「……何の事?」

少しの沈黙の後、口をついて出たのはそんなありきたりな言葉だった。二時間サスペンスドラマで追い詰められた犯人が白を切る時に使う、よくある言葉。まさか、それを自分で言う日が来るとは思っていなかった。
額の辺りから、汗が流れるのが分かる。それは暑さからくるものだったけれど、危うく御堂筋くんの質問に対する冷や汗と勘違いしてしまうところだった。

「何の事、て」

御堂筋くんは呆れたような声を出した。御堂筋くんのその声は慣れたものなのだが、今聞くと、少し恐ろしく感じる。きっと私に疾しい気持ちがあるからなのだろう。

「想像つかへん?」
「……つかへんよ」

彼の質問に、少し間を空けて答えた。
生温い風が吹いて、私と御堂筋くんの間をすり抜けていく。私は御堂筋くんの方を振り向いたままの体勢で、御堂筋くんは私を見ずに前を向いたままの体勢で。そのまま私は、浅く息を吐いて額の汗を拭った。
御堂筋くんの言う「隠してること」が何なのか、想像がつかないわけではなかった。私が御堂筋くんに隠していることと言えば、あの「過去のこと」だけだ。思い当たることはそれだけなのだから、きっと彼が言っているのもその事で間違いないだろう。

(だけど……)

暑さで朦朧とした頭で、私は考える。
昔、私と御堂筋くんが出会ったときのことを、御堂筋くんは覚えているという事なのだろうか。覚えているのだったら、何かしら話題に出したりするものじゃないだろうか。それに昔の「翔くん」ならともかく、今の御堂筋くんは自転車の事だけを考えているような人間なのだから、昔の、しかもたった一日だけの記憶を後生大事に取っておくだろうか。

(……覚えて、ないだろう)

きっと、そうだ。
色んな要素を思い浮かべて、私は無理やり結論付ける。きっと、御堂筋くんは覚えていない。あの昔の、一日だけのちっぽけな思い出など覚えていない。ペダルを回していくうちに、きっと何処かにその記憶を置いてけぼりにしてきたに違いない。
御堂筋くんは、あの事を覚えているべきではない。

「想像つかへんよ。隠してることとか、無いよ」

私は少し笑いながら言う。無意識的に、笑うことで冗談らしく受け流そうとしたのだと思う。
生温い風がまた吹いて、私の頬を撫ぜた。汗で頬に張り付いた髪を、手で払いのける。じわじわとした暑さは、どうにも不快だった。
私の返答に対して御堂筋くんがどう思ったのかは分からない。彼はずっと私に背を向けたまま、そして身じろぎもしないまま私の言葉を聞いていた。彼もまた、この暑さを不快に思いながら聞いているのだろうか。

「だから、何て言うんやろ。そういうん、気にする必要ないで」

言うべき言葉が見つからず、少ししどろもどろになった。けれどとりあえず御堂筋くんにそう呼びかけると、彼は静かな声で「せやな」と言った。その声は案外いつも通りだったので、少しほっとした。

「じゃあな、御堂筋くん。私そろそろアイス冷やさなあかん。溶けてしまうわ」

出来るだけあっけらかんに言いながら、私に背を向けている御堂筋くんにも分かるように音をたてながらレジ袋を揺らしてみせた。アイスはまだ溶けきってはいないと思うけど、そろそろ冷凍庫に入れなくてはいけない頃だろう。
それを理由にして、御堂筋くんが振り返らないのを良いことに私は何歩か後ろへと動く。そしてもう一度「じゃあな」と呼びかけると、彼はロードに跨りペダルに脚を乗せながら、同じように「せやな」と淡々とした声音で呟いた。
それを聞いて、私は家の玄関に足の爪先を向ける。その時、ペダルを踏み出した御堂筋くんは、先ほどよりももっと淡々とした声で、言葉を吐いた。

「みょうじさんの家の表札に違う苗字が書かれとったり、みょうじさんが頑なに『両親』って言わんことなんて、気にする必要無いな」

それだけ言うと、すぐにロードバイクが遠のいていく音がした。
私は家に向いていた視線を、慌てて御堂筋くんの方に戻す。しかし御堂筋くんはこちらを一切見ることなく、家までの道をかなりのスピードで走っていき、すぐに姿が見えなくなってしまった。

「…………え?」

無意識に口から出た声は、私以外の誰かの耳に届くことは無かった。

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