親指に付いたクリームをぺろりと舐めとった数秒後、俺は猛烈な勢いで我に返った。目をぱちくりとさせているなまえちゃんに向かってしどろもどろに言い訳をすると、なまえちゃんもなまえちゃんでしどろもどろになりながら頷く。それからすぐに話題を変えて話に花を咲かせたけれど、どうにもどぎまぎした空気は拭えなかった。

(何をやっているんだ、俺は……)

表面では笑顔で話しながら、パンケーキを食べながら。心の裏側では、先ほど自分がしでかした事についてもやもやもやもやと考えていた。
咄嗟になまえちゃんの頬を指で拭ったのは、もはや反射的なものだった。特に深く考えることなく、気が付いたら腕が伸びていた。それを少し恐ろしく思う。言い方は大袈裟になるが、好意を抱いている相手に反射的に手を出してしまうというのは、人間の三大欲求の一つである性欲が抑えきれないということに結びついてしまうのではないのだろうかと思う。いつから自分は、そんな欲求に忠実で理性を保てない人間になってしまったのだろう、と己を恥じた。
そしてそれと同時に、もう一つ思ったことがある。
反射的に手が伸びてしまうほどの欲求なんて、付き合っている頃は持ち得ていただろうか。いや、持ち得てなどいなかった。
つまり俺のなまえちゃんへの想いは、付き合っていた頃よりも膨れ上がっている。その事に気付き、俺はパンケーキを頬張りながら、心の中でだけ自嘲するようにため息をついた。

美形クライマー東堂尽八が、別れた女の子にご執心とはな。



カフェを出て、街中をぶらぶらと歩く。
カフェでの会計は、それぞれで行った。俺が奢ると言ったのだが、なまえちゃんはそれを良しとしなかった。俺が誘ったのだからとか男の優しさは受け取るものだぞとか美形クライマーの顔を立たせてくれとか(これは言い過ぎだろうが)言ったけれど、それでもなまえちゃんは首を縦に振らなかった。別れたという事実を暗に示されているのかと思い少し凹んだが、恐らく別れていなかったとしてもなまえちゃんは良しとしなかったと思う。
当てもなく二人で歩きながら、俺は問う。

「なまえちゃん、どこか行きたいところはないか」
「うーん……東堂くんは?スポーツ用品店とか」
「俺はいい。わざわざ誘ってしまったのは俺だからな。なまえちゃんの好きな場所を言うといい」

俺がそう言うと、なまえちゃんは少し難しい顔をしながらううん、と唸った。しばらく右上を向きながら考えていたようだったが、思いつかなかったのか、今度はきょろきょろと近くにある店を眺め始める。そして行きたい店が見つかったのか、ぱぁ、と顔を綻ばせてこちらを向いた。

「じゃあ、あの洋服のお店が良いな。結構可愛くて、値段もお手頃なのが多いの」

細い人差し指で示された店のショーウィンドウには、今日なまえちゃんが着てきている服装と似たような系統の服を着ているマネキンが二体ほど飾られていた。それを見ていると、なまえちゃんは不安そうに「あ、でも東堂くんにとってはつまんないかも」と付け加える。確かに男の俺が女性用の洋服の店に行くと退屈するかもしれないというなまえちゃんの発想は当たり前のものだった。しかし俺は首を横に振り、微笑む。

「大丈夫だ。俺もなまえちゃんに合う洋服を見繕おうではないか」

微笑むついでに柔らかくウインクもする。東堂ファンクラブなら熱狂するだろうが、なまえちゃんはファンクラブ会員でもないのでどうだろう。そんな煩悩を持て余しながらなまえちゃんを見ると、複雑そうな顔をしながらもくす、と笑っていた。

店の中に入ると、いらっしゃいませ、と店員の独特な声が聞こえてきた。どうやら店員が着ている服もこの店の商品でコーディネートされているらしく、今日のなまえちゃんの服装になんとなく似ていた。あまり派手ではなく、少し甘い感じのふんわりとした服装だ。清楚系、という言葉が似合う。
なまえちゃんは店内をゆっくりと歩いて様々な商品を見ていたが、ある一角を見つけて立ち止まる。そして珍しく仁王立ちをしながら商品棚と向き合い何やら考えているようだったので、なまえちゃんの後ろから服が置かれている棚を覗き込む。それはブラウスが何種類か置かれている棚で、なまえちゃんはその中の真ん中に置かれている二着で迷っているようだった。そんななまえちゃんに店員が気付いたのか、主人公と目が合ったポケモントレーナーの如く近寄ってくる。そして手のひらをブラウスのコーナーに向けながら、綺麗な声で言った。

「お客様、ブラウスをお探しですか?」

仁王立ちでブラウスを見つめていたなまえちゃんはその声で店員の存在に気付いたのか、少しびっくりしながらも「はい」と答える。

「この薄いブルーとベージュで迷ってるんです」

なまえちゃんがそう言うと、店員はうんうんと頷いた。

「そうですね、もうすぐ春ですから、色んなジャケットやスカートに合うのはベージュですねぇ。でもこちらのブルーはリボンタイも付いているから可愛いですよね」
「そうなんですよねー……。だから迷っちゃって」
「よく皆様がお手に取るのはベージュが多いですね。ベーシックなカラーですので」
「そうですかー。ううん、迷うなぁ」

なまえちゃんと店員が話しているのを聞きながら、俺はその二つのブラウスを見つめた。どちらも柔らかそうな素材で、今なまえちゃんや店員が着ている服のようにふわふわとしている。正直どちらも可愛いと思う。けれど選べと言われたら、俺は……。

「じゃあ、彼氏さんに決めてもらったらどうでしょう?」

ぼんやりと考えていると、なまえちゃんの隣にいる店員が着ている服のようにふわりと笑った。
え、と思い店員の方を振り返ると、なまえちゃんも「え」という顔をしていた。けれど店員は俺達の少し不自然な顔にも気付かず、にこにことしている。
確かに、男女のペアがこんなところにいたらカップルだと思うのが普通だろう。店員は何も悪くない。悪いのは、こんな中途半端な関係の俺達の方だ。いや、俺達に否がある訳ではない。言葉のあやである。
店員はニコニコとして、なまえちゃんは恐らく俺と同じようにどぎまぎとして、俺の言葉を待っている。
俺はざわざわとざわめく心を悟られないように、ぴ、とブルーを指差した。

「……ブルーの方が、リボンタイがある分可愛いと思うぞ」

噛まないように気を付けながら言うと、なまえちゃんは本日何回目かと聞きたくなるくらいしている大きな瞬きを数回して、「じゃあ、こっちで」と店員に薄いブルーのブラウスを手渡した。

箱学カラーだからという理由でブルーを選んだとは、恐らく口が裂けても言ってはいけない。

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