アシキバくんが無期限謹慎になったと聞いたのは、私が荒北先輩と話した丁度一週間ほど経った頃のことだった。
いつものように月曜放課後に音楽室へ向かうと、アシキバくんもいつものようにピアノの前に座っていた。けれど、鍵盤を叩く素振りは欠片も見せなかった。

「アシキバくん?」

なんだか異様な空気のアシキバくんに恐る恐る声をかけてみると、彼はゆっくりとこちらを向いた。いつもと雰囲気が明らかに違う彼を見て、何も気づかないほど鈍感な私ではない。どうかしたのかと聞こうとすると、それに気付いたらしいアシキバくんは悲しそうな笑顔を浮かべながら私の質問を制するかのように口を開いた。

「謹慎だって。無期限の」
「……え?」
「やらかしちゃった。やっと公式レース、出られたのに」

最初は何のことだかよく分からなかった。
公式レース、という単語を聞いて初めて、あぁこの前嬉しそうに言っていたあの話か、と合点がいく。やっと出られた、ロードレースの大会。
アシキバくんは頭を垂れて、腕と足をだらんとさせる。身長の高さと腕や足の長さからして、その姿はちょっとだけ恐ろしかった。ピアノを弾いているときの楽しそうな表情や、私と話しているときの明るい顔はそこにはなかった。もぬけの殻と言うのが一番正しいんだろう、今のアシキバくんはそんな感じだった。魂が抜け落ちているみたいだ。

「走るの好きって、こないだ言ったのに……怖くなったんだ」
「怖く……」
「うん、全然思うようにいかなくて。それでパニックになって、気付いたら……」

アシキバくんは言葉を切った。気付いたら、どうなっていたのか。それを知りたくないわけじゃなかったけれど、ただ鍵盤を見つめて小さく震えているアシキバくんに追い討ちをかけるわけにはいかない。聞くべきではないことだ。
私はアシキバくんから目を逸らして、外を見た。少し、いたたまれなくなったからだ。
音楽室の窓からはグラウンドが見えた。サッカー部や陸上部が、そこらじゅう走っていた。汗を流しながら、笑いながら。または必死な顔をしながら。私にはきっと、これからもできない表情だと思った。
一時的なものかもしれないけど、アシキバくんは走るのが怖くなった。私もだ、と心の中で口にする。

「…………あれ?」
「どしたの、みょうじさん」
「いや、……なんでもない」

つい疑問符が声に出てしまっていたようで、アシキバくんは顔を上げてこちらを見た。すぐに苦笑いを形成して手をパタパタと振ると、アシキバくんも苦笑いを作ってまたピアノに視線を戻す。
お互いがお互いから目を逸らしたあと、私はさっきの自分の考えを思い出していた。走るのが怖いという感情に、「私もだ」と即座に思ったのだ。
走るのは、そりゃあ好きじゃない。基本のんびり屋だと自他共に認めてるし、今は帰宅部だ。荒北先輩から私が陸上部だったときの話は聞いたけど、正直そんな記憶もない。でも、走ることは毛嫌いしているわけではないはず。
なのに走ることに関して一瞬で「怖い」と思ったことが、自分の中でどうにも腑に落ちなかった。

「そろそろ、部活いかなきゃ」

一曲も弾かないうちに、アシキバくんは席を立つ。謹慎なのに部活は行くのか、という失礼な考えが読み取れたのか「洗濯係なのは変わらないから」と曖昧に笑った。失礼なことを考えてしまった自分が恥ずかしくなってごめんと一言謝ると、なんで謝るのと優しく頭を撫でられた。きっと今頭を撫でて慰めてほしいのは、アシキバくんの方だろうに。
音楽室を二人して出て、最上階の階段から校舎外にある自転車競技部の部室を目指して降りてゆく。

「俺は部活行くけど、みょうじさんっていつもこの後何してるの?」
「私は寮に帰ってお昼寝するかな」
「いーなぁ」
「ちゃんと課題する日もあるけどね」

なんてことのない会話をしながら、一歩一歩階段を踏みしめる。今の私たちがお互いに気を遣わず話せるのはこういう話だけだ。今日一曲も弾かなかったピアノの話をするわけにはいかないし、自転車競技部の話題をこのタイミングで私からするなんて地雷を踏みに行くような真似はできない。すると、こんなふうに私の中身のない生活くらいしか話すことはなくなってしまうのだ。アシキバくんと仲良くなってきたつもりだったが、まだまだ踏み込んだ話をするほどではないのだと思い知らされる。

「男子寮と女子寮のご飯って一緒なのかなぁ」
「どうだろ、みょうじさん男子寮来てみたら?」
「えー、アシキバくんが女装してこっち来たらいいよ」
「そうしよっかなあ」

本当にどうでも良い話をしつつ、3階から2階の踊り場まで足を進めたとき。
話に気を取られていたせいか夕暮れ時で足元が見えづらくなっていたせいか、どちらかは分からないが不意にバランスを崩して足がもつれた。
あっ、と小さく叫んだときには遅く、自分の力では体勢が立て直せない。手すりを掴もうにも手すり側にいるのはアシキバくんで、私の腕の長さでは届かない。

落ちる。
落ちる感覚を、覚えている。
いつだったか、同じように、私は。

「みょうじさんっ!」

顔面から踊り場に落ちる寸前、ぐ、と腕を引かれる感覚があった。
聞こえたのはアシキバくんの焦る声。見えたのはアシキバくんの焦る顔。
一瞬思考停止して、そして状況を整理した。そうか、アシキバくんが助けてくれたのか。腕を引いて、落ちないように。
私はアシキバくんに触れられている腕をふと見た。ぎゅうぎゅうと掴まれた腕は仄かに暖かくなっていて、でも私の頭は静かに冷えていた。
足をちゃんと地につけて体勢を元に戻すと、アシキバくんが泣きそうな顔でこっちを見る。大丈夫、だとか足捻ってない、だとか私を心配してくれている。

けれど私は、その言葉に上手く返事が出来たかどうかよくわからない。何と返したのか、実はよく覚えていない。私の頭の中は、異様に冷えていて異様にぐちゃぐちゃになっていた。

私は前にも、今日みたいに階段から落ちる感覚を味わっている。
今日とは違い、背中を押され落ちていく感覚を味わっている。
いつの記憶だ、何故忘れていたのか、誰に押されたのか。ぐちゃぐちゃな頭の中では、それはまだわからなかった。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -