年が明けて数日。
冬休み中は実家に帰省していたが、明日には寮に戻るので今日は朝から荷物の片付けをしていた。
一通り荷物を詰めてはみたが、元々持って帰った荷物が少なかったためか、三十分もかからない。その上部屋の掃除も少ししてみたが、それでも時間はあまり潰せなかった。
時間が余っているのなら、と、外に出てロードバイクに跨る。無駄に早くから片付けをしてしまっていたので、まだ午前八時にもなっていない。これならもう少し遅く片付けを始めても、もう少し遅く起きても良かったかもしれないと思ったが、冬の朝の澄んだ空気に触れると、そんな事はどうでも良くなるのだった。
ペダルを回しながら、慣れ親しんだ道を行く。慣れ親しんだ、とはいえ長期休暇の時しか帰ってこないので、少し風景が変わっていたりすることもある。気が付いたらビルが増えているだとか、気が付いたら前あったはずの看板が取り払われているだとか。
今回も暫く見ないうちに少し変わった道を走りながら、時間が充分にある事を確認して、俺はいつも通らない道に向かってペダルを踏んだ。



前にこの道を通った時は、こんなけばけばしいものがかかっていただろうか。
ビビッドピンクに黒字で店名が書いてある、センスの無い看板を見つけて思わず立ち止まる。もう何年も通っていない道だったから、いつからこんなものがあったのかは分からない。けれど長年かかっているものだとしても目に痛いな、と目を細めながら思う。恐らく風俗店か何かの宣伝だろう。
嫌悪感を示しながらも立ち去ろうとすると、看板のかかったビルの隙間から人の声が聞こえた。
話し声や鼻歌とかではなく、呻き声のようなものだ。
朝から嫌なものを聞いてしまったなと思いつつそっとそちらの方を盗み見ると、見覚えのある横顔があった。その横顔は苦しそうに歪んでいて、時折うぇぇ、と掠れた声を出しながら肩で息をしている。

みょうじだ。

心の中でその横顔の名前を呼びながら、ジャイアントを壁に立て掛けてビルの隙間に入っていく。
俺の存在に気付いたみょうじは驚いた顔をしながら何かを言おうとしたが、その直後に吐き気に襲われたのか、掠れた声を上げて胃液を吐き出した。いつものソプラノとアルトの中間ではなく、アルト寄りの声だった。
暫く肩で息をするみょうじの背中を無言でさすっていると、次第に落ち着いてきたのか、息を吸う頻度がゆっくりとしたものになってきた。呼吸が完全にいつも通りのペースになると、みょうじはいつものように、にへらと笑う。けれど、まだ声は掠れていた。

「朝から嫌なもん見せちゃったね、ごめんね」

はは、と声を出してはいたが、その笑い声は空虚だった。背中をさすっていた手を止めて、みょうじの顔を見る。冬になってからまともに向かい合って見たことがなかったから気付かなかったが、前より目の下の隈が濃くなっていた。以前からそれほど血色が良いとは思えなかった肌は、より白くなっているように思えた。

「何があったんだ」

みょうじの顔を見ながら聞いてはみたが、みょうじは俺の顔を見なかった。そして、少し唾を飲み込んだのか、掠れてはいるものの高音を取り戻した声で、細々と言葉にする。

「煙草の匂いが、取れなくてさ」
「煙草?」

吸ったのか、と聞くと、そんな訳ないじゃん、と返される。

「煙草の匂い、凄く嫌いなんだよね。女作って出てった元父親がニコチン中毒だったから」
「元……」
「元だよ、うち離婚したし」

家庭の事情をほいほいと言ってしまうとは飄々としたみょうじらしいな、と少し思ったのだが、それを話すみょうじを見るといつもの笑顔はそこには無くて、少し心が冷えた。そんな俺を気にせず、みょうじはぴっとビルを指差しながら話を続ける。

「私、ここのビルの中にあるお店で働いてんの」
「……風俗店か」
「ま、キャバクラだよ。おさわり禁止のとこだからそんな危なくないって。それに私は中年のオッサン達の接客じゃなくて厨房で軽食作ったりグラス磨いたりしてるだけだし」

話を聞くと、どうやら昨夜から今日の明け方にかけて、ヘビースモーカーの客が来たようだった。みょうじは厨房担当なので直接は会っていないが、接客担当の女達にその煙草の匂いが移り、それがみょうじに移ったらしい。そして気分が悪くなってここで嘔吐していたのだとみょうじは語った。
嘔吐してよく分からない気分になっているのか、はたまたすっきりとしているのか。
それは分からないが、やけに吹っ切れた顔をしたみょうじは首を音を鳴らしながら回し、ふう、と息をつく。そして、「福富くんには色々ばれちゃったからね、もう全部ぶっちゃけちゃおう」と、いつもの笑顔を見せた。

「まず第一に!というか一つしかないんだけど。うちは離婚してるし姉は美大だから、結構な貧乏なんだよね」

すっと立ち上がり、まるで探偵が謎解きの時にするように後ろで手を組み、四、五歩の距離を行ったり来たりする。俺は座ったまま、話の続きを待った。

「元父親から慰謝料取れなくてさ、母の稼ぎは微々たるもんだし、姉もバイトしてくれてるけど稼ぎは学費に消えていく。だからまぁ、なんつーの。私が頑張らなきゃーってなったんだよねえ」
「……だから、風俗店にか」
「キャバクラね。前はコンビニの夜勤やってたけど、こっちのが稼ぎ良いし」

俺が風俗店と言うたびにキャバクラだと訂正するみょうじは、変なところで真面目だと思う。
家庭事情もそうだ。変なところで真面目で、負担の大部分を自らで背負おうとしている。
初夏あたりに盗撮で儲けているだとかお金が欲しいと言っていた理由はこれだったのか、と今更になって気付いた。

「夜勤とかキャバクラのバイトとかやってたからさ、授業中とか凄い眠いんだ。勉強の効率も凄く悪くなって、もう理系科目は国公立大受けられないくらいで。私立専願にしようにもお金がない」

目の前はビルの壁しかないのに、どこか遠くを見つめてみょうじは言う。
笑顔の裏にこのような事情を抱えていながら、それを誰にも気付かせなかった。そんな事実があることにぞっとした。

「もうね、写真撮ることしか自分の好きな事出来ないの。だから写真に縋り付いてたんだ。真剣だったんじゃなくて、ただ縋り付いてたんだ」
「……撮るだけなら金はかからないからな」
「そのとーり。ま、ちょっとはかかるけど。ほんとはカメラマンになりたいんだけどさ、」

言いかけて、ぴた、と足を止める。
どうしたのかとみょうじを見上げると、瞳がゆらゆらと揺れていた。
なりたいんだけど、ともう一度呟いて、無理やり口角を上げたのが分かった。

「お金にならない職業だよね」

声が震えていた。
泣きそうなのだろう。そう思ってみょうじから顔を逸らす。きっと彼女は泣き顔を見られる事を嫌う。
歩くのをやめてすとんと腰を下ろすと、みょうじは体育座りをして顔を膝に埋めた。俺は、嘔吐していた時と同じように背中をさする。少々くすぐったかったのか、ふふ、と笑う声が聞こえたけれど、その笑いと小さく震えた肩は関係が無いのだろうな、とぼんやり考えた。

暫くして、みょうじはゆっくりと顔を上げる。
目が少し赤かったが、それを指摘してはいけないと感じた。
ありがとね、と言う彼女に対して、鉄仮面と言われる無表情で頷く。
はああ、と大きなため息をつきながら、腕を伸ばしたみょうじは、本気とも冗談とも取れる言葉を口にする。

「あーあ、銀行強盗でもすればお金の問題片付くのになぁ」

今のみょうじの話を聞いていれば、本当に本気か冗談か見分けが付かない。それに、元々みょうじは危なっかしいところがある。
そうは思いながらも、きっと彼女はそれが現実的には出来ない事を知っているような気がした。
だから俺も、普段はしないような、こんな返事をしたのだろう。

「俺で良ければ、付き合うぞ」

そう、しっかりとした声で言うと、みょうじは「ヌードの話は断ったくせに」と笑った。

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