二年になってすぐの、放課後の事だった。
六時間目までの授業がやっと終わって眠気が襲ってくる頭の中に、やさしい音色が流れ込んでくる。
あまりの眠さに自分の頭の中で寝るのに最適なクラシックでも流れ始めたのだろうかと苦笑してみたが、一回頭を振って眠気を吹き飛ばしてみてもその音色は途切れなかった。
どうやら私にだけ聞こえている音ではないようで、教室に残っているクラスメイトも少し不思議そうな顔をして耳をすませている。けれど部活開始の時間が迫っているようで、誰もその音を辿ろうとはしなかった。

「なまえ、私そろそろ部活行くよ」

どこから聞こえる音なのだろうと思いを巡らせていると、前の席の友人が声をかけてくる。
何も片付けをしていない私を見て呆れたように息を吐いたので、私は机に出しっ放しだったノートや筆記用具を急いでカバンの中に流し込んだ。

「あんたは部活やってないからのんびり出来ていいよね。今日も寮に直帰?」
「うん、直帰。眠いから帰ってお昼寝してから食堂行く」
「わぁ、ほんとまったりしてんねぇ」

友人の声に、私は眉を垂らして笑うしかない。
部活動が盛んな箱根学園では、部活に所属していない生徒は少数派である。「なんで部活に入らないのか」と聞かれることも度々あるのだ。

「のんびりまったりが私には一番合ってるのー。ほらほら、今日ミーティングでしょ?早く行かないと先輩に怒られちゃうよ」

私がそう友人を促すと、彼女は時計を見て慌てる。彼女の足の速さなら間に合うだろうけど、と思いながらもそれは言わない。ぱたぱたと手を振って駆けていく友人を見送ってから、私は天井を見上げた。
さっきから聞こえる音色は、まだ続いている。

(音楽室かな、この音)

この音色は、間違いなくピアノの音だ。となると上の階にある音楽室から聞こえてくるのだろう。
合唱部の伴奏のようにも聞こえるけれど、歌声は一切聞こえてこないのはおかしい。それに合唱部の友人は、今日は部活が無いとか言っていたような気がする。

(気になる、な)

天井を凝視して、もう一度耳を澄ませる。綺麗な音色だけどもう眠くはならなくて、ノートと筆記用具をぐちゃぐちゃに詰め込んだカバンを手に取った。
そのまま立ち上がって、教室の後ろのドアからするりと出る。音楽室に近い方の階段を一歩一歩踏みしめて、踊り場でまた音を確認して。
大丈夫、まだ音色は続いている。
心の中でそう言って、もう半分の階段を上りきる。
音楽室の目の前まで辿り着いて窓からそっとピアノの方に目をやる。すると、背の大きな男の子がピアノを弾いていた。
そして、音色がはっきりとした曲となって私の耳の中に入ってきた。
思わず、音楽室のドアを開けた。

「戦場のメリークリスマス」

私が無意識にそう言うと、曲はぴたりと止んだ。
男の子が、こちらを驚いたような顔で見ていた。そして一拍置いて、アワアワとし始める。

「あれ、今日合唱部休みじゃなかったっけ……!?ごめん、ピアノ使っちゃって」

アワアワとする男の子は、なんだか体の大きさと不釣り合いだと思った。椅子に座っているから正確には分からないけど、二メートルはあるんじゃないだろうか。二メートルは言い過ぎかもしれないけど、かなり大きく見える。
そんな男の子が、のんびりまったりしている私の出現によってアワアワしている。なんか、変だ。
つい噴き出してしまうと、男の子はきょとんとした。

「びっくりさせてごめん。なんか綺麗な音色が聞こえてきたから、つられて来ちゃった」

そう言うと、男の子はちょっと目を見開いて、それから笑った。

「そう言われるの嬉しいよ。合唱部の人が来て怒られちゃうのかと思ってたから」
「違うよ、私は帰宅部」
「そっかあ」

男の子は前髪のくるんとしたところを触りながら、私と話す。その顔を正面から見て、私は以前この男の子を見たことがあるのを思い出した。

「そういえば一昨日くらいに、うちのクラスの黒田くんに会いに来てなかった?」

言うと、男の子は首をこくんと振りながら「うん、そうだよ」と返事をした。

「なんだっけ、黒田くんが名前言ってた気がする。アシ……アシなんとかくん」
「葦木場だよ、葦木場拓人」
「アシキバ……どんな漢字書くのか全然分からない」
「なんかねー、くさかんむりにこう……横線がいっぱい」
「分からないよ……タクトって指揮者っぽい名前だね」
「そうかも。指揮しないけど」
「そっかー」

そこで会話が一回途切れる。
するとアシキバくんはもう一度ピアノに向かって座り直して、先ほど弾いていた曲を弾き始めた。
やっぱりやさしい音色だった。私は音楽に詳しくないから、和音がどうとか技法がどうとかは全く分からない。けれど、この曲を初めて聞いた時から胸に響くものがあった。ちょっと言い方は違うかもしれないけど、キャッチーな曲なのかもしれない。
だから私はこうやって、引き寄せられたのかもしれない。

「そろそろ部活だ、行かなきゃ」

四分半ほどの曲を弾き終わると、アシキバくんは立ち上がって言った。そしてアシキバくんが持ち上げたカバンを見て、私は驚く。

「アシキバくん、それスポーツバッグじゃん」
「そだよ?」
「アシキバくん、運動部?」
「うん、そうだよ」
「ちなみに何部?」
「自転車競技部だよ」
「おぉう……」

ピアノで繊細な曲を弾いていたこのアシキバくんが、例年インターハイで優勝しているような強豪部活であるあの自転車競技部に所属しているとは。体格を考えれば当たり前かもしれないのだけれど、プチショック、というやつだ。

「それじゃあまたね」

そう言って手を振るアシキバくん。
そうか、君は自転車競技部だったのか、まぁ似合ってなくもないけれど……。
そんなことをもやもやと頭の中で考えていると、音楽室のドアから消えていこうとしたアシキバくんが何を思い立ったのか踏みとどまり、顔だけをドアから覗かせた。

「忘れてた!」
「え、何を?」

何か忘れ物でもしたのだろうか、ピアノの下辺りを覗き込んでみたけれど特に何もない。
何を、ともう一度聞こうとして顔を上げると、アシキバくんはにこっと笑って私に問いかけた。

「ねぇ、君の名前は?俺しか名乗ってないよ!」

部活行かなきゃだから急いで急いで!と急かされ、私もなんだか焦ってくる。え、えっと、と必要以上に焦ってしまって、なんだかいつもと違う感じがした。

「あ、えっと、みょうじ!みょうじなまえって言うの!」
「オッケー、またねみょうじさん!」

言い終わるか終わらないうちに、アシキバくんはドアからすっと消えていった。
足が長いからたぶん部室まではそんなにかからないだろうなぁとぼんやり思いながら、なんだか疲れたから寮に帰ってさっさと寝よう、と決意した。

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