寒暖と、 [ 32 / 33 ]





人が高望みをし、高嶺の花に手を伸ばすのは。
足元に咲いている花を美しい、と、思うこと自体が負けていると勘違いしてしまうから。

下を向いて歩くことを、不格好やと思うから。

そうして足元を見ィひんから、躓いて、転んで。
せやけど、何に躓いたのか、わからないから同じ過ちを繰り返す。

人は何とも、愚かで滑稽で、最高に悲劇的。
せやから人は、泥沼を藻掻いて自ら悲劇に沈む。
底が悲しみの境地だと、知らへんうちに沈んでいく。

まるで、自分が泳げていると勘違いしているように。
ほんまは唯、沈んでいるだけやのに。

苦しいのは、泳げているからだと勘違いをする。
唯、溺れているだけやのに。



ああ、愉快で滑稽で運命に踊らされて、くるくる回るだけの戯曲に、取り込まれて人は笑う。
笑えば幸せになるのだ、と。
言い聞かせるように笑う。


そう、それはボクも同じことで―…









「市丸隊長」


襖越しに、声が、ボクの鼓膜を揺らす。
その声が求めているのが、ボクだと気づくのにコンマ二秒。


「何や、騒々しい。どないしたん」


飄々と言い放てば、襖を開けて呆れ顔を覗かせる三番隊副隊長。
金色(こんじき)の髪を靡かせ、その碧色の瞳を伏せる。



「いい加減、仕事をなさってください」



襖を開けられ、篭っていた空気が回りだす。
部屋の中をくるくると回って、部屋の外へと逃げていく。

そして緩やかに、新しい空気が流れ込む。



―ああ、嫌や。戯曲が廻る。




「っ…なんですか、この甘い匂い」


強烈なお香の匂いに、顔を顰めるイヅル。


「ああ、さっきまでいた女の子の匂いやね」


その匂いの中心にいたボクは、特にその匂いに何も疑問を抱かなかったけれど。
鼻腔に新しい空気が入り込み、その匂いの存在を思い出す。


「隊舎に女性を連れ込まないでください。そういうのはご自宅でやってくださいよ」


はぁ、とため息をつくイヅルは、失礼しますと部屋に上がり畳を踏みしめる。
すすす、という衣擦れの音と畳が軋む音が、ボクの真横を通り過ぎていく。

そしてカラカラと軽やかな音を立てて窓が開いた。


「…嫌や、寒い」


窓の前で待ち伏せをしていたのかと思ってしまうほど、素早く部屋に入り込んできたのは冬の冷たい空気。
ひゅう、と耳元で渦を巻いて首筋を撫でていく。
ボクはいそいそと、ボクの温もりが残る布団を引っ張り、口元まで潜り込む。


「そんな、着ていないも同然の格好をなさっているのですから、寒いのも当然です」


肌蹴きった襦袢をみて、またひとつため息をこぼす。


「空気の入れ替えが終わりましたら窓を閉めて火を焚きますので、そしたら支度なさってください。こちらに新しい死覇装を用意いたしましたので」


そう言い残し、イヅルは一旦部屋を出て行った。
布団の温もりと、頬に触れる冬の冷たい空気と。
その温度差を感じながらボクは静かに意識を沈めた。


昨夜、ボクに脚を絡ませ、甘い声で啼き、好きだと戯言を吐いていた甘い匂いのする女。
彼女は紅色に染まった。
ほかでもなく、ボクの手によって。

甘い強烈な匂いは、この部屋の鉄の匂いまでも消し去った。
そして今、イヅルが開け放した窓から入り込む新鮮な空気が、甘い匂いごと全てを消し去っていく。

魂魄の質なのか、霊力の質なのか。
難しい理屈はわからへんけど、この世界で死した魂魄は分解され、霊子と成って消滅する。

昨日、ボクの隣で紅色に染まった彼女はものの数刻で霊分子化して消えた。

布団から右手をそろりと出してみた。
まるで熱を感知して寄ってきたかのように、腕に纏わりつく冷たい空気。
その外気に晒された右手には、変色した赤茶色の液体が乾いた跡だけが残っていた。

昨夜、女を刺した感触も、女の体温も、何一つ残っていない右手。
赤茶色のその跡だけが、ボクの罪を問うていた。



「―…市丸隊…」


襖から再び顔をのぞかせたイヅルは、ボクの汚れた手を見て少しだけ目を見開いた。
瞳孔が僅かに小さくなり、小刻みに揺れる。


「また、ですか」
「……せや」
「お怪我は?」
「してへん」



それだけの会話で全てを悟り、静かに目を伏せるイヅル。
きっと、もう消滅してしまった彼女の残留に想いを馳せてるのだろう。


「―…窓、閉めますよ」


ボクはその言葉に何も反応を示さんと、すっかり冷たくなった右手を布団の中に忍ばせた。
右手に纏わりついた冷気が布団の中に一緒に潜り込んできたけれど、それもすぐに温もりに溶けて消えた。

イヅルがぱたぱたと忙しなく動き回り、火を焚いた。


「隊長。思い耽るのでしたら最初からなさらないでください」


パチパチ、と火の粉が弾ける音が少し遠くに聞こえる。


「思い耽る?ボクが?」


まさか。と鼻で笑う。

あない偽りだらけの女に、たった一晩で情が移るほど、ボクの心は暖かくない。



温もりは、在った。
確かにそこに。


その温もりを失うのが怖かった。
ならば、消してしまえば良えと思った。


最初から何も求めなければ良えと思った。
せやけどボクは、




そない強くもなれへんかった。














―…臆病なボクは、今日も君に出会う夢を見る。









夢の片鱗に指先が触れた
序章:寒暖と、
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それはもう、まもなく。


( 初期の小説リメイク )

14.2.1.11:54



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