水でじゃばじゃばと手を洗い、ブレザーのポケットに突っ込んであるハンカチを親指と人差し指でつまみ出す。それで無造作に両手を拭きながら、私はトイレから出た。ごしごしとハンカチの形を歪ませながら、私は昨日あったことを思い出していた。

確か昨日は、鳴子くんを相手にフラグ回収を成功させたのだ。
風邪を引いてしまった私を保健室に連れて行ってくれ、早く治るといいなみたいなことを言いながら、今私の手の中にあるハンカチくらい私の頭をぐしゃぐしゃと撫でてくれた鳴子くん。
正直惚れるんじゃないかと思ったよ、だって現実でなかなか無いもんあんなシチュエーション。
頻繁にフラグフラグと頭の中で騒いでいる私でも、実際の生活の中で少女漫画みたいな出来事がほいほい起こるとは思っていない。せいぜい運が良ければ起こってくれるかな程度だ。それでもいっちょまえにフラグ回収を望んでいるには望んでいるのだけど。
そんな考え方だから、昨日の鳴子くんには半端なくときめいてしまった。現実でもこういうことあるんだいやっほう!と思ってテンションと熱が上がった結果早退することになるほどときめいてしまったのだ。
ただそのときめきは鳴子くんが私を置いて購買のパンを買いに走った時に消え去ったのだけど。
そしてまぁ、余談ではあるが、鳴子くんへのときめきが消え去ったのにはもうひとつ理由がある。それは、今朝体調が大方回復して登校した時に友人数名に浴びせられた一言だった。

「なまえ、もう学校来て大丈夫なの!?昨日先生が何で早く帰ってこなかった、って鳴子くんに聞いた時『みょうじさんがエンドレスでゲロってたんで介抱してました』って言ってたけど!エンドレスで吐くとか相当じゃん!」

この一言に私はどう返すのがベストだったのだろう。
とりあえず「は、吐いてないよ」と笑顔を引きつらせながら答え、己の世間体の死を悟ってみたのだけど、それで正解だったのかな。
そんな事を考えつつ、ぐしゃぐしゃになったハンカチをたたみ直すために視線を落としながら廊下を歩いていると、いつの間にか曲がり角に差し掛かっていたのに気付かず、向こうから来た人物に思い切りぶつかってしまった。

「うわ、」
「おぶっ」

私よりかなり背が高い人にぶつかったのだろう、私の鼻は誰かの胸板あたりにクリティカルヒットをぶちかましてしまった。
そして私よりかなりしっかりした体つきの人だったのだろう、ぶつかった勢いで私は後ろによろけて尻餅をついてしまった。けどその人はちょっと仰け反るだけで済んだようだった。
まだ風邪が完全に治った訳ではなかったので、尻餅をついた時に少し頭痛がした。その所為で咄嗟に立ち上がれず、ぶつかってごめんなさいと言うこともできない。感じ悪く見えてるかな、と冷や汗をかきながら私はゆっくりと顔を上げる。
すると、私の方に伸びた手が見えた。

「悪い、大丈夫か」

ゆっくり視線を動かし、手から腕を伝って顔を確認した。そして、私は浅く息を吸い込んだ。

イケメンである。

今私に向かっててを差し伸べてくれているこの男の子はかなりハイレベルイケメンである。
黒髪つり目ちょっとクールっぽくて淡白そうな長身イケメンである。

私知ってるこの人知ってるよ鳴子くん繋がりで何回か見たことあるよ話したことはないけど確か鳴子くんと同じ自転車競技部の子だ!確か今泉俊輔くんだ!親衛隊まであるイケメン今泉くんだ!親衛隊あるとかどんな少女漫画のキャラだよとか思ってたけどこんだけ至近距離で見るとそれも納得のイケメンだ!ああなんで他のクラスにはこんなイケメンがいるのに私のクラスにはイケメンいないのかな!今泉くんの右腕一本だけでも我が6組に在籍してくんないかな!!

「……立てないのか?」

私が真顔で頭の中で結構気持ちの悪いことを考えていると、今泉くんはさらに私に問いかける。
煩悩を消し去るように、いや、と頭を振って差し出された今泉くんの手を掴んだ。
イケメンとぶつかって手を差し伸べられるとかもうなんて少女漫画。昨日の鳴子くんの頭なでなでを一瞬で凌駕してしまった。なんてインスタントフラグ回収。
とりあえずこの状況親衛隊に見られていないといいな。ぐ、と今泉くんに引っ張られ、私は体を起こした。

「ごめん、ちょっと頭痛がしてすぐ起きれなかった。あとぶつかってごめん」

すぐに反応できなかったこととぶつかった事に対する詫びを入れる。
そこにはちょっと会話してみたいという気持ちもあったりなかったり。

「いや、俺もちゃんと前を見ていなかった。悪いな。……体調でも悪いのか?」

今泉くんも詫びて、そして私の体調を気にするような言葉を付け加える。
そういうとこがイケメンなんだよ畜生。
初対面なのに優しいな畜生。
別に畜生だなんて思ってないけど。

「うん、ちょっと昨日早退しちゃって」
「もしかして鳴子が言ってた奴か、お前」

あはは、と小さく笑いながら言うと、今泉くんは意外な返事をしてきた。
聞いたところによると、どうやら鳴子くんは今泉くんに何回か私の話をしたことがあるらしい。
それに私と鳴子くんが話している時にうちのクラスに来たこともあったから、その時に私の姿を見たことも多々あったようだ。
「そうそう、昨日鳴子くんに保健室連れてってもらったんだよ」と言うと、今泉くんは私を憐れむような目で見てきた。

「そうか……お前が鳴子の言ってたエンドレス嘔吐の奴か。今日は体調大丈夫か、無理するなよ」
「何そのエンドレス嘔吐って」

私はぱちぱちと瞬きをしながら訝しげに今泉くんに聞く。
何エンドレス嘔吐って。
エンドレスエイトみたいな感じでかっこよく聞こえるような気がするけど、いや全然かっこよくないけど、とりあえず良い意味じゃないことは明確である。
何鳴子くんクラスの子だけじゃ飽き足らず自転車競技部の子にまで言ったの?何のために私がゲロったこと言ったの?いや自分でもちょっと曖昧になってきたけどゲロってないよ!?

「昨日部活に遅れてきた鳴子が『保健室連れてった子がエンドレスにゲロったんで介抱してたら遅れました!』っつってたけど」
「何それゲロってないよ。てか放課後ならもう私保健室にいないよ」
「じゃああれ鳴子の嘘か」
「まごうことなき嘘だよ」

イケメンと少女漫画みたいに出会ったのになんでこんな弁明をしなきゃいけないんだろう。
はああ、とため息をつくと、「お前も色々大変だな」と同情の言葉を投げかけられた。ええ、色々大変ですよ色々。
返事代わりにもう一度、嫌味にならない程度にため息をつくと、曲がり角の向こうから偶然にもひょっこりと赤髪が見えた。

「あれ?スカシとみょうじさんやん。珍しい組み合わせやな」
「お前に苦労させられてる繋がりだよ」
「何言うとんねんスカシー。どーせみょうじさん口説いとったんやろ、もうほんまスカシとるわー」
「別に口説く気はねえよ」
「待って今泉くんそんな気ないのは分かってるけどもうちょっとオブラートに包んで」

突然の鳴子くんの出現により、たぶん恒例なんだろう、鳴子くんと今泉くんの言い合いが始まる。
私が何かしら言っても聞こえていないみたいで、額をつき合わせながら鳴子くんは熱く、対する今泉くんはクールに口喧嘩のような応酬を続けていた。
ていうかなんでイケメン今泉くんが同じ部活とはいえ鳴子くんの口喧嘩に応じてるんだろう。
謎すぎる。
かたや親衛隊がある半端ないイケメン様で、かたや赤い髪と関西弁だけが特徴の、人がエンドレスにゲロると触れ回る男である。
……そういえばそうだ、私鳴子くんにエンドレス嘔吐と言いふらされたんだ。
言いふらしたつもりは無く言い訳に使っただけなんだろうけど、クラスメイトと自転車競技部部員の方々に勘違いされてしまった今、鳴子くんをただで帰す訳にはいかない。
私は今泉くんと言い合いをしている最中の鳴子くんのブレザーを引っ張る。すると鳴子くんがきょとんとした顔でこっちを向いた。
今泉くんも、とりあえず黙って成り行きを見ているようだった。

「鳴子くん鳴子くん」
「どしたんやみょうじさん?」
「鳴子くんに聞きたいことがあります」
「なんや?」

あくまでも、きょとんとした顔を続ける鳴子くん。これが演技なら一発平手でもしてみたいなぁ。演技じゃなくてマジでもちょっと平手したいなぁ。
そんな事を思いながら、でも顔には出さないように気をつけながら、私は言葉を続けた。

「なんで私、エンドレスにゲロってた事になってんの?」

とりあえず笑顔を繕ってそう言うと、鳴子くんは瞬きを数回した。そして何かを思い出したように顔がどんどん強張り、「あぁ、あれな、あれな」と言いつつじりじりと後ろ向きに歩く。
今思い出したのかよ、忘れてたのかよと思いつつ私もじりじりと鳴子くんに近寄る。
鳴子くんは少し冷や汗を浮かべながら、いやぁ、と笑った。

「いやぁ、ちょーっと教師や主将の追及を逃れるために使うてしもてな、いやー、すまんなー……ほな、ワイはこれで!!」

大声と共に、じりじりと下がっていた鳴子くんの足が地面を蹴った。そして凄いスピードで走り、廊下の向こうへ消えていく。
対する私はあまりに突然のことすぎて咄嗟に反応出来ず、離れていく鳴子くんの後ろ姿を真顔で呆然と見ていた。
なんだあの足の速さ。さすが運動部男子高校生。
でもここで発揮してほしくはなかったかな。
阿呆らしく口を半開きにしたまま廊下を見つめていると、ぽん、と肩を叩かれる。見ると今泉くんが同情の籠った目で私を見ながら、「行け」と促した。
それを聞いて私は、まぁ呆然としたままではあったけれど、先ほど鳴子くんがしたのと同じように地面を蹴り、鳴子くんが消えていった方向に走った。

鳴子くんを追いかけながら、思うことがある。
なんで私は一瞬でも鳴子くんにときめいてしまったのか。
気の迷いというやつだろうか。
だとしたら、気の迷いは恐ろしすぎる。フラグ回収ならイケメン今泉くんの方が何倍も、何倍も良いよ。ほんとに。

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