午後7時丁度、滅多に鳴らないインターホンが鳴った。
宅配便か何かが届いたのだろうか。しかし最近はネットで買い物もしていなかった気がする。じゃあ大学の友人だろうかと考えて、そもそも家を教えている友人も片手で数えるほどしかいないと気付く。
鍋にかけている火を止めて、皮を剥きかけのジャガイモを片手に玄関へと向かう。こういう瞬間、インターホンのモニターが付いているもう少し値が張るアパートに住んだ方が良かったなあと後悔する。新聞勧誘や宗教勧誘じゃありませんように、と願いながら、申し訳程度の防犯意識でチェーンを掛けたままドアを開ける。

「…………荒北くん」
「……よお」

がちゃ、と伸びきったチェーンが小さく音を立てる。
宅配便でも友人でも、ましてや勧誘の類でもない。三週間ぶりに顔を合わせた、私の彼氏だった。お付き合いはしているものの彼が自発的に家に来るなんて初めてのことで、私は訝しげな表情を浮かべてしまう。「どうしたの」と聞きながら、悲鳴をあげるチェーンを外した。

「会うの結構久々だよね。……火曜三限、ちゃんと来てる?」
「アー…………アレな。サボってる」

玄関を開け放つと、荒北くんはだるそうな歩みで一歩足を踏み入れる。適当な話題を振ってみると言葉は返ってきたものの、どこかよそよそしい。
なんとなく嫌な予感がして、私は無理に笑ってどうでも良い話題を続ける。客人用のスリッパを出して、彼の前に差し出す。

「あの授業、来週出席あるって。来週はサボらず来なよ」
「ン。…………スリッパいらねェ」
「え、スリッパ履かない派?」

前に一度、家に荒北くんを連れてきたことがある。その時彼はスリッパを何の抵抗もなく履いたから、そんなはずはないことは分かっていた。
けれど私はおどけてみせる。この先に言われるであろうことが分かっているのに、どうにもそれを言われたくなくて、問題を先延ばしにしていた。
左手に掴んだままのジャガイモがぬるくなって、手がべたべたしてくる。不快感を感じながらも、私は微妙な笑顔を浮かべておどけたままでいる。

「玄関でできる話だから」

一歩だけ踏み込み、それ以上私のテリトリーに入ってこない荒北くん。そんな彼がそうぽつりと言ったから、私は全てを察した。察しないことを許されなかった。

「あ…………、そう?」
「ン」
「そ……っか、そっか」

空いた右手で頭を掻く。荒北くんと目が合わせられなかった。そういえば荒北くんも、今日まだ私と目を合わせていなかった。
目も合わせられないなら、面と向かって言いに来なきゃよかったのに。そう思ってしまう自分がいた。
荒北くんと私は二人して妙な相槌を打って、沈黙を埋めようとする。
荒北くんが言おうとしていることは分かる。そして私がそれを分かっているのも、荒北くんは分かっていると思う。
それなのに荒北くんは本題をなかなか言おうとしない。踏ん切りがつかないのか、言い出す勇気がないのか、悪者になりたくないのか。
次第に適当な相槌のボキャブラリーも無くなって、埋めたい沈黙を埋められなくなる。曖昧な笑顔をずっと浮かべているのも苦しくなって、ついには私が口火を切ってしまった。

「…………別れ話?」

苦しいけれど曖昧な笑顔のまま、そう言う。
荒北くんが静かに頷いた瞬間、どうにも耐えきれなくなって口角が下がっていくのを感じた。
やっぱりなあ、と思う。普段と様子が違うから、おかしいとは思っていた。どうせ別れ話だろうと思っていた。玄関から進まない時点で確定していた。このルートしかあり得なかった。
荒北くんは漸く声を出す。目は私の足元ばかり見ていた。

「部活に集中したいっつーか……だから会ったり遊んだりしてやれねェし、みょうじにはもっと良い人いると思う」
「…………そっか」
「わりィけど、そういう事だから……」

語尾が消え入りそうな声だった。荒北くんってこんな声出すんだ、と初めて思った。私は彼の言葉にまた適当な相槌を打つしか出来ずにいた。どんなに縋ったところで荒北くんは私の意見を聞き入れてくれない気がした。

「わかったよ」

ぽつりとそう言うと、荒北くんは顔を上げた。そして私の顔を見た。
どうしてこのタイミングでやっと顔を上げるんだ。どうして私が別れを受け入れた瞬間、救われたような顔をするんだ。彼の表情を見ると何故だか悔しくなってきて、不意に口汚く罵りたくもなる。けれどそれをしてはいけない。ぎゅっと拳を握りしめて耐える。さっきから私、耐えてばかりだ。

「じゃあ、そういう事だから」

荒北くん、何回そういう事って言うんだ。
荒北くんの言うそういう事って、何なんだ。
そういう事を、私は受け入れるしか道がないのは何故なんだ。
それらを全て飲み込んで、私は口を閉じる。それを肯定を受け取ったらしい荒北くんは、静かに玄関のドアを開けて私の部屋を後にした。
出したままのスリッパだけが残る。初めて荒北くんが家に来る前の日、慌てて買ってきたスリッパ。青色で、私のものと対になっている。そっとそれを掴んで、靴箱に押し込んだ。

「そういう事って、どういう事だよ」

言いたかった言葉が、自然と漏れ出た。
聞きたかったことが、頭の中で繰り返された。
荒北くんは私と付き合ってるときも、今までずっと部活に集中していた。会うのだって授業が重なっているときくらいで、デートなんて月に一回あるか無いかくらいだった。私にもっと良い人がいるだなんて、穏便に別れたいときに使う常套句だ。
ーー色々言い訳をしていたけれど、結局のところ、私と恋愛するのに飽きてしまっただけなんでしょう。
そう私の中で結論付けると、異様に腹が立ってきて、異様に悲しくなった。別れるときも良い格好したいのか、何なんだ荒北くんは、と声を荒げたくなった。
そうしてほぼ無意識のうちに、薄っぺらいサンダルを履いて、ドアを開けて、荒北くんの後を追った。

アパートの階段を駆け下りて走ると、遠くに背を丸めて歩く荒北くんの姿が見えた。日が暮れかけていたからか、あんな話をした後だからか、それを見ていると妙に泣きたくなった。
私は立ち止まって大きく息を吸う。そして吐いて、もう一度吸う。
そして、言葉と共に吐く。

「荒北くん!!」

思いの外大きな声が出る。荒北くんは足を止めて、私を振り返る。驚いた表情をしていて、それだけで少し「してやったり」という気分になる。
けれどそれだけで私のもやもやとした気分が晴れるわけも無い。荒北くんには沢山言いたいことがあるのだ。沢山聞きたいこともあるのだ。でもそれを全て言葉にすると、絶対に自分を嫌いになってしまう。だから私は別の方法を取ることを決めた。
左手を握りしめる。ぐ、と指に力が入る。大きく振りかぶって、投げる。
私がずっと握っていたジャガイモは綺麗な放物線を描いた。鋭い速さで、荒北くんの膝にぶち当たる。
ころん、と地面に落ちたジャガイモを見て、荒北くんは目を見開いた。私は最後の最後に報いてやった気分になって、やっと胸の内がスカッとした気分になった。

「ばかやろー!!」

荒北くんに叫ぶ。
ジャガイモと私を交互に見た荒北くんは、私の突飛な行動と突飛な発言に気圧されたように呆然としたあと、吹き出して笑った。

「バカなのはおめーだろ!!」

私と同じ声量でそう叫んだ彼を見て、あぁ、いつもの荒北くんだ、と思った。
そうだ、荒北くんはそのくらい言い訳もせずに自分勝手に見える方が良い。そんな荒北くんだから付き合っていたのだ。
そんな荒北くんを見れたのが嬉しくて、別れたという事実は悲しくて。荒北くんにつられて笑いながらも、涙が少しだけ、流れた。

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