ほんの少し薄暗い中に、青みがかった光が見える。同じ青とはいえ、それは晴れ渡る空のようにあっけらかんとした明るさはない。どちらかといえば、深い、深い奥底から湧き出てくるような、不思議な感じがした。
その光がぼんやりと漏れ出ている、円柱型の大きな水槽を見つめた。その水槽は柱のように、天井と床を貫いている。水槽の中にはあまり見慣れない形の魚が、息を潜めているかのようにじっとしていた。たぶんこの魚たちは深海魚と呼ばれる類のものなのだと思う。この展示室に入ってくる前に「深海魚コーナー」とかなんとか書かれていたのだろうけれどうっかり見落としてしまったから定かではないが、たぶんそうだろう。唯一名前の分かるチョウチンアンコウの提灯の部分を眺めて、ここが深海魚コーナーであることに確証を得る。

「なまえちゃん」

不意に、声が聞こえる。水底にいたチョウチンアンコウから目を離して顔を少し上げると、円柱型の水槽の向こう側にいる翔くんの姿が見えた。ここから見ると、水の所為で翔くんがなんとなく屈折している。

「深海魚見るん飽きたわ。エイ見たいからでっかい水槽んとこ行くで」
「あ、やっぱここの深海魚やったんや」
「見たら分かるやろ」

翔くんはため息混じりにそう言いながら、円柱に沿ってぐるりと歩き、私の方へと向かってきた。そして私の隣に立つと、控えめに私の手首を掴んで引く。ここで手を繋ぐのではなく手首を掴むのが、翔くんの常だった。付き合い始めの頃はなかなか触れてこなかったから、手は繋げなくても、進歩しているとは思う。

「エイんとこ行くん?」
「さっき言うたやろ」
「私カピバラ見たいんよ」
「水族館におらんやろ」
「でもパンフレットには書いとったよ」
「……後で行ったるから今はエイや」

そう言いつつ、翔くんは手首を引きながら通路を歩く。深海魚コーナーは人気がないのか私たち以外に人はいなかったけれど、エイがいるという大水槽に近づくにつれ、通路にも人が多くなっていく。そして大水槽のある部屋につくと、これが水族館の一番の目玉だからか、今まで通ってきたどのコーナーよりも多くの人で埋め尽くされていた。特に水槽の近くには沢山の人が群がっていて、写真を撮っている人もいたりする。
翔くんはあまり人混みが得意じゃないだろうからどうするのだろう、と考えていると、彼は私の手首を握ったまま部屋の後方へと歩く。そして備え付けのベンチにぽふんと座ったので、私もその横にお邪魔させてもらった。ちらりと彼の方を見ると、彼はぼんやりと大水槽の方を見つめている。水槽の中でエイは悠々と泳いでいたけれど、翔くんはエイの動きに合わせて視線を彷徨わせているようではなく、ただただ大きな水槽を見つめているだけというように思えた。

「……もっと近く行かんでええの?エイ見るんやろ?」
「こっからでもエイ見えるで」
「ふーん……」

そんな質問をしつつ、まぁ実際のところ翔くんはエイに物凄く興味がある訳でもないのだろうな、と思う。水槽に近づいていかないところもそうだけれど、翔くんが自転車以外のことに興味を示すところなんて、私は見たことがなかったからだ。
翔くんは一年生ながら、自転車競技部のエースだ。毎日毎日自転車に乗って、毎日毎日ペダルを回す。彼がそうしている姿ばかり見てきた。逆に言えば、それ以外をしている姿など、学校で授業を受けている時くらいしか見ない。放課後に友達と遊んだり、ちょっと寄り道して黄昏たり……そんな姿は、見たことがない。
ましてや、恋人とはいえ、私と翔くんが休日にお出かけしているところなんてものも、見たことがなかった。そう、今日までは。

「翔くん」

水槽を見つめたままの彼の横顔に、ぽつんと問いかける。

「今日、なんでデートしてくれとん?」

普通の恋人同士なら、こんな質問なんてしないだろう。休日はデートするのが普通で、手を繋いで歩くのも普通で。デートに水族館というのも定番で、何ら疑問など生まれない。けれど、私の相手は翔くんなのだ。普通の人とは考え方も価値観も違う人で、私だって稀にだけど、正直彼の考えていることが分からなくなる時がある。そんな彼が、今日は普通に、恋人である私とデートというものをしている。自転車を置いてきて。
水槽を見つめていた翔くんはふぁ、と小さく欠伸をした。その欠伸により瞳にうっすら涙の膜が張る。

「嫌な夢、見たんよ」
「夢?」
「やから今日ばっかりは一人でペダル回したくなかったんや」

涙の膜が張った瞳で、翔くんはぱちぱちと二回瞬きする。すると膜は無くなり、いつもの大きな瞳に戻っていた。さっき欠伸をしたのも、嫌な夢を見て起きてからは眠れなかったのからなのかもしれない。

「……私の夢?」
「いや、ちゃう」
「じゃあご家族の方、とか?」
「……」

私が聞くと、翔くんは黙ってしまう。所謂無言の肯定というやつだろうから、翔くんが見た夢にご家族の方が出てきたことは明白である。明白なのだけれど、翔くんはそれに対しては答えようとする素振りは見せない。
こんな風に、たまに私と翔くんの間には壁があると感じることがある。それは翔くんの昔の話を聞こうとした時や、家族の話をした時だ。きっとそこに、翔くんの触れられたくない何かがあるのだろう。
私と翔くんは恋人同士で、翔くんには物凄く仲が良いといえるような友達はいない。だから現時点で、家族以外では私が翔くんに一番近い人間なのだろうと自負している。でも、そんな私でも、翔くんの心の底に閉じ込めているものにはなかなか触れない。
翔くんが少しずつ私に近づいてきてくれているのは、とても分かる。手首だけだけど触れるようになってくれたり、他の人と話す時に比べて声音が柔らかだったり。それでも、まだ心の内を曝け出せるほどにはなれていないんだな、と思う。
そう考えながら俯いてきた頭を上げて、エイが悠々と泳ぐ水槽を見た。沖縄の水族館で見たのと同じくらいの、とても大きな水槽。割れてしまわないだろうかと恐れていたのはとうの昔のことで、親から「あれはアクリル板で出来ているから割れないよ」と教えてもらった。
私と翔くんの間にも、割れないアクリル板のような壁が今、存在しているように思う。それが取り除かれるのは、いつになるんだろう。
また頭が俯きそうになったが、すぐ隣に座っていた翔くんが立ち上がったことにより、それにつられて私も頭を上げる。どしたん、と聞くと翔くんは「エイ飽きた」と呟いた。

「エイ飽きたから、カピバラ探しに行こや」
「……見に行きたい言うてたん、覚えとったんやね」
「ほんの十数分前の事、忘れたりせえへんよ」

その言葉に、すこし口角が持ち上がる。そして立ち上がると、「カピバラあっちらしいで」と翔くんが言い、私の手をそっと掴んだ。……手首じゃなく、手を。
普通の恋人では、普通の行為なのかもしれない。けれどこれは、私たちにとっては立派な前進である。ほんの少しずつだけれど、私は翔くんの心に近づけているのかもしれない。
アクリル板の向こう側が、鮮明になった気がした。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -