箱根学園の正門を出て、すぐ右に曲がり五分ほど自転車を走らせる。
すると見えてくるのが、素朴な雰囲気を漂わせている果物屋。店自体はこじんまりとしているが、果物たちは所狭しと並べられていて品種もなかなか豊富である。店を営んでいるおばさんも人当たりの良い人で、俺においしいりんごの見分け方を教えてくれたりちょっとだけおまけをしてくれたりする。その果物屋にいるのは心地良いし、何より無性にりんごが食べたくなるときが度々あるので、俺は週に一度ほどその果物屋に足を踏み入れる。
そして今日も今日とて、件の果物屋に行くためにペダルを踏んだ。
果物屋に着いたのは練習が終わってからなので午後六時頃、客足が少ない時間帯だ。店や通行人の邪魔にならないような場所に自転車を置き、店の奥にいる人影にこんばんは、と声をかける。
すると「はあい、いらっしゃいませ」といつものように返事がある。だがその声はいつも店番をしているおばさんの声よりも高い、若者の声だった。
その声の主がぱたぱたとこちらへ向かってくる間に、俺は店頭にあったりんごを二つ手に取って、ポケットから財布を取り出す。そして、並べられた果物たちの中からひょっこりと現れた声の主はもう一度「いらっしゃいませ」と言い、俺を見て一瞬目をぱちくりさせた。恐らく、男子高校生が果物屋に来ているのが珍しいのだろう。しかし声の主も、高校生くらいの可愛らしい女子だった。
彼女は俺の手からりんごを二つ受け取り、流れるように袋の中へ入れてまた俺へ手渡した。そして「298円です」とにこやかに告げる。その言い方が安心感を与えるようなものだったので、天性の接客才能があるのだろう。
俺は財布から300円を取り出しつつ、彼女に声をかけた。いつもは店員に自分から声をかけることはないのだが、今日は何故か「少し話をしたい」と感じたのだ。

「いつもは、40代くらいの女性が店番をしていたと思うんだが」

そう聞くと、彼女は300円を受け取りながら、母のこと?と返した。

「つい三日前にぎっくり腰になっちゃって、治るまで私が店番することになったの」
「そうなのか。それは大変だな」

眉根を寄せながらそう返すと、彼女はえへへと困ったように微笑んだ。
そしてお釣りを丁寧に俺の手のひらに置く。一円玉二枚を財布の中に流し込んで、ポケットにねじ込んだ。

「母のことを知ってるってことは、もしかしてよく来店してくれてる?」

同じくらいの年だからか徐々に砕けてきた口調に、全く嫌な感じはしなかった。透き通ったその声はなんとなくりんごの仄かな甘い香りに似ていて、むしろ好感が持てる。

「だいたい週に一度ほど来ている」
「結構来てくれてるんだね、ありがとう」

これからもご贔屓に、と彼女は笑う。ふとした時にも商売根性を忘れない姿勢は、さすが商店の娘である。
そして、あ、と何か思い出したような声を上げて一瞬店の奥に引っ込んだ。どうかしたのだろうかと様子を見ていると、すぐに奥からひょこっと出てくる。その手には、何かが乗った小皿を携えて。

「常連さんに、ちょこっとおまけ。うさぎりんごを一つあげましょう」

ふわり、と彼女の声のような甘い香りがして、小皿をつい覗き込む。そこには熟れたりんごが、可愛らしいうさぎの形に切られて置かれてあった。

「良いのか、これは」
「うん、皮に傷があって売れないものだし。あ、でも甘くて美味しいよ!さっきまでお店暇だったから、つまんでたの」

他の人には内緒だよ、と彼女は言った。それは、なんだか可愛いなと思わせてしまうような姿だった。頷きながらうさぎりんごを手に取り口に放り込むと、りんごの蜜が口の中いっぱいにじゅわぁ、と広がる。あぁ、これはまさしく幸せの味だ。
そう思ったのが顔に出ていたのか、「ほんと美味しそうに食べるね」と彼女は驚嘆した。果物屋にそう言われると、なんだか少し嬉しくなってしまった。
うさぎりんごを食べ終えて、礼を言ってから店の隣の空きスペースに置いていた自転車を手に取る。彼女は丁寧にも俺を見送ってくれた。

「また来てね、次も美味しいりんご入荷しておくから」
「あぁ、楽しみにしている。親御さんにもお大事にと伝えておいてくれ」
「分かった、ありがとう。それじゃあまたね福富くん」

その言葉を聞いてから、俺は自転車に跨ってペダルを踏む。
なんだか今日は心がいつもより晴れやかで、でもなんだか心臓の奥の鼓動が速いような気がした。いつもと同じようにりんごを買っただけなのに、何故だろうか。
学園の寮に着くまで、さっき果物屋で会った彼女の顔をぼんやりと思い出しながら、そんな事を考える。ただそっちばかりに頭を悩ませていた所為か、名前を教えてもいないのに何故彼女が最後に俺の名前を口にしたのかという疑問は、暫く後にならないと浮かんでこなかった。



「最近、なんだか胸が痛い」
「なんだフク、病気なのか」
「いや、病気ではないとは思いたい。だが何故かある人を思い浮かべると胸が痛くなる」
「フク、それは恋というやつだな」
「そうなのか」

東堂と今日の部活メニューを話し終えた後に、最近の不調について話をしてみた。すると東堂はいともあっさりと答えを導き出し、俺はほうほうと相槌を打つだけとなってしまった。

「で、相手は誰なんだ」

フクが恋愛に興味を持つなんてなぁ、と東堂は面白そうに言う。
何組だ、というか何年だ、むしろ学校は同じなのかと割りかし根ほり葉ほり聞いてくるので、東堂にプライバシーという概念はないのかもしれない。

「東堂は知らないと思うが」
「む、俺の情報網を舐めるでないぞフク!俺は学内はおろか学外までファンクラブがあるからな、女子の知り合いは少なくない」
「うむ……じゃあ知っているかもしれないな」

俺は短く息を吐いて、彼女の事を頭に思い描いた。
声は透き通っていて、どことなく甘い香りがして。あと俺より頭一つ分小さな、痩せ型の女子だった。
特徴を羅列していった最後に、こんな感じの女子だ、と告げると、東堂は少し考えてから「……名前は何だ?」と聞いてきた。

「……名前?」
「そうだ、名前だ。そこが分からんとどうにもならん」
「名前は……知らないな」
「なんだと!?」

東堂に指摘されて初めて、俺は彼女の名前を知らなかったことを思い出す。
店員と客という関係なのだから今まで名前で呼ぶことなんて無く、弊害を感じることもなかったのだ。東堂は「好意を持っているなら何故名を知らないのだ!」と喚いている。間柄からして当たり前と言えば当たり前の事だ……と思ってから、ふとあることに気付いた。

「そう言えば東堂」
「どうした、フク」

東堂は頭をぽりぽりと掻きながら返事をする。どうやら名前を知らなかったことにかなり驚いているらしく、そして半ば呆れてもいるらしく、若干ため息のようなものも吐いていた。

「俺は彼女の名前を知らないが、何故か彼女は俺の名前を知っていた」

そう告げると、東堂はしばらく考え込んだあとに、声を出す。

「それなら、箱学の生徒なのではないか?フクは学内では有名だから、フクが知らずとも相手がフクを知っているのは不思議ではない」
「俺は有名なのか」
「そりゃ王者箱学の主将だからな」

自分では分からないのか、と言われたので、分からない、と返す。
実際人間は、知名度が相当高いものじゃない限りは自分が有名人だと認識しないだろう。俺も例外ではない。東堂は例外かもしれないが。
「まぁ、箱学の生徒なら色々と話は早いな」と言いつつ、東堂はカチューシャから一本だけはみ出た前髪を弄った。

「何か他に分かりやすい特徴はないか?」
「分かりやすい……あぁ、そうだ。自転車で五分ほどのところにある果物屋の娘さんだ。そこで知り合ったからな」

言うと、東堂は果物屋の場所を思い出しているのか、ううむと呟きつつ左斜め上を見上げる。そして見事記憶を遡れたのか、あぁ、と合点がいったような声を漏らした。

「もしかして、みょうじ果物店という店か?」

東堂が口にした果物屋の名前を聞いて、そういえばそんな店の名前だったか、と思った。
首を縦に振ると、東堂の顔がぱぁっと明るくなる。
そして「良かったな、フク!」と何の脈絡もなく言うので、俺は首を傾げてしまった。

「その果物屋の娘はみょうじなまえという名だ。この際しっかり覚えておくと良い!」
「なんだ東堂、彼女を知っているのか」
「知っているも何も、みょうじなまえは俺のクラスメイトだからな!」

ははは、と笑いながら自身の教室を指差す東堂の、指の先を見る。
まさか同じ学校だと考えてもいなかったので、こんなに近くにいる存在だったのかと驚いた。確かに指を辿って東堂のクラスの教室の中を覗き込むと、確かに果物屋で見た彼女が、席に座って本を読んでいる。
声をかけてみるか、と聞かれたが、不意に姿が見えたことに対して何故だか胸の動悸が激しくなってしまった気がして、そしてそれを悟られたくなくて首を横に振ってしまった。
そんな俺を見て、東堂は困ったような笑顔を浮かべた。

「フク、チャンスを無駄にするべきじゃないぞ」

そう言ったかと思うと、東堂は「みょうじ!」と彼女の名前をなんてことのないように呼んだ。彼女は本から顔を上げて、何故呼ばれたか全く心当たりがないらしく(当たり前といえば当たり前だ)頭にクエスチョンマークを浮かべている。
東堂がそんな彼女に手を振ると、彼女も小さく手を振った。
俺はその光景をただ見ているだけだったが、東堂に小突かれる。どうやら「みょうじに手くらい振れ」と言いたげだった。
女子に手を振るなんて、東堂や新開はよくしているが俺にとっては慣れない行為なため、あまり進んでやりたいことではなかった。けれどここで好意を抱いている相手に頑なに手を振らないのもおかしいので、少しだけ手を上げて、ゆらゆらと揺らす。
そんな俺に彼女ーーみょうじは気付いたようだった。
驚いたような顔を一瞬して、その後に、この前のような柔らかなりんごのような笑みを浮かべて手を振り返してくれた。その姿を見て、先ほどから速まっていた動悸は更にどくどくと音を立て始める。心なしか、体が暖かくなっていくように感じる。
そして、今まで感じたことのなかった感覚を、覚える。何かが、恋慕の感情が、ぽとん、と心臓の中に落ちる感覚が。

ーーあぁ、やっぱり彼女は可愛らしい。

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