「月が綺麗だな」

試しにそう言ってみると、彼女は鈍い紺色のような目をこちらに向けて、さらにそれをぐぐぐっと細めてみせた。
それは彼女が俺を馬鹿にする時によくする仕草であることを、俺は何度も何度も見てきたので学習していた。

「新開。君は実に馬鹿だな」

お決まりのこの台詞。
皮肉や嫌味を交えるでなく、ただただ彼女は彼女が思ったことをそのまますべらせてゆく。それを「聞くに堪えない」と彼女から離れていく人間は少なくなかったが、俺は彼女の隣に居続けた。彼女の前ではどんなに自分を着飾ろうと意味を成さなかったので、何もしなくていいんだ、と逆に安心してしまったからである。ある意味怠惰であり退化であった。

「馬鹿かな」
「あぁ、とても。先人の言葉を使い格好付けるのは和歌を嗜む者だけで充分だ」

和歌ということは、彼女が指しているのは本歌取りのことだろうか、とぼんやり思う。
そう言った彼女は寒空の下、自販機で買ったいちごみるくをちゅうちゅうと飲む。説教くさい老人のような話し方と摂取している液体がどう見ても合っているようには見えず、そのアンバランスさが唯一彼女に親近感を覚える要素であった。

「まぁ、かっこつけたつもりは無かったんだけどな」
「ならば何故夏目漱石を?」

頭上に浮かぶ、円形とはとても言えない月を見上げながら声を漏らすと、彼女はどうでもよさそうに、けれど一応礼儀として質問を投げかけてくる。
こういう愛の告白のような言葉を聞いたら、おめさんはどんな反応をするのかと思ってさ。
正直にそう言うと、彼女は細めていた目をさらに細めて、ほぼ糸目になってしまった。恐らくさっきよりも俺を馬鹿にしているのだろうけど、言葉にしてもらえないと一発ギャグが滑ったときのような空気になってしまうので、その沈黙は若干痛かった。

「悪いな、私には若さだけを売りにした声の甲高い女みたいな反応は出来んぞ」
「まぁ、そんなのはしてもらえるとも思ってなかったさ」

ようやく口から出た言葉は、ため息と共にであった。半ば呆れも混じっていたのだろう、でもきっと彼女はそんな「彼女らしい」反応をするだろうと思っていたので、傷付いたりはしなかった。

「というかおめさん、ずっと前から思ってたけどなんでそんな口調なんだ?」
「年相応でないのは分かっている。だがずっとこんな口調の爺様に育てられたもんでな、今更直らんさ」
「まぁそのままでいいさ、気楽だ」

俺がそう言うと、彼女は「そうか」と一言だけ返す。その口調や、考え方や、表情が、なんだか俺を気楽にさせる。だから直さなくていい、と思う。
フォローのためにそう彼女に言うと、彼女はいつも通り「新開に『直さなくていい』と許可を貰わなくても、私は直さんぞ。だからその言葉は無駄だ」と冷たい言葉を浴びせかけてきた。
そう、それが心地よい。
そう思って小さく笑うと、彼女は気持ち悪いぞとでも言いたげな顔をしてみせた。

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