私は話す。自分が無かったことにしたかった記憶、それでも少しずつ思い出した記憶。
以前は走ることが好きで、大好きで、実力もあって。そして妬まれて、怪我をして、走れなくなって。
こんな話は決して楽しい話ではない。私は何度か口を閉ざしたくなったし、アシキバくんだってもしかしたら何度も耳を塞ぎたくなる瞬間があったかもしれない。けれど、口を閉ざしたくなったはずなのに私の言葉は次々にぽろぽろと溢れ出した。アシキバくんも数回悲しそうに瞼を伏せたが、彼の綺麗なまつ毛がふわりと揺れるだけで私の言葉を遮ることはしなかった。
ほとんど息も吸わずに話し切ると、酸欠に近い状態になっているのか頭が痛くなる。それを治すように大きく息を吸って、そして吐く。変に胸式呼吸になる。アシキバくんはその動きさえも黙って見ていた。

「……これが、私の挫折」

念押しするように言う。椅子に座っているアシキバくんは背を曲げていて、珍しく私より視界が下にある。私はアシキバくんの頭のてっぺんを見ることができて、なんだか妙な気分になった。
アシキバくんは伏せがちだった視線を私と合わせる。
いつもピアノから少し離れたところから、私はアシキバくんの演奏を聴いていた。だからこんな近くでアシキバくんと目が合うのは初めてじゃないだろうか。
アシキバくんは深い青色の目をしていた。ずっと前から深い青色の目だったはずなのに、今になって、それに気付いた。

「……みょうじさん」
「うん」
「なんだか、信じられないや」
「私もね、信じられないよ」

困惑したような声を出すアシキバくんに、そう答える。
アシキバくんがすっかり素直に私の話を信じられないのも、とても分かる。今までアシキバくんに見せていた私はのんびり屋で、ゆっくりとした音楽を好んで、青信号が点滅していたって駆け抜けたりしないような、そんな私だったから。アシキバくんのように、私だって未だに信じ難くて、よく分からなくなったりする。
けれどあの浮遊感は確かに記憶の奥底にあって、インターネットには私の栄光が未だに残っている。それらが私に「思い出せ」と叫ぶのだ。思い出さなくなって問題はないけれど、「思い出せ」と叫ぶのだ。この叫びを私は疑えない。

「でも、オレ、みょうじさんが嘘言ってるとは思わないよ。すごくすごく大事な話をしてくれたんだと思う」

アシキバくんは真っ直ぐ私を見る。
すっかり素直に信じてくれなくても、私の話を決して否定せずに受け止めてくれる。今はそれだけで充分だ。
ありがとう、とお返しのように私もアシキバくんの目を真っ直ぐ見る。普段なら照れて出来ないようなことだけれど、今はすんなりと出来た。なんでかは分からない。

「それでさ、思ったこと、言っていい?」

アシキバくんは真剣な目をしたまま私に問う。
何を言われるんだろう、と5ミリくらい心臓が跳ねた気がしたが、いいよ、と答える。

「聞きながらね、思ってたんだ」
「うん」
「なんでこんな話してくれるんだろって」

鍵盤の上では上手く動かないアシキバくんの手が、私の手をそっと掴む。私の片手が、彼の大きな両手で包まれる。頼りなさげに長い指だった。頼りなさげなくせに、暖かい。

「もしかしたら、オレとなら乗り越えられるんじゃないかって思ってくれてるのかなって」

自惚れかもしれないけど、と続ける声は、優しい声だった。
低音で旋律を奏でた時のような、そんな音程。耳触りがよくて、心地良くて。そんな音程。
包まれた右手に力を入れて、空いている左手でアシキバくんの両手に手を添える。ぎゅう、と握りしめる。汗ばんでくるほど暖かくて、その暖かさに背中を押されて私は私の中の浮遊感や栄光のように、叫ぶ。

「自惚れじゃ、ないよ!」

自分で想像していたよりも大きな声が出た。
中学三年以来初めて、こんな大声を出したんじゃないかと思うほどの声だった。
その声を正面から受けたアシキバくんはびっくりしたようで目をぱちくりと開けて、数秒後に顔を綻ばせた。
久しぶりに出した大声に任せて、私は更に頭の中にあった全くまとまりのない文章を口にする。

「なんだか分かんないけど、アシキバくんとなら何とかなるかもって思うんだよ。アシキバくんといたときに記憶がほんの少し戻ったのも、運命かもって思うんだよ」

大声を出す私は、まるで私じゃないみたいだった。
けれど、いつかの私のような気もした。

「それにアシキバくんのことも何とかしたいって思うの、いつものピアノの音が無いと物足りないし、走ってるとこだって見てみたい。アシキバくんが元気無いの、寂しいんだよ」

急にべらべらと話し出す私は、私自身ちょっぴり変だなと思う。
途中、引かれていないかなと不安になってアシキバくんの表情を確認した。アシキバくんはうんうんと真剣に私の話を聞いていて、そうだ、彼はこんなことで引いたりするような人ではなかったな、と思い出した。
言いたいことを言って頭の中が空っぽになると、私は反射的にアシキバくんの手をこじ開ける。彼の右手を私の右手が掴む。アシキバくんがまた驚いたような顔をしたが、反抗したりはしなかった。
二人分の右手を、すべすべとした鍵盤の上に乗せる。アシキバくんの大きな手に私の手を重ねると、面積の差を思い知らされる。けれど今、右手の主導権は私にあった。
小学生の時に習った指の動きを必死に思い出して、私は指を動かす。すると私の指の下にあるアシキバくんの指も一緒に動く。それに応えるように鍵盤が沈み、音が鳴る。
ひどく単純なメロディが響いた。小さな頃から誰もが聞くメロディで、私が弾ける唯一の曲。左手の動きなんて知らない、更に言うと単純なはずなのに右手の動きもたまに間違える。

「……きらきら星」

アシキバくんは呟いた。
なんでも弾けるアシキバくんにとって、初歩の初歩すぎる曲だろう。
でもなんにも弾けなくなっている今のアシキバくんにとって、この曲がなにかのきっかけになってくれるんじゃないかと、私は期待している。
何度もミスをするけど。テンポなんてひどいけど。黒い鍵盤の意味なんて知らないけど。

「アシキバくん」
「……弾けてる」
「ふたりなら、弾けるんだよ!」

メロディが終わっても、アシキバくんの手に私の手は重なったままだった。

「ふたりなら、」

アシキバくんも、私と同じように話す。
重ねられた手をずっと見ながら、話す。

「なんとか、なるかな」

か細いけれどしっかりした声に、私はこくりと頷いた。
きっと、なるよ。そう返事をする。
アシキバくんは右手をくるりと裏返して、私の指と絡ませる。簡単にはほどけない、手の繋ぎ方だ。お互いの歩幅が違っても、どんなに腕を振りながら歩いても、簡単に振りほどかれたりしないような、そんな繋ぎ方だった。右手同士だから少し歪だけれど、私とアシキバくんはお互いの手をぐっと握った。

「いっしょに、乗り越えてくれる?」

勿論だよと答えると、アシキバくんは嬉しそうに目を細めた。

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