私が御堂筋くんに自分の家を知られたくなかったのには、明確な理由があった。
炎天下の中で、御堂筋くんが去った後、自分の家の表札を見やる。そこに書かれている苗字は、慣れ親しんだ「みょうじ」ではなかった。それとは字面のまるで違う、読みも全く違う漢字が並んでいた。
私の名前は確かに「みょうじなまえ」だ。それは間違いではない。では何故、自分の家の表札に書かれた苗字が自分のものではないのか。それを説明するのは難しいようで、実は簡単だった。

「……叔母さんと叔父さん、早く帰ってこないかなぁ」

表札を見ながら、誰もいないのを良いことに独り言を呟く。そして提げているレジ袋を見て、アイスが溶けそうな状態にあることを思い出した。
きい、と音を立てながら門を開いて、玄関の前に立って鍵穴に鍵を差し込む。がちゃりと割と大きな音を立てて鍵が開いたのを確認すると、ドアを開けて家の中に体を滑り込ませた。レジ袋からアイスだけを取り出して、それを冷凍庫に入れる。
叔母さんと叔父さんが同時に数日間家を空けるのは、もしかしたら私がこの家に来てから初めてかもしれない。普段はあまり感じない居心地の悪さを、なんとなく感じた。何年も前から私はこの家に住んでいるけれど、なんとなく、本当にぼんやりとした感覚で、私はこの家の住人らしくない、と思うことが時々あった。
叔母さんと叔父さんの本当の子どもではないからだとか、両親がもうこの世にいないからだとか、理由らしいものは集めようと思えばいくらでも出てくる。それらももちろん真っ当な理由なのだろうけれど、私はもっと、もっと単純な部分でよくわからない居心地の悪さを抱えているんだろうと自分で思っている。

簡単に言ってしまえば、それは私が「みょうじなまえ」であり続けたことが原因だと、私は思っている。

両親の葬式が終わり、親戚の間で私の養子の話が持ち上がった時、私が苗字を変えることを拒んだのだ。両親と暮らした家を離れ、あまり親しくしたことのなかった親戚と暮らすにあたって、どうしてもそれだけは譲ることが出来なかった。両親の影をどこかに残しておきたくて、私は両親の子どもであることを証明し続けたくて、どれだけ親戚達にこれからの保護者と同じ苗字にしていた方が都合が良いだろうと宥められても拒み続けた。
私があんまり拒むので、最終的には親戚達が折れた。両親を亡くした傷が癒えていないことや、今までその名前で暮らしてきたのに急に親戚達の独断で変えるのも良くないだろうという考えも相まって、法的な養子にはならないまま父方の叔母さんとその旦那さんである叔父さんの家の居候という形で落ち着いた。
つまり私は、世間一般から見れば「養子」であるけれど、実際のところは戸籍上の関係は叔母さんと叔父さんとはただの「父方の親戚」、くだけた言い方をすれば少しだけ血の繋がっている居候である。
だからきっと、一人でこの家にいると、ただの居候なのに何故私が一人でここにいるのだろう、という考えが浮かぶのだ。もちろん叔母さんと叔父さんといる時は、二人とも本当の子どものように扱ってくれるからそんな考えは浮かばない。一人になった時だけ、そして更に言うならば、気分が落ち込んでいる時だけ。

「……落ち込んでんのかな」

気分が落ち込んでいる時だけ。
そんな条件を頭に思い浮かべたとき、ふとそんな言葉が口から漏れた。
アイスを冷凍庫に入れるためにキッチンに立ったついでに、鍋に水を入れて火にかける。そして戸棚の中に仕舞われていたそうめんを一束手にとって、買ってきたサラダと唐揚げ、豆乳は食卓の上に置いた。右手にそうめんの束を持ったまま、鍋の見える場所に立って壁に背を預けた。

落ち込んでんのかな。

さっき口から漏れた言葉を、今度は心の中で繰り返す。
落ち込んでいる理由は、見当たった。御堂筋くんに何か隠し事があるのではないかと言われたから。そしてそれを濁したら、表札に書かれた苗字のことと、私が頑なに家族を「両親」と言わないことを指摘されたから。
理由を頭の中で繰り返して、私は一旦納得する。けれどすぐに違和感を覚えて、頭を振った。
隠し事があるのではと疑われて悲しんでいるのではない。苗字のことや両親と言わないことを指摘されて怯えているのでもない。
じゃあ、私は何に落ち込んでいるのか。
そこまで考えて、鍋の水が沸騰し出したのを確認する。持っていたそうめんの束を適当に鍋に回し入れて、菜箸でゆるゆると鍋の中を掻き雑ぜた。食器棚からそうめんを入れるのに丁度いいどんぶりと麺つゆ用の入れ物、冷凍庫から氷と麺つゆを取り出す。鍋の様子に気を配りながらそれらの準備をする。刻み葱も使いたかったけれど、切るのが面倒なので今回は無しでそうめんを頂くことにしよう。
茹で上がったそうめんを水で冷やして、どんぶりに入れて食卓へ運ぶ。リモコンを手に取ってテレビの電源を付け、あまり興味のないお昼の情報番組を見ながら昼食を食べることにした。
居候だという思い込みが自分の中である所為か、この家で一人でご飯を食べることは苦手だ。だから興味が無くともテレビをつけて、人の声を聞きながらご飯を食べるのが常だった。
唐揚げを頬張りながら、陽気な司会者の声を聞き流す。そうしながらふと、どうして自分が落ち込んでいるのか、思い至った。もぐもぐと久々に食べる唐揚げの味を噛みしめながら、少し上を向いた。

きっと私は、気付かれたのが嫌だったのだろう。

御堂筋くんとの過去の事を、私はしっかりと覚えていた。
覚えていて、けれどもしもその過去が御堂筋くんの足枷となってしまったら嫌だから、過去を彷彿とさせるようなことを言わないように気を付けてきたのだ。何か隠していることは無いかと問われ、過去に関することだろうと薄々勘付いていながら「御堂筋くんは覚えていない」と思い込もうとしてきたのもそのためだ。
自己満足だけれど、それは御堂筋くんのためにと思ってしてきたことだった。
しかしその自己満足も、最後に御堂筋くんが言い残していったことによって呆気なく終わりを告げた。そしてこの数か月の私の配慮が無駄になった気がして、御堂筋くんの足枷となるかもしれないという不安も生まれて。
ちゅるちゅるとそうめんを啜りながら、窓枠でちりんと揺れる風鈴の音を聞いた。
もう、夏も中盤だ。二学期になれば、嫌でも御堂筋くんと顔を合わせることになる。いや、その前に、夏休み中でもお盆が過ぎればそろそろ部活が始まるだろう。
そこで御堂筋くんと顔を合わせて、どうすればいいのか。
隠し事をしてごめんなさいとでも言えば良いのか。
それとも黙って普段通り接すれば良いのか。
そもそも私が今までこのことを語らなかったからと言って、それを御堂筋くんに責められるいわれはあるのか。
これは御堂筋くんに話さなければいけない事なのか。
テレビから聞こえる楽し気な音が妙に耳について、リモコンを手に取り電源を切った。椅子の背もたれにもたれかかって、ぼんやりと空を仰ぐ。
少し伸びてしまったそうめんを食べた所為か今している考え事の所為か、どうにも気分が良くならなかった。

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