夢見る夢なし吸血鬼 | ナノ




弱点などひとつとて持ち合わせていない。

事実、そう見えた吸血鬼であった。毒や兇器に該当するものがことごとく効力を果たさぬのである。

そんな化け物の性分が真に害悪であればどれほどよかったろう。吸血鬼は――彼は、行動こそ突飛なれど、芯はというとこれこそ害悪と言って差し支えぬ、呆れ返るほど無自覚に善心を持つ者であった。前時代的な一部の人間が吸血鬼をそう呼ぶように、彼を見れば人間こそを悪魔と呼ぶべきではと――とみに癖のある人間とかかずらって疲弊する都度、そんな思いが頭をよぎっては自嘲し、そうすると必ず、疲れたのか大丈夫か、紅茶淹れるか、などと親を妄信する子供がごとく、件の吸血鬼が心からこちらを案ずる顔で近づいて来るのであった。

元々、料理をするのは好きであった。忙殺の身に堕して以降そのような時間はなかなか作れず、料理をする暇はめっきりと減って仕舞った。だが、この吸血鬼が一通りを超えた手腕を持っていることを知らしめられたが為、つい触発され、というよりかは、自分の趣味の腕を超えられた事実が気に食わず、鼻を明かしてやろうと久々に揚げ物を山のように拵えた。しかし彼はといえば、実に裏のない満面の笑みで美味しい旨いお前天才だな、などと繰り返しながらあっという間に平らげた。――完敗だ、認めて以降、彼との共同生活が始まって幾らもしないうちに、交互に料理当番を務める不文律が出来ていた。ことさら食後、帰宅後に彼が淹れてくれる紅茶はどんな茶葉でも馨しく甘露であった。この感想が気に入ったのか、この身体から血を求められた際に幾度と引用されたのは思い返すだに面映ゆい。もう聞き飽きた、と観念の姿勢を見せはしたものの、内情は、泣きたくなるほどの愛おしさを噛み締めていた。――それほど。


それほど、彼のことを愛して仕舞った。


日記をつけるようになった。この時代に紙の、銀の鍵のついた日記帳をわざわざ求めて。予想の通りに彼はこれに興味を示したが、鍵を壊しでもしたら二度と君の紅茶を褒めてやらないし私の血を褒めさせてやらないよ、と言っただけで彼は渋々ながら諦めてくれた。代わりにその日、彼の好むケーキをたっぷり焼いた。彼の紅茶とよく合った。あれ以上の傑作を作ることは、この世界が永遠に続いたとて無理であろう。


――どうして日記なんか書くようになったんだ?
――今があまりに幸せだからね。人生の中で幸福を幸福だと感じることは、意外と難しいものなんだよ。
――……やっぱ俺、読んじゃ駄目?
――自惚れる気はないが、君、私が死んだら泣くだろう? 何なら世界を破壊しかねんとも思うが、まあ先の話であれ私は君より先に死ぬのは決まりきったこと、だから君の為に文字で残しておくんだ。
――……なあやっぱり俺の血を、
――飲まない。世の摂理に反してまで得る幸福など、子供のつく嘘とそう変わらないよ。


したくもなかった未来の話を、二人で真面目に語り合った。それでも彼の淹れた紅茶と自分の焼いたケーキの味をしっかり感じていたのは、絶望的な別れなどそうそうないと高を括っていたゆえだろう。



世界が、舐めるなよ、と笑った気がした。



ある朝、彼は死んだ。起床を促す声がないと訝ってベッドを抜けたところ、窓際に塵が積もり、きらきらと朝陽に銀色を煌めかせながらさらさらと消えてゆく、舞台の大団円に舞う吹雪をも軽々と凌ぐ、それは美しい光景に迎えられた。


――私が死んだら、日記の鍵を壊して読んでいいよ。悲しんでくれると嬉しいし、今の生活を思い出して笑ってくれたらもっと嬉しい。


そんなことを話して間もない朝、絶望的な別れは唐突にやって来た。

日記によると、のちに研究された彼の死の原因は、生まれ持った異様なまでの特性がゆえ、人間が吸血鬼を排斥する力を受けつけぬ代わり、人間が吸血鬼を歓待する力には耐性が著しく低かったのだという。情報として理解するのは未だ難しいし納得もゆかぬ、しかし、感情としてはすぐさま理解も納得もして仕舞った。

日記をしたためねば心が破裂して仕舞いそうな幸福であった。それを共にしていたあの吸血鬼は、まさしく自分にじりじりと毒を盛られていたのだ。料理であり、言葉であり、濃淡ありきの触れ合いであり――この棒切れのような指や身体が、ただただよかれと彼を破顔させて来たものごとすべて、着々と彼を死に近づけていたのだ。


私が、いや、彼が一体、何をした? 理由なくこのような絶望が生まれてなどなるものか!


彼の死からいったい何日出勤を忘れたかは日記にもない。かつての部下達から送られた数え切れぬ連絡にさえ気づかず、彼を自分の手に預けたかつての上司がさすがに重い腰を上げ――灯りのない窓辺の床に座り込んだ儘、ぼさぼさの髪に無精髭、一層に痩せさらばえた垢と体臭を纏う姿を見てすべてを理解したらしい。上司は彼という面倒事を押しつける以外に何の魂胆もなかった為、責める気など失せるほどに消沈の面持ちで、お悔やみ申し上げる、と静かに言った。対し自分はといえば唐突に笑いが込み上げ、けらけらと声を上げていたそうだ。それをもあの男は文句の一つも告げず、初めて首を垂れた。


与えた愛は、痛かったろうか。死に近づいていることをらしからず実に器用に最後まで隠し通したのは、彼なりの愛であったのだろうか。

欺きやがって、化け物風情が。








時は無情にも摂理に従い流れ流るる。ある夜、城の扉が突如と無遠慮に開け放たれたが為に、以前よりずっと脆い身体は簡単に死んだ。これはこちらの世界に生まれて間もなく何百回と体験したことゆえ慣れたものだったが、相対した男は白目を剥いて叫んだ。赤を纏った姿は初対面ながらになかなか美しいと思ったものだ。

大立ち回りののちに城は破壊された。さて次の寄る辺を探さんと考えつつ必要な荷を纏めていたところ――見つけて仕舞った。崩れ落ちた瓦礫が意図的に避けでもしたように、床に綺麗な円を描いたその真ん中に、それはあった。鍵の外れた日記帳。

それ、が何か、誰のものかはとんと心当たりはなかったが、荷作りを放り出して開けばそこには、あまりにも見知っている字体が所狭しと詰め込まれていた。混乱しながらも読み耽る手はいっかな止まらず――徐々に、幸福と喪失の記録が現在の自分の記憶でもあるのだと脳に書き加えられてゆき、それに揺り起こされたか、綴られていないほんの小さな喜怒哀楽までもがぽつぽつと浮かび上がっては心に吸い込まれていった。日記の持ち主が誰であるかは勿論、彼という存在も――陽が昇るまで怒りに煮え滾り哀しみに泣き喚いたり、かの吸血鬼が死んだ時に出来なかっただろう感情の発露を繰り返した。あれだけ彼に言っていた、今の生活を思い出して笑ってくれたら、など到底出来なかった。己の浅さと青さが愚かしい。

自分の、雑に纏めるといわゆる愛というものに殺された彼であったが、やはり害はすべて跳ね除ける体質は間違いなく生まれ持ったもの、何をしても死ねない死にたい殺してくれと嬉々と語った結果、図らずも自分の行いによってあっさり殺された。そして今だが、この身体はあっさり死ぬ。あの彼が望んでいたことを、今は自分の身体が望まずに叶えている。やはり世界はいつもどこでも、過ぎた幸福に容赦がない。日記を読み込んで咀嚼すればますます業腹この上なく――あれが、あの退治人こそが、殺すほどに愛して仕舞った吸血鬼。身体変われど魂は変わらぬ、と数年前にプレイしたゲームで今の自分より少し年上の婦人が語っていた。そうだ、今日のあの男は彼に相違ない。相違あって堪るものか。

今の自分に銀の鍵など壊すどころか触れられすらしない。外してある以上、誰かが見つけて読んだのだ。そして彼をここへおびき出した。あの子供もきっと唆されて城に侵入したのだろう。彼はともかく、子供が易々と開けられるような扉ではない――吸血鬼において、とりわけ人間が囚われている常識や倫理が理解出来ない長命は、興味本位で要らぬ世話を焼く。そうだ、我が祖父のような。


――おかえり!


殺して仕舞った罪を贖うような人間性はもはや持ち合わせていない。憤ろしいのだ。あの善心の具現であった吸血鬼が人間に変わった以上、その性質はより厄介さを増しているだろう。今は望んでおらぬだろう死に、簡単に足を掬われる可能性は低くない。

君が直面するだろう死を、代わりに何千回何万回と肩代わりしてやろうではないか。死にまくっていれば世界もさすがに君に諦めて目こぼしをするはずだ。生かす為なら何だってやってやる。あの世界の自分にあまりにも目映い、分不相応の幸福を与えて死んだ君への手向け、必要とあらばその生命の根幹にさえなってやろう。


――死ぬのってそんなに怖いかねぇ?


怖いはずなどあるものか、彼を想えばほんの少しも!


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