「あ、降り出した」
部室のドアの前で、反射的に口にする。そんな私の一言に、ノブ先輩とヤマ先輩が片付け終わったカバンを下げてドアからひょこっと外を覗き見た。そしてヤマ先輩はやっぱりかぁ、と残念そうに呟いた。
「どしたんですか。傘忘れたんですか?」
私が聞くと、違う違うとヤマ先輩は手を顔の前でぱたぱたと振った。
「そうやなくて、朝親に今日雨降りそうやからはよ戻ってきて洗濯物取り込んでって言われとったん思い出した」
「うわー。それもう走って帰った方がええんちゃう?てかなんで洗濯物干したんやろな」
「そうですよ。夜にかけて本降りになるらしいですよ」
ノブ先輩と私が口々に言う。やっぱそうやんなぁとヤマ先輩はぽりぽりと頭を掻いて、力なく笑った。
ヤマ先輩とは、部活の中ではノブ先輩の次くらいによく話す。二年生の先輩方は年上と言っても一歳差だから話しやすいのかもしれない。普通は同級生とが一番話しやすいんだろうけど、私の場合同じ部活の同級生は御堂筋くんしかいない。御堂筋くんとも話そうと思えば普通に話せるようになってきた(それでも話してる時御堂筋くんは凄く面倒臭そうな顔をする)が、話しやすさでいったらやはり二年生の先輩方が一番だ。
ちなみに一番話しにくいのは井原先輩。苦手とかではない。三年生とは基本的にそんなに絡みがなく、そしてその中でも一番井原先輩と絡みがないというそれだけである。
じゃあちょっと走るわ、と言ってヤマ先輩はぽん、と良い音を立てて傘を差した。私達は簡単に別れの挨拶をしてヤマ先輩を見送る。思ってたより足速いなぁ、と褒めているのか失礼なのか自分でもわからない事を思いながら、割とすぐに遠く離れていくヤマ先輩を見ていた。
「みょうじさんはまだ帰らんの?」
十数秒後、だいたいヤマ先輩の姿が見えなくなった頃にノブ先輩は私の方を見てそう言った。こくんと頷いて、小脇に抱えていた、まだ今日の記録が書かれていない部活の日誌をひらひらさせる。ノブ先輩はなるほど、という顔をして「マネージャーも大変やなー」と地味に労ってくれた。
「じゃ、俺もそろそろ帰るわ。みょうじさんも暗くならないうちに帰りやー」
「もう結構暗いですけどね」
「たしかに」
お疲れ様ですと挨拶して、さっきヤマ先輩にやったようにノブ先輩が見えなくなるまでドアの前で見送った。完全に姿が見えなくなったところで、部室内に入ってドアを閉める。もう部員は皆帰ってしまっていて、部室の中は私ひとりだ。カバンの中にあるはずの筆箱を探しながら、今日の練習内容はなんだったっけと湿気た頭で考えた。
*
「あれ、御堂筋くん」
日誌を書き終わり部室から校門まで歩いていると、校舎内から出てくる御堂筋くんを見つけた。御堂筋くんと目が合うと、彼は面倒臭そうに目を細める。そんなにあからさまな顔をしなくてもいいのに。
私は校舎の外で傘を差しながら、御堂筋くんは校舎外ではあるがまだ屋根があるところで話す。
「もう帰ったんちゃうかったん?」
「教室にプリント忘れてたから取りに行ってたんや」
「へぇ。御堂筋くんもそんなドジするんや」
「うるさいで」
私が笑うと、御堂筋くんは面倒臭そうな顔から胡散臭そうな顔に変わった。うるさいって言われてるし、彼の機嫌は今そんなに良くないんだろう。でも特別悪くもなさそう。というかこれが通常か。
まぁ話題は変えた方が無難だろう。
「雨結構降っとるね、流石に今日は歩き?」
そう聞くと、御堂筋くんは一回だけ左右に首を振った。
「自転車やで」
「え、この雨で?」
「さっきまでは降ってなかったやん、みょうじさん頭回らんなぁ」
そこに自転車あるやんけ、とぴっと指差された先には、確かに見たことのある小さな、でも改造されてある自転車があった。雨ざらしにならないように屋根のあるところに置かれているあたり、後々雨が降ると気付いていたんだろう。ほんとだ、と思いながら自転車を見ていると、御堂筋くんは自転車に跨った。
「ほなボクもう帰るで」
「え、ちょっと待ってよ」
「……今度は何やの」
御堂筋くんが私を睨む。
自転車で去ろうとする御堂筋くんを引き止めるのは、これで二度目だ。
せめて傘差しなよと言うと、傘差し運転はルール違反やでそんなんも知らんの、と呆れられた。私も馬鹿ではないのだから、傘差し運転がいけないのは流石に知っている。
「そうやなくて、傘差して自転車押せばええやん。スリップして事故ったら、困るの御堂筋くんやで」
幼い頃の事故からか、私は雨の日や雪の日に乗り物に乗ることを酷く嫌っていた。歩いている時も然りだが、ずるりと、足またはタイヤが滑る様は恐ろしい。あの一瞬のヒヤリとした感覚は、私にとってはジェットコースターに乗った時の感覚よりも心臓を縮み上がらせるのだ。
けれどそれは私だけの感覚らしく、御堂筋くんは雨の中自転車に乗る事をさして気にもしていないようだった。
「自転車競技部の部員なら分かるやろ。雨の日にレースが中止になるかならんかくらい」
例え雨でも強風でも、レースは決行される。それくらい分かっていたので、彼の言葉にこくりと頷いた。それでも、私は引き下がらない。
「でも、今日はレースちゃうし部活も終わったやん」
「聞き分けないなぁみょうじさん。第一ボク傘持ってきてへんから歩いて帰ったら風邪ひくやろ」
「御堂筋くんは風邪ひかんよ。それより事故のが怖いわ」
「なんなんキミのその自信」
ある意味そっちのが怖いわー、と言う御堂筋くんを少し睨みながら、私はカバンの中から小さな折り畳み傘を取り出した。それを器用に開き、今まで差していた方の大きな傘を「ん」ととなりのトトロに出てくるカンタのように御堂筋くんに差し出した。
「私こっちの傘使うから、御堂筋くんこれ使ったらええわ。それやったら風邪ひかんやろ?」
「……みょうじさん意味わからんってよう言われん?」
はぁぁ、と嫌味ったらしく御堂筋くんはため息をついた。きっとこれ以上私と言い合いしている方が時間の無駄だと思ったのだろう。面倒臭そうに傘を受け取り、左手でそれを差して右手で自転車を押す。
そんな御堂筋くんを見て、私は自然と安堵の笑みを浮かべた。
校門を出て、私達は歩く。
別に一緒に帰っている訳ではないので、並んで歩くことはしない。
御堂筋くんの何メートルか後を歩きながら、御堂筋くんと通学路同じかもしれないなぁ、と私のいつもの帰り道と全く同じ道を辿る彼の背中を見ながら思った。