ねぇ聞いてみょうじさん、と音楽室に到着した瞬間に、珍しくアシキバくんが嬉しそうな声をあげる。先に到着していた私はパイプ椅子に座ったままアシキバくんの方を向いて、どうしたのと首を傾げた。

「あのね、俺、公式レースに出ていいって言われたんだ!」
「公式レース?」
「うん。ずっとスランプだったんだけど最近なんとか上手く走れるようになって。それで」

目を細めてそう告げるアシキバくんはとても幸せそうで、その表情のままピアノの前まで軽い足取りで移動する。私はそんなアシキバくんを見て、曖昧に笑いながらおめでとうと祝福した。アシキバくんはかなり説明不足だけど、恐らくこれは部活の話なのだと思う。あの、強豪自転車競技部。

「アシキバくん、すごく嬉しそう」
「うん、だって嬉しいから」

ピアノ椅子に座って高さを調整しながら、彼はえへへと女の子がするような可愛らしい笑みを浮かべる。その反面、身体つきは長細いながらも筋肉がついていて、まさに運動部の人間だと主張している。いつもピアノを弾いているアシキバくんや、この間の部活で洗濯ばかりしていたアシキバくんを見てきていたので、それをしばらく忘れていた。
余程テンションが上がっているのだろう、小さな声でふんふんと鼻歌を歌っている。きっと今時の歌謡曲ではなく、ピアノ曲だ。アシキバくんの影響で少しずつピアノ曲を聴くようになったので、すぐにわかった。

「ねぇ、アシキバくん」

私はなんとなく、高揚しているアシキバくんに声をかける。彼は「ん?」とあひる口のような口の形をしてみせた。少しかわいい。

「アシキバくん、走るの好き?」

何を聞いているんだろうか、と自分でも少し思う。なんだか口が勝手に動いているようで、なんにも考えずに喋ってしまっている。
そんな変なことを聞く私を訝しむでもなく、アシキバくんはうん、と頷いた。

「スランプあるくらいだし、色々思う事はあるんだ。でも、基本的に好きかな。ロードでびゅーっと走るの、気持ちいいよ」
「そっか。……好きなんだね、走るの」
「みょうじさんは?のんびり屋さんだから、走るイメージないなぁ」

そうかそうか、と口をもごもごさせる私に、アシキバくんが質問し返してくる。
私は、走るのは……、とその時初めてぼんやりと考えた。ぼんやりと考えて、考えたのちに、頭を振った。

「私は走れないなぁ」
「あれ、運動苦手だっけみょうじさん」
「苦手っていうか……うん、好きではない?って感じ」

そう返すと、アシキバくんはなるほどと首を縦に振ってからピアノの鍵盤に指を置いた。
そして一瞬後、何の説明も無しに演奏が始まる。たぶん気分が高揚しているから、こちらを気にかける余裕もないのかもしれない。
彼が演奏しているのは、さっきも鼻歌で聞いたドビュッシーの「月の光」だった。






部活終了時刻まで、帰宅部の私が残っているのは珍しいことだった。
面倒臭そうな課題を終わらせてしまおうと、図書館に篭り始めたのは二時間ほど前のこと。集中していたので時間はあっという間で、図書委員の子に肩をポンポンと叩かれ「もうすぐ図書室閉めちゃいますよ」と言われるまで気付かなかった。
荷物をまとめて図書室を出ると、窓から運動部たちが片付けをしているが見える。グラウンドでは陸上部が片付けているのだろうか、そう思いながら、無意識に目をそらして自分歩く先を見つめた。階段を降りて、靴箱に辿り着く。上履きを乱雑に靴箱に入れて、スニーカーを床に投げた。それを履いて校舎外に出て、女子寮までぷらぷらと歩く。もう少しで正門を出るといったところで、後ろから声がした。

「オイ、ちょっとそこのやつ」

全く聞きなれない男子の声だ。アシキバくんとも黒田くんとも声質が違う。知り合いではないのでスルーしてしまおうかとも思ったが、ふと周りを見ても自分以外に特に人はいない。「私のことじゃないと思いました」という言い訳が通じないなぁ、とため息をついた。ちょっとガラの悪そうな声だし知らんぷりを決め込みたいけど、そうはいかなそうだ。「私ですか」と言いながら振り返ると、そこには黒髪で目つきのよくない、なんだか狼のような男子生徒が立っていた。恐らく、先輩だろう。

「あ、やっぱりみょうじか」

その先輩は私の顔をじっくり見て、今度は打って変わって何の敵意もなさそうな声で私の名前を呼んだ。え?と疑問符を浮かべると、やっぱり覚えてねェのか、とその先輩は言う。覚えてない、ということは過去に会っているのだろうかと記憶を遡ってみると、なんとなくだがその先輩の顔を見たことがあるような気がした。

「ええと、確か……中学の野球部に、あなたみたいな人がいた気がします」
「あァ、正解」

絞り出してみた答えは合っていたらしく、その先輩は少し驚いた顔をしてみせた。

「野球部だった荒北靖友だけど。分かっかなァ、学年ちげェし」
「……あっ、思い出しました。野球部エースの荒北先輩、学校で有名でしたよね」

髪型違うのですぐには分かりませんでした、と言うと、野球部だった荒北先輩はそうだろうなと頭を掻いた。坊主だった髪は伸びて、野球少年の面影はなかった。

「有名っつってもそんなにじゃねェよ。お前のが有名だったろ」
「…………私?」

首をかしげると、荒北先輩は「謙遜すんなよ」と目を丸くする。私はなんだか変な気分になって、少し冷や汗が流れた。アシキバくんの奏でる激しいピアノ曲を聴いた時と同じ、同じ感覚だ。
そして次の瞬間、荒北先輩は私の想像を軽々と超えてくるような言葉を言ってのけた。

「だってお前、ずっと陸上部エースだったろ?」

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