お前、ずっと陸上部エースだったろ?
そんな荒北先輩の声は、私の脳みそを掻き乱すには充分だった。あれ、私陸上部なんて入っていたっけ?そんな根本的な疑問が瞬時に浮かび上がって、私はついそれを言ってしまう。

「……私、陸上部でした?」
「何、覚えてねェのみょうじ」
「帰宅部だったと思うんですけど」
「でもお前、みょうじなまえだろ?中学にそんな名前二人もいねェし、顔も見間違えてねェはずだけど」

荒北先輩は不思議そうな顔をした。けれど私だって、荒北先輩よりもっともっと不思議そうな顔をしたいくらいだ。
なかなか納得というか、理解ができていない私を見兼ねたのか荒北先輩は自分の携帯を弄ってグーグルを開く。何をするのかと思えば検索欄に私の名前を打ち込んでいて、その勢いのまま「検索」ボタンを押す。何が出てくるのだろうと携帯の覗き込んでみると、思いの外多くの検索結果が出てくる。

「ほら、見てみろ。これお前だろ?」
「……ほんとだ」

私の名前で出てきたのは、神奈川県の陸上大会中学の部の記録ページ。200mと400m、それからリレーの部分にみょうじなまえという字が鎮座していた。しかも、どれも一位という結果。他のページも見ると賞状やトロフィーを持ってニッコリ笑っている私の写真が映っていて、もう言い逃れはできない雰囲気。言い逃れをしているわけでは、ないけど。
しかしそれらを見ても、私は自分が陸上部だったことを思い出せなかった。どうやらただの物忘れや勘違いで終わらせられる話ではないようだ。

「記憶消失ってヤツかァ?」
「でも、その他はちゃんと覚えてますよ?ただ、陸上部じゃなく帰宅部だった記憶があるだけで」

荒北先輩はかなり壮大な話にしようとしたけど、さすがにそこまでじゃないのでは。そう思い異論を唱えると、荒北先輩はあー、と言いつつ頭を掻いた。そして、ぽつんと一言落とす。

「じゃあアレじゃね、PTSDってヤツだと思う」
「PTSD?」
「トラウマだヨ、簡単に言うと。みょうじはトラウマを閉じ込めるために、あった記憶を無かったことにして無かった記憶をあったことにしてんだろ」

割とそれでも大きな話になっているようで、私は心配し過ぎですよ、と笑おうとした。しかし荒北先輩の顔を見るとただの中学の後輩相手なのにひどく真剣な顔をしていたので、私の笑いは引っ込んでしまった。
そうなのかなぁ、と考える。
けれどもしPTSDだとかトラウマだとかいったものの所為だとして、何が原因でそうなったのかが分からないためどうしようもない気がする。この際、陸上部だったとかそうじゃないことはどうにもならないことのように思える。
私はそんな話からいったん離れて、荒北先輩に向き直った。

「そういえば荒北先輩、私に何か用事があるから声をかけたんじゃなかったんですか?」

中学の後輩とはいえ、あまり話したことのない相手に用事も無しに声をかけるタイプの人ではないだろう。荒北先輩に聞くと、そういえばと彼も思い出したように言った。

「ま、大した事じゃねェヨ。葦木場とこないだ話してたのを見かけたから、仲良いのかと思ってヨ」
「あぁ、タオル届けに行った時ですね」
「たぶんそんとき」

少し前のことを思い出しながら頷く。あのときはまだ洗濯係だったアシキバくんが、つい最近公式レース出場を決めた。なぜだか遠くに行ってしまったような気がして複雑な気持ちがちょっぴりあるのは、きっと私のわがままだ。
荒北先輩はぼうっと遠くの方を見つめて、あまり張らない声で少しずつ話す。

「みょうじから見てさァ、葦木場ってどんな感じヨ」
「えっと……ピアノが上手いです。クラシックとかめっちゃ好きで」
「そういう系じゃなくてサ」
「えー……んじゃあ、なんか天然っぽいというか、ボケ気質っていうか」

天然、ボケ気質、という単語を出すと、結構身に沁みて感じているのか荒北先輩はうんうんと頷いた。普段からアシキバくんのちょっと変わった言動に困らされているうちの一人なのかもしれない。

「そーなんだヨ、あいつ天然すぎ。不思議キャラ飽和状態だっつの、黒田だけじゃ捌ききれなくなんぞそろそろ」
「そんなになんですか」
「そんなに。……だからなんつーか、ブレーキ的な存在増やしておきたいんだヨ」
「ブレーキ的な存在……」

私が復唱すると、荒北先輩はそう、と頷いてみせる。きっとそれを、私に請け負わせたいのだと思う。黒田くんだけじゃ、黒田くんの心象がとんでもないことになるかもしれないから。
でもアシキバくんはそんなに感情の起伏があるようには見えないし、ブレーキをかけなければいけないほどの事態になることなんてあるのだろうか。
そんな私の疑問が透けて見えたのか、荒北先輩は口角をぐにっと上げて悪そうな顔をして喋ってみせる。しかし、悪人面というイメージを受けるようなものではなかった。

「ああいうやつこそ、何するか分かんねェもんだ。ま、目ェかけてやれヨ」

そんなことを先輩という立場の人に言われてしまえば、反論もしづらくなってしまう。仕方ないなと息をついて、荒北先輩に困り顔で「分かりました」と返事をした。

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