薄っぺらい紙をじっと見つめ、どうしよう、と私は思案する。
見つめている先にある紙切れは、部活動全てに配られるプリントだ。それぞれの部の主将と顧問の署名を貰って提出する物である。今日配られたのだが、明日には提出しなければならないらしい。だが既に石垣先輩の署名は貰っており、明日の朝に顧問にまで持っていって署名を貰えば何とか間に合う。
けれど私は、悩んでいた。
主将は石垣先輩だが、エースであり政権を握っているのは御堂筋くんである。ならば御堂筋くんにこのプリントを確認してもらうべきなのではないだろうか。
部活後に念のため石垣先輩にそう質問してみると、「あー、せやなぁ。見せた方がええかもな」と言った。
石垣先輩が言うなら、やはり見せた方が良いのだろう。
ただ、そう思った時には既に、御堂筋くんは帰ってしまっていた。



数日前の雨の日に、御堂筋くんが消えていった四つ目の交差点で、私は立ち尽くしていた。
帰ってしまったのなら、家まで持って行けばいい。
そう思ったまでは良かったのだが、私は御堂筋くんの家を知らないということを、まさに四つ目の交差点に着いた時に思い出した。自分の馬鹿らしさに呆れる。ううん、と呟きながら横断歩道の前をうろうろすること30分、未だに解決策は見つからなかった。

「どうしよう」

プリントを見つめていた時は心の中に押しとどめていたが、ここにきて迷いが声に出た。家が分からないなら分からないで私ももう帰ってしまっても良いのだろうけど、それで後々御堂筋くんに「なんでプリント回してくれんかったん」とねちねち聞かれるのは面倒臭い。それは避けたい。石垣先輩にメールでもなんでもして御堂筋くんの住所か連絡先を聞くのも手だと一瞬は思ったが、御堂筋くんは先輩方には連絡先を教えていなさそうだ。勿論、私も教えてもらっていない。
もう何回目かも分からない信号の色の変化を見つめながら、特に良いアイディアも浮かばない頭を働かせる。

「もう、通行人に聞こうかなぁ……」

あまりに良い案が思い浮かばず、ついにはそんな古典的な考えに到達した。
でも正直今の状態から考えると、それが一番良い方法な気がしてくる。人間切羽詰まるとどんな事でもするようになるんだな、と今実感した。

それからまた、通行人を待つこと数分。
車は結構走っているが、通行人は少ないらしい。少し帰宅ラッシュの時間とはずれているからだろうか、と考えてみるが、実際のところは分からない。歩行者用信号が付いている電柱に寄りかかって、小さく欠伸をした。あと五分して誰も来なかったら、もう帰ってしまおう。御堂筋くんにねちねち言われるのも、我慢したら良い。
そんな事を思っていると、タイミングが良いのか悪いのか、二つ結びの女子中学生が私の隣に並んだ。そして、歩行者用信号が青になるのを待っている。
年下の子に話しかけるのは慣れていないのだが、この際そう言ってはいられない。
私は意を決して、「あの、」と女子中学生に声をかける。
女子中学生は少しびっくりしたような顔をしたが、すぐに人懐こそうな笑顔を浮かべて「はい、どしたんですか?」と答えた。
良い人そうな反応で、私はちょっと安心する。

「えっと、御堂筋さんの家ってどこだか分かりますか?」

ここで、分からないですと答えられたら私は諦めて帰るしかない。
そう思っていたが、女子中学生はにこっと笑う。そして、笑顔に似合った綺麗な声を出した。

「うち、御堂筋ですよ!」



なんとびっくり、という言葉が非常に似合う状況だった。
最初はただ同じ名字なだけかとも思ったが、御堂筋なんて名前はそうそう見かけない。少なくとも、私の人生で御堂筋という名前の人は一人しか知らない。
よくよく話を聞くと、その女子中学生はどうやら御堂筋くんの家族のようだった。
妹さんがいるなんて初耳だ。
そう驚いたが、そもそもに御堂筋くんがプライベートな話をした事は高校生になって出会ってからただの一度も無かった。
幼い頃に聞いた話の記憶をぼんやりと辿る。きっとこの女の子は、御堂筋くんの親戚の方のお子さんなんだろう。

だって御堂筋くんに全然似てないし。

そんな事を思いながら、私はその女の子、ユキちゃんに経緯を話す。経緯といっても大したものではなく、プリントを御堂筋くんに確認してもらいたくて、というようなあっさりした感じだ。
ユキちゃんは分かりました、とプリントを受け取りながらしっかりした声で言う。ほんとうに御堂筋くんとは似てないなぁ、とその姿を見て思った。
そもそも御堂筋くんに似ている女の子って、ちょっとというか全然想像出来ないけど。

「ほんとありがとう、助かります」

年下相手だけれど、敬語を使う。ユキちゃんは年齢以上にしっかりしたイメージの子だから、無意識のうちに敬語になっちゃうなぁ、と心の中で思った。

「いえいえ、困った時はお互い様ですから」

やはりどこか大人びた感じで、ユキちゃんは返事をした。
こんな純真無垢そうな子が、義理とはいえ御堂筋くんの妹なんだなと思うと、人類の神秘みたいなものを見た気分になる。御堂筋くんには失礼だけど、私のこの感覚は間違ってないと思う。
それじゃあ、と言って道を引き返して家に帰ろうとすると、ユキちゃんは思い出したように「あ、待って下さい!」と言った。
ちょっとびっくりして、反射的に振り返る。

「ん、どしたん?」

瞬きをしながら聞くと、ユキちゃんはやっぱり、しっかりした声で話した。

「お姉さんの名前、聞いてなかったんで!翔お兄ちゃんに渡す時、名前も伝えた方が色々便利やから」
「あぁ、そやねえ。みょうじからって伝えといてもらえるかな?」

私がそう言うと、ユキちゃんはううむ、と思い悩む。
そして、「ううん、一応、」ともう一度聞いていた。

「下の名前もお願いします」

にこ、と笑って言うユキちゃん。
そんな微笑みを浮かべながらされた質問を、邪険に答えるわけにはいかない。けれど私は、御堂筋くんに下の名前を教える気はなかった。
御堂筋くんが、昔を思い出すきっかけが出来ないように、という私なりの考えである。

「多分御堂筋くん、名字だけで分かると思うよ?」

ユキちゃんに負けないくらいふんわり笑って交わそうと思ったが、ふんわり笑う方法を私は知らない。
ちょっと顔が強張っているのが自分でも分かって、内心焦る。
さっきまで青で点滅していた歩行者用信号が、赤に変わった。

「でも一応。みょうじって名字、他にも知り合いにおるかもしれませんから」
「……まぁ御堂筋って名字よりかは多いかな」
「でしょう?」

またもや、ユキちゃんの笑顔。
流石に二回も拒否したら、不審に思われるかもしれない。御堂筋くんに不審そうな顔をされるのは充分慣れているが、今日出会ったばかりの女の子に不審に思われたら、割とショックを受ける。
出そうになるため息をぐっと喉の奥に押し込んで、私は言った。

「なまえ。下の名前はなまえって言います」
「なまえさんですね、分かりました」

それじゃあ、ちゃんと渡しときますんで。
ユキちゃんはそう言い、信号が赤から青になったばかりの横断歩道を渡って行った。
私は慌てて「あ、でもほんとみょうじで分かると思う!とりあえず自転車競技部のマネージャーのみょうじって伝えて!」と予防線を貼っておいた。
ユキちゃんが半身で振り返りながら片手を挙げたので、たぶん大丈夫だろう。たぶん。

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