恋のレシピ
『あの…浦原先生』
「何スか?」
『……これ、呑まなきゃダメですか?』
「勿論ス☆」
目の前に差し出された、何処からどう見ても怪しい飲み物。
可愛らしい小瓶に入った、これまた可愛らしい淡いピンクの液体。
部屋に置いておいたら、 可愛い小物☆ 的な印象で終わるけど、これを胡散臭い下駄帽子男が私に呑めというのだから、可笑しい。
そもそも、何でこんなことになっているのかと言うと。
「其処行くお嬢さーん」
『…なんですか、浦原先生』
昼時の賑わう校内でカランコロン、と廊下に響く音と、陽気な声に振り向く。
勿論、振り向かずともそれが誰であるかは分かり切ったことだけれど。
「あ、嫌ッスねぇ、そんな怖い顔しないでくださいよ」
『地顔です』
校内だというのに、この人は下駄に帽子を被っている。
素顔を見せない謎めいた人で、最初はみんなに気味悪がられていた。
( 一人称も"アタシ"だしね )
「あ、今なんか失礼なこと考えましたね?」
『ええ、まァ』
「否定しないんスねぇ」
こんな可笑しな奴人だが、ある日なんかの厳粛な式のとき、スーツ姿で現れた彼に全校生徒が困惑した。
一瞬、みんなスーツ姿の男が誰なのか分からなくなったのだ。
そう、私以外の全員が……。
『…それで、何か用があるんですか』
「や、実はっすねぇ、お嬢さん今回のテスト赤点だったんスよ」
『……は?』
これは予想外の出来事だ。
そう言えば、この人物理の先生だった……。
どうしよう、確かに出来は悪かったとは思ったが、まさか赤点の域だっただなんて。
「ってことで、補習ッスね☆」
『補習?』
「ええ、本当は留年させてあげたいところなんですけど、学校側の指示で今回は補習で単位取得できることになったんスよ」
留年って、この男は怖いことをサラリと言いやがる。
「補習を受ければ、留年はナシってことになるんスけど、それでも良いッスかね?」
決まり切ったことを聞くな、と思いつつも、私は頷いた。
「じゃあ、明日の放課後に補習を行うので物理準備室まで来てください」
そう言って男はまたカラコロと下駄を鳴らして昼時の廊下に消えていった。
そして私は補習に来て今に至るのだが。
『先生、赤点が私だけってどういうことでしょうか』
「単に貴女の努力が足りなかったってことッスねぇ」
確かにそうかもしれないけど。
この人は何でそうサラリと傷つくことを言うかなぁ。
「さ、無駄話は良いからさっさと補習やっちゃいましょ」
そう言って置かれたのが、さっきの小瓶。
怪しすぎて手を伸ばす気にもならない。
『さっさとって、これ…体に害とかないんですか?』
「そんなバレたらクビどころか、教師生命オシマイな物を生徒に呑ませるわけないじゃないスか」
そう言われてしまうと、それが正論だから何も言い返せないんだけど。
それでもこの液体は怪しすぎる。
私はおずおずと手を伸ばしてその小瓶の蓋を取った。
コルク素材の蓋を取れば、甘くて何とも言えないような豊潤な香りが鼻孔を擽る。
柑橘系のようなさっぱりとした爽やかな香り、花のような柔らかくも華やかな香り。
梅干し見たときみたいに、何故かじゅわっと唾液が分泌される。
「ほら、飲みたくなってきたでしょ?」
得意げに言う先生に不信感を抱きつつも私はその小瓶に唇を付けた。
僅かに甘味が口内に広がる。
私は決心して瞳を閉じ、小瓶を傾けた。
なんとなく脳裏で、不思議の国のアリスを思い出した。
小さくなる薬を飲むとき、こんな感じだったのかな、なんて。
ちょっとメルヘンな考えをしていた私の口内に液体が侵入してきた。
―ゴクン…
喉を鳴らして液体が胃に落ちる。
『…甘い…』
仄かに甘いその香りが鼻を抜けていく。
柑橘系、華やかな薫り、紅茶の様な品のある味、でも仄かに砂糖の味がして甘い。
「味は実際のところどうでも良いんスけど、美味しいなら良かったッス」
それよりも、と続ける浦原先生がグッと顔を寄せてきたときだった。
帽子の影に隠れた瞳と目が合った。
―ドクン…ッ
何これ、心臓が痛い。
胸が、体が、顔が、熱い…
「何か体に変化はないッスかね?」
『へん…か…?』
胸が苦しい。何これ、呼吸が…出来ない…。
「例えば、胸が苦しかったり体が火照ったりとか」
そういう先生の症状には全て当て嵌まる。
私は必死で頷いて見せた。
「そうスか☆
いやァ、実験成功ッスね!」
『実験…?』
得意げな表情を見せ、私に微笑みかける浦原先生。
動機が激しくて、直視すると心臓が張り裂けそうだったから私は慌てて視線を逸らした。
窓から入る初夏の風が心地良くて、でも妙に肌は汗ばんでいて。
心臓が耳元で鳴ってるみたいに煩い。
憂いを帯びたような、アンニュイな感情が渦巻いて、溜息を引き起こす。
切なくて、苦しくて、でも甘い感情が私の中でかきまぜられていく。
ふと見上げれば、窓の外を見遣る浦原先生の姿があって、また動悸が激しくなるのを感じた。
胸が締め付けられて、苦しくて、何でだろう。
前々から心の何所かで燻っていたものが勢いを増して溢れかえるみたい。
だって、私…この気持ち、知ってるもの。
「どうしたんスか?」
浦原先生の横顔を見ていたら、不意にこっちを向いた。
優しい口元、柔らかな声、骨ばった綺麗な手。
帽子の影に隠れた、少し垂れた瞳。
『―…好き…』
唇から漏れた言葉に、気付くまで2秒。
きょとん、とした浦原先生の表情。
私、今なんて言ったの…。
『ッこ、この液体って結局何だったんですか?』
少し苦しいかな。なんて考えながら私はまた視線を逸らした。
「その液体の効果を聞かずに呑むからいけないんスよ」
『え…』
にやり、と意地悪く笑ったその顔に、心臓がぱっくり食べられた。
「一種の白状剤、ってやつッス」
『白状…?』
「ええ、ですから、アタシの事好きでしょう?」
不敵に微笑んで、私に近寄る。
一歩一歩近づくたびに、鼓動が激しくなる。
これも薬の影響なのか。
『まさか…ッ』
「嘘は吐くもんじゃァないスよ」
くすり、と先生の唇の端から吐息が漏れる。
「貴女の中で押し殺していた感情を浮き彫りにさせる薬ッス。
貴女は今、嘘を吐けない」
何時になく真剣な表情。
浦原先生の綺麗な手が、帽子に添えられて、そっと帽子を取った。
隠れていた顔が、露わになる。
「ねェ、あのスーツ姿の先生誰?」
友達に聞かれて、私は何も迷うことなく応えた。
『誰って、浦原先生でしょ?』
私の答えに、嘘ーっと驚く友達。
何故、私だけ気付いたのか。
其処には明確な答えしか答えしかなかった。
思い返せば、私の生活の片隅には何時も先生がいた気かする。
一夜漬けで勉強した次の日だった。
階段ですれ違いざまに同級生の肩がぶつかった。
足元がふらついているため、階段という足場の危ない場所では僅かな衝撃でさえ耐えることが出来ずに、私は重力に従って落ちるしかなかった。
私は自分の身に起こるであろう衝撃に備えて目を閉じて身構えた。
しかし、痛みの代りに温もりと薬っぽい匂いが私を包んだ。
ゆっくりと目を開ければ、そこには心配そうな表情。
「大丈夫ッスか?
さっきから危ない足取りで歩いてるもんだから、心配しましたよ」
何時もの陽気さが欠けた敬語。
それだけで、この人が本当に心配してくれていた事が分かる。
本当はずっと気付いていた。
先生に対する想いに。
でも、自制心だけは強い方だから、気付かないふりをしてただけ―…。
「もう一度聞きます。
アタシのこと、好きでしょう?」
今の貴女にはその言葉を否定する術はない。
羞恥心で心が壊れてしまいそうになる中、やっとのことで頷く貴女を見て、アタシはそっと囁いた。
「それじゃあ、アタシ達は両想いってことで良いッスね」
『え…』
呆ける貴女に、
「キスしても良いッスか」
そう尋ねるまであと0.3秒。
恋心シピ
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素直じゃない貴女も悪くはないけれど。
(浦原さんは物理か生物かで悩みました)
12.8.26.16:26
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