首を少し回して抱きついてきた人物を確認すると、やはりひどく見覚えのある女の子がそこにはいた。小さな声で名前を呼ぶと、彼女もまた小さな声で俺の名前を呼んだ。愛しむように、ゆっくりと呼んだ。

「遅く、なりました」

なまえちゃんが、俺の肩に顔をうずめたまま言う。息がかかって、少しくすぐったかった。

「待たせて、ごめん」

申し訳なさそうに、またなまえちゃんは声を出す。俺としてはきちんと向き合って話をしたかったが、俺の考えと反比例するかのように彼女はしっかりと肩口で顔を隠したままだ。それもそれで可愛らしいので、無理に引き剥がそうとは思わなかった。
なまえちゃんの謝罪に対して、俺は言葉を紡ぐ。

「謝らないでくれ。なまえちゃんは謝るべきことなどしていないぞ」

そう言うと、「でも、」となまえちゃんが身じろぎする。なまえちゃんは繊細そうな割に強情だから、そうやって反論してくるのは目に見えていた。
ぽたりと、額の汗が頬を伝って地面に落ちる。そこでふと、なまえちゃんはこんなに汗まみれの俺に何の躊躇もなく抱きついてきたのだなと実感した。自分で言うと自惚れのように聞こえるけれど、彼女は俺を目掛けて一目散に駆けてきてくれたんだろう。もう俺を待たせないように、息を切らして来てくれたんだろう。そう思うと、なまえちゃんがたまらなく愛しく思えてきた。元々大好きだと思っていたけれど、それ以上に。
肩に乗せられた頭をぽんぽんと撫でると、なまえちゃんは驚いたように顔を上げ、そしてもう一度隠すように定位置に戻した。

「謝るのではなく、他の言い方があるだろう?」

そんななまえちゃんの行動を微笑ましく見守りながら、言う。こんな心の余裕は、ついさっきまでは無かった。なまえちゃんが会いに来てくれて、やっと俺は、今までずっと背負っていた肩の荷が下りたような気持ちになったのだ。

「……待っていてくれて、ありがとう」

ぽつんと、なまえちゃんが言う。それと同じ声音で、俺も言う。

「それで良い。……なまえちゃんも、俺が待つと言った時、許してくれてありがとう」
「……うん」

なまえちゃんはほっとしたように息をつく。それがサイクルジャージ越しになんとなく伝わってきて、肩が少し熱くなった。なまえちゃんの頭から手を離して、流れそうになっていた額の汗を拭う。自転車に乗っていなかった彼女もこの炎天下の中動き回っていたようで、それなりに汗はかいているみたいだった。それなのに抱きついているから、お互いの密着している部分が熱い。精神的なものではなく、気温的に。
いつもチームメイトと話すときの同じような能天気そうな声を、珍しくなまえちゃんに向かって出す。この逢瀬はなかなかにドラマチックで素敵だと思うが、ちょっと耐え難い暑さになってきた。

「なまえちゃん、感動の再会も良いがそろそろ離れて顔を見せてくれないか?」

暑いから、という理由は伏せて、顔を見たいから、と告げる。けれど多分、一番の理由は暑さだということくらいなまえちゃんは見透かしているだろう。暑さに耐え難く思っているのは俺だけじゃなく、なまえちゃんもなのだから。
それでもなまえちゃんは、顔を隠したままふるふると首を振る。

「ちょっと、顔を見せるのは、あの、なんというか」

それでもやっぱり暑かったのか、なまえちゃんは俺の肩から離れる。俺が振り返ってなまえちゃんの方に向き直ると、彼女は手のひらで顔を覆っていた。でも手はそれほど大きい方ではなかったらしく、目から上は隠し切れていなかった。その辺を気にしていないあたり、頬が隠せれば充分なんだろう。

「なんというか、というのは何だ?」

頬を隠していることに、ピンときた。けれどあえてそれをなまえちゃんに聞く。するとなまえちゃんはあわあわとしだして、久しぶりに会ったのにちょっと意地の悪いことをしてしまったかなと思った。でもそのあわあわとした姿も可愛いと思ってしまうあたり、俺は本当になまえちゃんが好きなんだな、と悟って少し笑ってしまった。

「わ、笑わないでよ……余計顔見せにくい」

不満そうななまえちゃんの声に、また笑う。それに対しても彼女はまた不満そうにこちらを見たけれど、観念したのか顔を隠していた左手をぱっと離した。そして見えたなまえちゃんの顔は、頬のあたりから真っ赤に染まっていた。そりゃもう、「夏の暑さにやられた」という言い訳は通用しないほどに、見事に真っ赤だった。
予想通りの展開だったと言うと、彼女は「じゃあなんで『なんというか、というのは何だ?』って聞いたのー!」と言いながらさっきまで顔を隠していた左手でぺしんと俺の肩を叩いてみせた。やっと、こんな風に無邪気に接する事が出来るようになったんだと思うと、ずっと顔が緩みっぱなしになってしまった。

「抱きついてから、大胆な事し過ぎたなって思って恥ずかしくなった……」
「大丈夫だ、この辺はあまり人が通らないからな」
「でもインターハイ会場でこんな事するとか……!」

うわああ、と言いながら恥ずかしがり、また手で顔を隠すなまえちゃん。
以前付き合っていた時には見れなかった、そして別れてからも見れなかったこの表情。それはとても新鮮だった。そして、これからはそんな新しい表情がいくつも見ることが出来るのだ。
高校三年生の夏が終わって、これからお互い忙しくなる。会える日だって少ないままだ。全てが一筋縄ではいかないだろう。けれど今日、なまえちゃんは、俺達は一歩を踏み出した。今はそれだけで充分だ。
暫くなまえちゃんは抱きついた事に対して恥ずかしがっていたけれど、唐突に頬を両手でぺち、と叩く。どうやら気合を入れているようで、頬を叩いた後にはふぅ、と大きく息を吐いた。そして俯きがちだった顔を上げて、頬は赤いままだったけれど、真っ直ぐに俺を見た。

「東堂くん」

細いけれど芯の通った声で、俺の名前を呼ぶ。
こんなにしっかりと向かい合って話したのはいつ振りだろうか、と考えた。デートの時は隣に並んで歩きながら話していたので、向かい合ってはいない。となると、別れを告げられた時以来か。それはちょっと、皮肉だな。
そんなことを考えながら返事をすると、なまえちゃんは大きく息を吸った。そして息を吐くように、言葉を吐き出した。

「長い間待たせちゃったね。もう、待たなくていいよ」

一歩、なまえちゃんは俺の方へと踏み出す。
彼女は、確実に前に進んでいた。

「……もう、良いんだな。全くなまえちゃんは天邪鬼で困る。俺にも、自分自身にも」
「うん、ごめんね。自分の気持ちに嘘ついて、蓋して、でもやっぱり、気付いたんだ」

言いながら、もう一歩踏み出す。元々大した距離は無かった俺達の間が、ぐっと狭くなる。

「もう待たなくて、良いんだな?」

優しい声でもう一度確認すると、なまえちゃんはしっかりと頷いた。そして、そっと俺の手を取る。お互い汗ばんでいて手はべたべたしたが、そんなことは気にならなかった。
ぎゅっと手を握って、なまえちゃんは俺と目を合わせる。
風が吹く。
太陽が肌を焼く。
その場には、俺となまえちゃんだけがいた。

「私は、東堂くんの事が好きです。付き合って、ください」

この数ヶ月、ずっと聞きたかった言葉だった。
聞きたくて、でも聞けなくて、苦しんだ言葉だった。
なまえちゃんも、言いたくて、でも言えなくて、苦しんだ言葉だったんだろう。
俺は繋いだ手を引いた。なまえちゃんがよろけて、俺の胸に飛び込んでくる。恥ずかしがって離れられる前に、また彼女が自分に嘘をついて離れてしまわないように、彼女の背中に手を回した。


end

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