私は熱を出して、一人家の中で留守番。
両親は共働きで忙しい人だった。


雷はまだ子どもだった私をわざと怖がらせるかのように、独りきりの部屋に鳴り響く。

怖くて、怖くて、寂しくて、心細くて。

布団を頭から被った。
早く台風が去ってくれるのを、待った。
もしくは、両親が帰ってきてくれるのを、待った。

でも、そんな期待をもかき消すように雷鳴は轟いて、雷は、唯一の心の支えだった、電気さえも奪った。

近くで雷が落ちたのか、ブレーカーが落ちて家の電気が全部消えた。
少し大きめの音量で点けていたテレビも、普段入る事もない部屋の電気も、全部消えて。
真っ暗闇が、襲ってきた。

勿論、幼い私にブレーカーの上げ方がわかるはずもないし、それどろころか届きもしない。
眠ってしまえば、時間なんてあっという間に過ぎていく。

そう思って私は必死に目を閉じて。
眠気が呆れ顔で私を夢の中へ連れて行ってくれるのを待った。



―…それからどれくらい経ったのか。
どこかで何かがぶつかっているような音で、意識が浮上した。

いつの間に眠ってしまったのか。
全く検討もつかない私は、どのくらい眠っていたのかもわからない。

唯、浮上した意識の端っこで、未だ収まる気配のない風と雨の音を捉えていた。
雷もまだ、唸り声を上げている。

しかし、その暴風雨の音に混ざって、違う音を捉えた途端意識が覚醒した。

ガンガン、と定期的なリズムでぶつかるような―…
いや、何かを叩いている音。

叩いている…?
誰が?何を?

…もしかして、お父さんかお母さんが帰ってきた?


その物音に淡い期待が色をつけて。
私は勢いよく起き上がった。

しかし、電力は回復していないから、布団の中も外も同じ暗闇に変わりはなくて。
閉めてあるカーテンは、雷の光によってスクリーンとなり、窓の外の木々の影を色濃く映す。

その様子に、再び恐怖がじんわり広がっていく。
刹那。

今までとは桁違いに光った雷。
その光によってカーテンの向こうに映し出されたのは、






窓を金槌のような物で叩く、知らない人影―…。






一瞬で気道が狭くなったように、呼吸が自由にできなくなって。
苦しさにもがきながらも、自分の部屋から出て、家の奥にある、足の踏み場もないくらい散らかった物置の扉を開けた。
その物置の奥にある、使わなくなったお母さんの嫁入り道具のクローゼットを開けて、お母さんの若い頃の、埃やカビ臭い服とかコートとかをかき分けて、自分の体をねじ込んだ。
それからクローゼットを閉めて、唯、息を殺していた。


どのくらい経ったのかわからない。
気が付けば、目の前でぐしゃぐしゃの顔になりながら泣く母親の姿と、赤いサイレンが沢山光っていて。
夜は明けていて、風も雨も嘘みたいになくなっていた。

青い青い晴れ渡った夏の空と、絵に描いたような立体的な真っ白な雲。
何も知らずに蝉は鳴いているし、聞こえる喧騒はいつもと変わらない。
恐怖に侵食せれた私の心と母親の泣き顔だけが、場違いだった。



私の心を、決して消えることのない闇が覆っている。
闇の取り込まれていく私を、呼び止めたのは―…



「―…ッなまえ…!!」


視界が、戻ってくる。
真っ暗だった視野が徐々に広がっていき、暗闇に映える白い顔をぼんやりと捉えた。


『い、ち…』
「あァ、もう。ほんまに…ほんまに怖かったわ」
『ッ…』


彼の名前を呼ぼうとしたけれど、喉が乾いて上手く声が出せなかった。
そんな私を、市丸君の広い腕が包み込んだ。

細いのに、逞しい腕。
その腕に力いっぱい抱きしめられる。

市丸君、体温低いんだね。

そんなことを冷静に考えている。
押し付けられた市丸君の胸を、内側から凄い勢いで心臓が叩く音がする。

じんわりと汗ばんだような肌。
少し上がった息に、上下する肩。


『―…もしかして、走ってきてくれた?』
「当たり前や。もう…心臓止まるかと思ってん」


ボクらしゅうもない。となんだか照れくさそうに笑う声。


走ってきてくれたことが、嬉しかった。
それを、当たり前だと言ってくれたのが、嬉しかった。




…走らなあかん思た。
君が、声も上げず、涙も流さずに泣いていると思たから。


課題のレポートを仕上げようと、遅くまでパソコン室に残っていたのが始まり。
階段を降りると、憂鬱そうな表情を浮かべ、恨めしそうに雨を見遣る君。
溜息一つ落とすと、傘をさして外へ出て行った。


( あァ、あかん…今出て行ったら― )


勿論、止める間もなく。
彼女は出ていき、強風にからかわれて帰ってきた。


「あーらら、こらアカンなァ」
『…市丸、くん』


戻ってきた彼女の背中に声をかける。
彼女に名前を呼ばれて、一瞬脳が揺れる。


( ボクの名前、知っとったんや )


ボクは一年前に君のことを知った。

胸のあたりまで伸びた、唐茶色の髪が綺麗やと思ったのが、大学二年の春。
いつもは下ろしとるのに、運動するときだけ緩く纏める。

後れ毛が汗をかいた首筋に張り付く。
楽しげに笑う声も、目を細めるとできる、目尻の皺も。

気がついたら夢中になって君を追いかけとった。



「あの子、良ォ見かけるなァ」
「―…あァ、みょうじ なまえさんッスね」


ボクの隣で、研究室の後輩の檜佐木君が教えてくれた。
檜佐木君は彼女と同じサークルらしい。


「みょうじ なまえさん。確か市丸さんと同じ三年生ですよ」
「ふゥん…」




せやけど君は、ボクのことを意図的に避けているかのように、尽く接点がなかった。
檜佐木君に用がある、と口実を作ってサークルに行くも、君はそっと室内から出て行ってまう。

時々中庭で見かけるけれど、話しかける間もなく、友人の元へ駆けていく。
珍しく合同講義で同じ教室になっても、ボクの席から一番遠いところに身を置く。

でも、一度も話したことなんてない。
避けられる要因がわからへん。


もっと、君を知りたくて。
サラリと貰た君に関する情報を集めた。


「あれ、檜佐木君CHUMSなんや好きやったっけ」


檜佐木君の鞄から覗く、CHUMSのロゴが入った紙袋。
それに視線を落としながら何となく問いかける。


「あァ、これはみょうじさんの誕生日プレゼントです」
「あの子、誕生日なんや」
「はい、みょうじさんCHUMSが好きだと言っていたので」


思いがけないところで、君の誕生月と好きなブランドを知った。



君のことは、どれだけ聞いても飽きひんかった。
だけど、君の声は知らなくて。
もっと沢山の笑顔が見たくて。

願わくば、ボクが君を笑顔にさせてあげたくて。


そない願いが、届くはずないと。


思い始めた、のは君を好きになってから二回目の夏。


台風が三つ纏めてやってきた、嵐のような夕暮れ時。
ずっと聞きたかった君の声が、ボクの名前を呼んだ。


くりっとした大きな瞳がボクを捉え、あの綺麗な唐茶色の髪が目の前にあった。
そない君と、ぽつり、ぽつり。
降り出しの雨みたいな会話をしていると、突然白く光った。

あァ、雷や。

そう瞬間的に理解したけれど、なまえちゃんはアカンかった。


サァ、と顔が一瞬で白くなる。
瞳孔が開いて、小さく震えだす。
震えているのに、呼吸が止まってしまったのか、なまえちゃんはものすごく静かになった。

これはあかん。

危機感と焦燥感がボクを襲う。


「なまえちゃん!なまえ?!」


少し大きめの声で、なまえちゃんの名前を連呼する。
せやけど、そない刺激じゃなまえちゃんの意識を戻せへん。
ボクはなまえちゃんの薄い肩を掴んで、少し荒く揺すった。


「なまえちゃん…!なまえちゃん!」


何度目か分からないけれど、なまえちゃんの名前を呼び続けると、漸くビクッと体を大きく躯を震わせた。


「なまえちゃん?」
『い、ち…まる君…』


まだ真っ白なままのなまえちゃんの顔を覗き込む。
光のなかったなまえちゃんの瞳に光が戻り、その瞳は少し震えながらもしっかりとボクを捉えた。


「あァ、えかった…」


安心感から、ボクは足の力が抜けてその場にしゃがみ込む。


それから雷が苦手や言うなまえちゃんの手を取って、視聴覚室へと連れて行く。
映研でえかったと、今日ほど思うたことはない。

ボクの選んだ映画に体を強ばらせながらも、諦めたかのように頷いてくれた。
さて、ボクは雷が鳴り止まない廊下を進んで、飲み物を調達する。



『…ッ…じゃあ、ミルクティーを大きいペットボトルで』



あァ、ミルクティーが好きなんや。
また一つ、君のことを知れた。

胸の中が暖かくなる。
心ン中だけ、違う血液が流れているような錯覚。
なんとなく、胸のあたりを手で抑えながら、自動販売機で自分の珈琲となまえちゃんのミルクティーを購入した。
その瞬間、バツンと大きな音がして、電力が落ちた。
一瞬で暗くなる廊下。
雷のフラッシュと、僅かに差し込む街灯の灯りだけを頼りに、ボクは駆け出しとった。


焦って震える手。
そして暗闇の所為で、中々ドアノブに鍵が刺さらない。

どうにかねじ込んだ鍵を開けて、中に入る。
窓すらない視聴覚室は完全な闇が支配しておって。
目が慣れるまで全く身動きが取れへんかった。

目が慣れて、うっすらと見えるようになっても。
この広い部屋の中になまえちゃんを見つけられへんかった。


( どこや…!? )


焦るボクは、思い出したかのようにスマホを取り出してライトを点けた。
せやけど、小さなライトが照らす先になまえちゃんの姿はなく。
ボクの焦りは消えへん。

元々なまえちゃんが座っとった席には、荷物だけが残っとる。
きっと、部屋の中になまえちゃんは居るはずやのに…。

足元もろくに見ず、ボクは躓きながらも教室の奥へと進んでいく。
そして視聴覚準備室に入ると、部屋の隅でこれでもかと小さく蹲る、なまえちゃんを見つけた。


「―…ッなまえ…!!」


思わず名前を叫んで、彼女に駆け寄る。
ガタガタと震える彼女を自分に引き寄せて、


「あァ、もう。ほんまに…ほんまに怖かったわ」


彼女の体温をボクの腕の中に閉じ込めた。
壊れそうなくらい華奢ななまえちゃんを、壊れに程度に力いっぱい抱きしめる。
腕の隙間から、なまえちゃんが消えてしまわないように。
体温も呼吸さえも、漏らさないように。
きつく抱きしめる。


『―…もしかして、走ってきてくれた?』
「当たり前や。もう…心臓止まるかと思ってん」


まだ若干震える声がボクの腕の中で少しだけくぐもって聞こえた。
ボクらしゅうもないセリフを吐いて、一緒に不安も吐き出す。


あァ、こないなときやのに。
不謹慎やね。

せやけど、君をこの腕に閉じ込めていられる時間が嬉しくて、幸せで。


『もう、大丈夫…』


そう言って身をよじるなまえちゃんを、逃すまいとボクは更に力を込める。


「あかん。まだ、ボクが」


そう言うと、なまえちゃんは耳まで赤くして再びボクの腕の中で固まる。


『―…私、ね…』


ボクの腕の中で少し居心地が悪そうにそう切り出したなまえちゃん。
話し始めたのは、彼女の心に巣食う闇。
ボクは腕の力を少し緩めると、彼女はボクと向き合ったまま、少しだけ離れた。


『…それが原因で両親は離婚。母親に引き取られたけれど、まるで腫れ物扱い…』


だから、家での会話なんて殆どないの。
そう寂しそうに言うなまえちゃん。


『雨の日は部屋の電気はつけっぱなしで、テレビを少し大きめの音量でつけておいても、眠れなくて…』


そう言って視線を床に落とすなまえちゃん。
雷が鳴る日は、部屋の雨戸も閉めてヘッドホンで音楽を聴く。
それでも体調は悪くなるらしく、台風の日は寝込んでしまうことも多い。


『今日はどうしても提出しなくちゃいけないレポートがあったから来たけど…』


雷まで鳴るなんて、予想外。
少し頬を膨らませて愚痴るなまえちゃん。

漸く、気持ちが落ち着いてきたらしい。


『ごめんね、初対面でこんな情けない姿見せちゃって』


眉尻を下げて、申し訳なさそうに笑うなまえちゃんに、ボクも笑ってみせた。


「不謹慎やけど、ボクはなまえちゃんの新しい一面が知れて、かなり嬉しいんやけど」
『え、結構…というかかなり暗い話題だったけど』


しかも、誰にも言ったことないし。と付け足された言葉に、ボクの心は躍る。


「…これから先も、誰にも言わんで良えん違う?」


突然の提案に、どうして?とでも言いたげな表情でボクを見る。
その疑問には敢えて気づかないふりをした。


「…今夜は一日、雷が鳴ってる。雨もやめへんし強風の影響で電車も止まった」


初めて知る情報に、戸惑いを見せるなまえちゃん。
そないなまえちゃんの隣に座って、壁に背中を預けて笑った。


「電力はあと一分で復旧して、電気も空調も使い放題。そして何より、」


ボクは言葉をそこで一度切ると、顔だけなまえちゃんの方へ向けて微笑んだ。


「一人暮らしでバイトもないボクが、今ここに居てる」


どないする?

その問いかけに、なまえちゃんは少し戸惑いながらも笑った。


『今夜は…良く眠れそう』


その言葉を合図にボク等は立ち上がり、ちょうどその時電力も回復して電気がついて空調も動き出した。


「ほな、手始めにジョージから観よ」
『…違う意味で眠れなくなりそう』
「大丈夫やて」


今夜はボクが居てるやろ。


自分でも驚くくらい甘い言葉やと思う。
せやけど、これが本音なのだから仕方ない。


『どうして、私なんかにそんな…』


彼女の戸惑い色した質問にも、もう慣れた。


「せやね…、」


それはまだ、教えてあげへん。
夜はまだ、長いから。


ボクとなまえちゃんは二人並んで、前から六列目。
一番通路側の席に座って。先ほど買うてきたミルクティーと珈琲を机に用意して上映開始。

普段は暗くする室内やけど、今日は君が居てるから電気はつけたまま。


早速のゾンビの登場に、震えるなまえちゃんの手を、そっと握った。
なまえちゃんは握られた自分の右手を見つめて、照れくさそうに笑ったから。

ボクはその小さな右手を握り締めたまま、左手で頬杖をついてスクリーンを見つめた。



もう何度も何度も繰り返し見てきた映画やけど、
今夜は特別、面白かった。


それもこれも、今夜は君が隣に居てるから。


怖がる君の隣には、今夜はボクが居てるから。


三本目の映画の半ばあたりで、なまえちゃんはボクに寄りかかるようにして規則正しい寝息をたてる。

ボクは寄りかかるなまえちゃんの額に唇を押し付けた。


「まだ怖いなら、」


夢の中まで会いに行くで。


せやから安心して、眠り。
今夜はボクが居てるから。




真夏の台風がつれてきた、

君と過ごす視聴覚室の夜。





君が目覚めたときに、

--------------------
隣で笑うて、好きやと言いたい。


( 今は唯、安心して眠って )

16.8.25.1:39



 

[back]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -