何をやっても駄目な日とか、嫌な事が続く日とかは誰にだってあると思う。今日は偶然そんな日だっただけだ、私が駄目な人間だとかそういうわけじゃないんだ。そう思いながら雨で濡れた地面にぶちまけてしまったノートや教科書類を拾い上げると、何故だかじわりと涙が滲んでしまった。
数学の時間に当てられた問題が答えられず恥をかいたり、貸したCDのケースにヒビが入って返ってきたり、ちょっとした陰口を聞いてしまったり、そしてどろどろになった地面に教科書をぶちまけてしまったり。一つ一つは大したことなくても重なると心が折れてしまうような出来事が、今日に限って重なってしまった。
泣くほどのことじゃないのは分かっている。小学生じゃないんだから、こんな事で泣くなんて情けない。でもそれ以上に嫌な事が続きまくる自分が情けない。情けなさは後者の方が勝ってしまって、目頭になんとか留まっていた涙がぽろ、と流れ落ちてしまった。
嗚咽が出るほどではなかったので、口を一文字に結んでこらえる。教科書やノートを拾い上げて叩いてみると、土がぱらぱらと落ちた。けれど大部分は水を吸っている所為で、教科書は不快な土色に染まってしまっていた。タオルで拭けばなんとかなるだろうかと考えてはみたけど、あまり良い想像はできなかった。あーあ、とため息をついてみせるとより一層自分が不甲斐ない人間のように思えてきて、ひたすらに悲しくなる。
とりあえず教科書類を整理しようと、帰路に着こうとしていた足を戻して屋根のある靴箱までとんぼ返りをした。夜遅くならないと電気の点かない靴箱エリアは、悪天候のため薄暗くてじめじめしている。ほとんどの生徒は帰宅してしまったのか、誰の姿も認めることは出来なかった。普段は大して気にしないのに、今日ばかりは「私、トロいんだなぁ……」とまた気分が落ち込んでしまった。
カバンの中からハンドタオルを取り出して、泥のついた教科書をぽんぽんと撫でてみる。汚れ具合は変わらなかった。

「…………はぁ、今日は駄目だなあ」

眉を垂らして苦笑いをしてみたが、多少笑顔を作ってみたところで何にも事態は好転しない。ただただ今日はついていない日なのだと神様から宣告されたようだった。
靴箱に背を預けて、お尻を床に付けて座り込む。ここで座ると少しはしたないかもしれないけど、もうどうにでもなれ、と思ってしまう。どうせ誰もいないんだ、私がどうなっても良いじゃないか。珍しく自暴自棄になったのが自分でもなんだか意外で、いつもと違う私の発見だなあと濡れそぼったローファーの爪先を見つめながら思った。



「風邪ひくぞ。そんなとこいたら」

その低い声が降ってきたのは、座り込んで数分ほど経ったときだった。聞き覚えはあるが誰のだかは分からない声に顔を上げると、いつも教室で見かける姿がそこにあった。確か、名前は。

「……銅橋くん」

クラス名簿をなんとか思い出しながら声を絞り出すと正解だったらしく、彼は小さくおう、と返事をした。
銅橋くんは教室で見た通り凶暴そうな顔の作りをしていて、荒れた感じの髪型をしていて、シェパードと闘ったら勝てそうなガタイをしていた。でも、「風邪ひくぞ」と言ってきた声音はそれらに似合わず案外丁寧だった。
銅橋くんは私に声をかけた後、自分の靴箱から速く走れそうな靴を出して上履きから履き替える。そして外に出ようと出入口の方に向き直り、はた、と動きを止めた。

「まだ降ってんのか」

小雨になりつつある空を見上げて、言う。その声に反応して私も同じように空を見上げる。先ほどカバンの中身をぶちまけた時よりか幾分かましになっていたので、じゃああの時急いで帰ろうとして教科書をどろどろにしたことに意味なんか無かったのだとまた自分を情けなく思うしかなくなった。

「止んだかと思ったんだけどよ」
「ん……でもさっきより雨足弱くなったよ」
「へー」

銅橋くんは私の言葉に曖昧に頷いて、体は外に向けたまま、顔だけ靴箱にもたれる私の方を見た。

「みょうじさん帰らねえのか。傘忘れた訳じゃねえんだろ」

私の片手に握られた傘を指差して、銅橋くんは言う。
銅橋くんて、女子をさん付けで呼ぶのか。あまり彼を知らないくせに野蛮なイメージを持っていたので、話したことない相手でも苗字の呼び捨てで呼んでしまうのだと思っていた。銅橋くんは私の思うより、悪い人ではないのかもしれない。
そこに正直驚いてしまって反応が遅れた。「あ、えっと」と咄嗟に返事をして、その辺に置いていたどろどろの教科書をカバンの中に仕舞い込む。帰るよ、と言いながら立ち上がり埃を払って、とりあえず出入口の真ん前にいる銅橋くんの隣に立った。いざ隣に立つと分かるのだが銅橋くんはやっぱり想像していた通り立派なガタイをお持ちなようで、私よりふた回り、いやそれ以上デカいんじゃないかと思わされる。だがここでガタイに興味を示してもたもたしても仕方ないので、傘を広げようとボタンに手をかけた。

「なあ」

そんな手を、銅橋くんの声が制止する。いや、実際には銅橋くんは私を制止しようとして声をかけてきたのではない。けれど私は彼の声にびっくりしてしまって、ボタンを押そうとしていた指がぴたりと止まってしまったのだった。
銅橋くんの顔を見上げてみると、彼は彼でいかつい顔つきのまま、でもいかつい表情はせずに私の方を見下ろしていた。

「なんかやな事でもあったか?」
「え」
「いや、違うなら気にすんな」

ただの勘だ、と銅橋くんは言う。私は銅橋くんの目を見つめて、しばらく瞬きをすることしかできなかった。
ただの勘であろうと無かろうと、私の心中を言い当てたのは銅橋くんが初めてだ。分かってもらえたのが嬉しくて、でも言い当てられたことで悲しみを思い出して心臓がきゅっと縮んで。どんな表情をしたらいいか咄嗟に判断出来ずに彼を見ていた。

「…………なんでそんな見んだよ」
「あ、ごめん。なんというか……図星で」

見つめられて困惑した銅橋くんが眉間に皺を寄せたので、私はどんな顔をしていいかわからないまま返事をする。
濡れたローファーが付け続けている足跡が、今の私の心を表しているような気がした。

「いろいろあって。全部、他の人からしたらくだらないことなんだけど」

数学の答えも割れたCDケースもちょっとした陰口もどろどろになった教科書だって、どれもどれも小さなことだ。個々で攻めてきたら「まじかぁ」と一言で収めてしまえるような、そんな程度のもの。きっと友達に報告したら、呆れられてしまうくらい。今日はそれらが一気に襲ってきただけで、泣くほどのことではないはずだ。
私がちょっと落ち込みやすいだけで、大したことではないんだよ。そう銅橋くんに告げると、銅橋くんは今日初めて私に向かって眉を吊り上げてみせた。そしてドスの効いた声で言うのだ。

「くだらないかどうかはみょうじさんが決めろよ」

さっきまでは見つめられてバツが悪そうにしていた銅橋くんが、今度は私の目を見てしっかりとそう言った。大きく口を開けて、大きな声で。
周りに人がいたなら誰かがこちらを振り返ってきそうなもんだったけれど、ここには銅橋くんと私とまだ降り続いている雨くらいしか存在していなかった。

「みょうじさんにとっちゃ、くだらないって片付けようとしても片付けらんねえことなんだろ」

私は今まで銅橋くんのことを勘違いしていたのかもしれない、と思う。私の中の銅橋くんのイメージは荒くて、獰猛で、なんだか怖い人だと認識していた。
でもきっと、銅橋くんはそれだけの人間ではないんだろう。ほとんど話したことがないクラスメイトを気にかけて、心情を見破って、おまけに一番ほしい言葉をくれるのだ。
自分を肯定してもらえた気がして、それが一番涙腺を緩ませる。私はきっと認められることに弱いのだ。
目の端に浮かぶ涙に気付いたのか、銅橋くんはそれを見ないように目を逸らした。そしてごつごつした手を私の頭の上に乗せる。撫でたり、ぽんぽんと軽く叩いたりしないところが今の私には有難かった。

「やさしいね、銅橋くん」

言うと、銅橋くんはやはり私を見ずにそっぽを向いた。べつに、と無愛想な台詞を言ったけど、怖さは微塵も無かった。

「…………泣くなよ。泣いてる女の慰め方なんて知らねえんだから」

銅橋くんは外を見ていたので、私も同じように外を見る。まだ雨は降っていたし、足元のローファーだって冷たいままだ。
だけどそれでも、今だけはいいか、と思えた。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -