これの続き


ロードバイクなら二時間ほど走れば着く距離だと知ってから、行動を起こすまでは早かった。
つい一ヶ月前に転校してゆくみょうじを見送った俺は、純太にもみょうじの友人にも心配されてしまうほど無口と無表情に拍車がかかっていたらしい。自分では無口になりたくてなったわけでも、無表情になりたくてなったわけでもない。ただただ溢れそうになる涙をこらえていただけだったのだが、それが表情や言葉に多大な影響を与えていたようだった。「みょうじの転校直後のお前、すごい声掛けにくかったんだからな」と後になって純太が苦笑いをしつつそんな風に言ってくるほどだったと説明すれば、わかりやすいと思う。そんな俺を見かねてかみょうじとメールのやり取りをしている女子が会いに行けば、と俺にみょうじの住所を教えてくれた。地獄に仏とはまさにこの事。ほとんど喋った事のないその女子に俺は足を向けて眠らない事に決めた。そしてその住所を基にルートを確認すると、ロードバイクなら二時間ほどで到着することを知った。そしてその次の週末、つまり今、俺はペダルを踏んでいる。

「…………あと30分くらいか」

携帯で自分の辿ってきたルートを確認しつつ、ぼそりと呟く。もう少し走ればみょうじの暮らす町に着くのかと思うと、なんだか心臓が早鐘のように動き出す。心臓に手を当てて普段の速さと比べてみると驚くほどいつもの速さと違ったので、自分で自分に笑ってしまった。
今走っている山を下ってしまえば、みょうじの町。
そう思いながら下に広がる町並みを一旦停まって見下ろす。きっと俺の住んでいる町と大差はないのだろうけど、好きな人が住んでいる町だと思うと途端にきらきらして見えるのはどうしてだろう。発展した都会でもない、のどかな田舎でもない。見下ろしただけでは何の特徴もわからないけど、なぜだか特別に見えるのだ。



俺がみょうじの住む町に行くと言うと、みょうじの友人はやっぱりねと言いたげな顔をして「じゃあ、みょうじちゃんにメールで言っとくね。みょうじちゃんとこの駅に集合で良いでしょ?」と待ち合わせ場所を指定されたことを思い出す。
無事に山を下り町へと着くと、わりかし簡単に駅を見つけることができた。けれど駅前にみょうじはおらず、きょろきょろと駅前周辺を見回してみるがなかなかそれらしい姿は見当たらない。おかしいな、到着予定時間は告げたはずだし、だいたいその時間に着いたのに。
まさかみょうじが来る途中に事故にあって……等、嫌な予想が頭の中で浮かんでは消し、浮かんでは消す。折角一ヶ月ぶりに会いに来たのに、そんな悪いイメージばかりするのはよくない。しかしみょうじのメールアドレスや電話番号も知らないので、直接連絡を取ることもできない。……そういえば、住所を教えてもらうより先にアドレスを友人経由で教えてもらえば良かったのではないかとふと思った。今思っても仕方ない。
はぁぁ、と息を吐くと、駅の改札近くからこちらに向かってくる足音が一つあった。気にも留めずにぼんやりとしていると、その足音はぴたりと止まって、ついでに小銭の音やペットボトルが落ちる音がする。自販機で何か買っているな、くらいに思っていると、不意に声がした。

「……あれ、青八木くん!?」

紛れも無いみょうじの声。
弾かれたように振り返ると、ペットボトルを片手に、そして淡い色のワンピースとカーディガンを着たみょうじがそこには立っていた。

「…………みょうじ」
「青八木くん、そっか、自転車で来たんだ……!ごめんね、てっきり電車で来ると思ってて改札前にずっといたの」

喉渇いちゃって、なかなか来ないからその間に飲み物買おうと思って、とちょっぴり申し訳なさそうなみょうじは言う。俺はそんなみょうじとは正反対で、ぽつんと名前だけを声に出した。
あぁ、目の前にみょうじがいる。それだけでさっきまでとは比べものにならないほど満ち足りた気分になるのだから、好きな人の力って、すごいと思う。男子高校生なのだからこんな公共の場で昂ぶってぽろぽろ涙を零したりはしないけれど、目に涙の膜が張ってしまいそうになるくらいには、高揚してしまう。

「みょうじ」
「どうしたの、青八木くん」
「…………会いたかった」

普段の自分では、たぶん絶対に言わないであろう言葉が口をついて出た。言おうと思って出た言葉ではなく、完全に無意識のうちに出してしまった声だったので、自分のことなのにひどく驚いてしまった。みょうじも一瞬とても驚いた顔をしたけれど、すぐに頬を染めながらふにゃりと笑った。

「ありがとう。私も会えて嬉しいよ」
「それは、良かった」

その笑顔に毒されそうになる。なんとか理性を保って返事をしたけれど、声が上ずっていないだろうか。自分ではよく分からない。
みょうじと一緒に、駅前にあるベンチに腰を掛ける。ロードバイクを立てかけると、みょうじは「綺麗な自転車だね」と言ってくれた。きっと、こういうところが好きになるきっかけだった。
みょうじは相当喉が渇いていたのかペットボトルの蓋を開けて、ごくごくと半分くらいを飲み干す。いい飲みっぷり。くるくると細い指を回しながら蓋を閉めるのを眺めていたら、ふとあることを思いついた。

「なぁ、みょうじ」
「なあに、青八木くん」

俺に顔を向けるみょうじはまるでこの世の汚れなんて知らないで生きてきた、とでも言いたげな造形をしていた。そんな純朴そうな顔をしている彼女にこんな事を言っていいものか、と少し迷ったけれど、今日はいつもの日常じゃなくて特別な日なんだと言い聞かせる。特別な日だから、多少いつもの自分らしくなくなって、欲望に忠実に生きてみたい。
心の中でそう暗唱して、俺は迷っていた言葉を口にした。

「俺、ロードで来たから喉渇いてて……それ、もらえると嬉しい」

さっきみょうじが口を付けたペットボトルを指差しながら、なんとか吃らずに言えた。本当は、水分補給を充分しつつ来たから喉はそれほど渇いていない。渇いていたとしてもまだボトルにスポドリが残っているので、それを飲めば良い話だ。でも、だからといってそうしたいわけじゃない。俺は男子高校生で、恋もしているわけで、今隣にいるのは意中の人だ。そしたらそれなりの欲だって出てくるし、それを無視し続けるのはもやもや、する。
そんな俺の不埒な考えを知らないみょうじは何の躊躇もなくペットボトルを差し出してきた。「ごめんね、気づかなくて」と謝罪まで添えて。本当は謝罪すべきは邪な考えを持つ俺の方なのだろうけど、と思う。震えそうになる手をなんとか落ち着かせて蓋を開けて、飲み口に口を付ける。喉に流れてきたのは爽やかなオレンジジュースだった。ファーストキスはレモンの味とかよく言うし、ファースト間接キスはオレンジの味が定番だったりするのだろうか。いや、確か初めての間接キスは見送りの時だった。あのときは味なんて感じている余裕が無かったけれど。



みょうじと過ごす時間はあっという間で、気付いたらそろそろ帰らなければいけない時間になっていた。

「今日は会いに来てくれてありがとう。すごく楽しかったよ」
「うん、俺も」

相槌を打ちながら、ひたすらに名残惜しい、と思う。今日が終われば、俺もみょうじもこの一ヶ月間と同じような生活に戻る。いつもと同じような、楽しくて、大変で、嫌な事もあって、幸せなこともある生活。けれど俺には、大事なものがひとつ足りない生活。
みょうじの姿を見て、思う。
とびきり美人ではないけれど、やさしげな瞳をしていて、綺麗な指をしていて、誰からも好かれそうな。だから、誰かに掻っ攫われてしまわないだろうか。俺の知らない間に、俺の知らないところで、誰かと幸せになってしまわないだろうか。そう思うと気が気ではなくて、俺はキッと彼女の目を見据えた。

「どうしたの?」

みょうじは不思議そうにこちらを見つめてくる。その表情があまりにも俺の心臓を締め付けてしまうものだから、俺は最後の最後に、今日一番の欲望に負けてしまう。
みょうじの左手をぎゅっと掴んで、顔の前に持ってくる。そこから薬指を選んで、迷わず自分の唇を押し当てた。
彼女は怒るだろうかと顔を見ると、眉を垂らしてひどく顔を赤くさせていた。それが更に俺を、煽る。

「あ、あおや、ぎ、くん」

動揺しつつ俺の名前を呼ぶ。それに被せるように、俺は言う。

「みょうじ、……結婚、してください」

流れに身を任せてそう言った後、ぱちん、と何かが弾けた気がした。
そして急に今までの欲望が収束し始めて、代わりに羞恥が身体の中を駆け巡る。
俺は何を口走ってしまったんだろう。ただの元クラスメイトというだけで、それ以上の要素はどこにもない間柄なのに。彼氏彼女でもないというのに。というか告白だってしていないのに。そういえばそもそもに間接キスもどうして欲望に負けてしまったんだ、ただただ気持ち悪い人間じゃないか。根本的な話から言えば転校先まで会いに来るやつってどうなんだ、結構恐怖じゃないか?だめだ恥ずかしい、死んでしまいたい、恥ずか死ぬ。

「悪い、なんでもない!」

ここ一番の大声を出して、ロードバイクに乗ってペダルを踏み込みかける。爆弾発言をして逃亡を図るこんな人間に笑顔を向けながらみょうじがオーケーサインを出すまで、あと二秒。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -