「お、終わった……」

化学プリントの最後の一問をなんとか解き終えて、ぽつりと声が漏れた。もうあのよく覚えてない元素記号を見なくていいのかと思うと心が晴れ晴れする。プリントや資料集が散らばっている机の上にぼふんと頭を乗せると、御堂筋くんの声が上から振ってくる。

「ほんま苦手なんやな、化学」
「だからそう言ってるやん」
「や、予想以上やった。もう四時間くらいぶっ続けで教えてたんやでボク」

そんな声につられて部屋に掛かっている時計を見ると、もう時刻は夕方四時になっていた。窓の外はまだ晩夏なので明るいけれど、そろそろ陰ってくるだろう。
長い時間ありがとねと言うと、御堂筋くんはぷいと顔を背けて「ほんま長いこと拘束されたわぁ」と皮肉っぽく返した。素直にどういたしまして、なんて返ってくるとはこれっぽっちも思っていなかったし、皮肉を言うのが御堂筋くんの話し方の特徴でもある気がするので、今更欠片も気にすることはない。
私はプリント類を片付けて、カバンの中に流し込んだ。そして御堂筋くんが持ってきてくれたジュースを飲んで、ふぅ、と息を吐く。
なんだかんだで御堂筋くんは懇切丁寧に教えてくれた。結構スパルタなのは否めなかったけど、実際教え方が上手かったし私にも理解できるように頑張ってくれているように見えた。御堂筋くんが成績上位者な理由がなんとなく、分かった。
ちなみに御堂筋くんは私が四時間かかった化学の課題を最初の一時間でさらっと終わらせてしまったらしい。頭脳の差をはっきりと見せつけられてしまったので、ちょっぴりショックだ。

「じゃあそろそろおいとましようかな。これ以上長居するのも良くないし」
「おん。さっさと帰り」

御堂筋くんはそう言いながら立ち上がり、ロードバイクを置いている玄関の方へと足を進める。私はそんな御堂筋くんを見ながら、忘れ物がないかどうかを確認してから立ち上がった。玄関へと続く廊下をてくてくと歩くと、ビンディングシューズを履こうとしている御堂筋くんの背中が目に入る。その隣に座り込んで、薄っぺらいスニーカーを履きながら私は問いかける。

「走りに行くん?」
「せやで」

シューズを履いた御堂筋くんはロードバイクを手に取って、玄関の戸を開けて外に出る。私はそれに続いて離れから出ていく。
離れから見える庭ではユキちゃんが花に水をやっていて、私達に気付くとホースから出る水を止めてぱたぱたと足音を鳴らしながらこちらにやってくる。
なまえさんもう帰るん?という質問に頷くとちょっぴり寂しそうな顔をしてくれたので、歓迎されていたんだなぁと嬉しくなる。そしてユキちゃんは御堂筋くんの方に顔を向けて話しかけた。御堂筋くんとユキちゃんは容姿は全く似ていないのに、そのときばかりは何故だか兄妹らしく見える。

「翔兄ちゃん、なまえさん送ってってあげるん?」
「や、いつものコース走りに行くだけやよ。みょうじさんちは逆方向やし」
「えぇ、女の子家に呼んどいて送ってってあげんの?翔兄ちゃんいけずやわ」

ユキちゃんは御堂筋くんの返答に満足しなかったようで、可愛らしく頬を膨らませてみせた。

「ええんよユキちゃん、送ってもらうなんて申し訳ないし」

私はそう言ってユキちゃんを宥める。
休日に四時間もぶっ続けで勉強を教えてもらったのに、更に送ってもらうだなんてそんなに手間をかけさせてしまう訳にはいかない。
そういった意味も込めて遠慮すると、ユキちゃんはううむ、と首を捻った。そうしてしばらく考え込んだ後、そうだ、とぽふんと手のひらの上に拳を置いた。

「じゃあ私が送ってくよ。それなら大丈夫やない?」





突然のユキちゃんの申し出を断る言葉が思いつかなくて、ぽてぽてと家路を二人で歩く。
御堂筋くんの家から私の家までは十分少しなので、ちょっとした散歩をしている気分だ。
なんとなくたわいもない話をしながら、少しずつ家へと近づいてゆく。

「そういえばなまえさんって、」

ユキちゃんが私の名前を呼んだので、私はそちらを向いた。彼女は目をきらきらさせながら私を見ていたので、なんだろう、と思う。

「翔兄ちゃんの彼女さんなん?」
「えっ」

間髪入れずに出てきた言葉は私を驚かせるには十分だったので、なんだか低くて短い声を不意に上げてしまった。私の反応は意外なものだったようで、それに対してユキちゃんも驚いたのか目をまん丸くした。

「あれ、違うん?」

私は違うよ、とぶんぶん首を振る。

「最初に会った時に言わんかったっけ。私はただのマネージャーやよ」
「確かにそう言ったけど、その時と今日はなんか雰囲気が違うように見えて。翔兄ちゃんのトクベツになったんかなあって」
「トクベツ……」

トクベツという言葉は、最近よく耳にする。御堂筋くんにとっての私がその「トクベツ」というものなのだと、石垣さんや、ノブ先輩や、そしてユキちゃんにまで教えられている。
それってそんなに、見てわかるものなのだろうか。そんな疑問を抱いてみるけれど、色んな人に言われてることから考えるとそういうものなのかもしれない。

「でも、彼女とかではないよ。フツーに、部員とマネージャー」

私が言うと、ユキちゃんは「ほんまかなぁ」と優しく笑った。ほんまやで、と念を押してみても、ユキちゃんは笑みを崩さなかった。

「翔兄ちゃんの彼女になる人には、ずっと言おうと思ってたことがあるんよ」

ユキちゃんは言う。まぁ、彼女じゃないってなまえさん言うてるけど、と付け加えて。

「それって、私に言うべきことなん?」
「言うべきやろなぁ。女の勘ってやつやけど、ね」

ユキちゃんの笑みに感化されて、私も何故だかふわりと笑みが浮き上がってきた。彼女といるとやけに暖かい気持ちになるのはなんでだろう。

「あのな。翔兄ちゃんを、幸せにしてあげてほしいんよ」

綺麗な声で、少し上を見上げながら、彼女は言った。私はそれを聞いて、二回瞬きをした。

「幸せに、」
「うん。幸せに、してあげてほしい。翔兄ちゃんには幸せになってほしいけど、私達だけじゃ足りんから」
「……それ、私に出来ることなんかな」
「きっと。なまえさんだと思う、できるのは」

ユキちゃんは一瞬だけ真剣な顔をして、その後すぐにふにゃりと笑った。
私はユキちゃんの顔を見ながら、御堂筋くんの姿を思い浮かべた。

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