高校を卒業してそこそこの大学へ進学し就職し、何だかんだでひとりきりの儘生きてもう六十になる。元々そのほうが性に合っていたし――そう言い訳をしながら、何年経っただろう。 今年になって還暦となる高校時代の同窓会が開催される。同窓会は好きではない。そう、ずっと好きではなかった。クラスを取り仕切っていた女どもが身勝手に、卒業何周年だから、誰かが結婚したから、子供が生まれたから、――亡くなられたから。何かにつけ理由を見つける手腕は心底お見逸れするが、裏方を任される存在の身にもなってほしい。挙げられた場所の候補を絞るのも確保する連絡も、そもそも出欠の可否を問う数十人への連絡だって、総てが回って来るのだ。今の時代はSNSが普及しているからだいぶ楽が出来る、そう感じ入るのは、昔は一人一人へ返信用の葉書を拵えていた為だ。感覚がすっかり狂って仕舞っている。 姦しいとはよく言ったもの、女は集えば不在の女に悪意に満ちた言葉を吐き散らかしては嗤い狂う。場合によっては本人がいると解っていながらもそんなことをする――これを愚かと言えないのは、自分もそうされたことがあり、そうしたことがあるからだ。 保身と外面の為だけに、生贄とされていた自分に構う女がある日突然姿を消した。 周囲に誰もいないと確認した上でこちらに気を遣うさまが十六の当時、心底憎かった。だからといって、あの女を罵ることが課せられていたわけでもない。それも本人が不在の時になど、まさに自分があの女にされていたこととまるきり同じではないか。 初めて同窓会の葉書に住所や氏名を書いていた時にまず浮かんだのがこれだ――こんな時に、便利なあの女がいれば手伝ってくれるだろうに。 一般的な同窓会とは、近況の報告と過去を懐かしむ為の催しなのだろう。しかし自分達の同窓会には、失踪したあの女について盛り上がることが義務であるかのようになされていた。内容はやはり失踪したその時の凄惨な状況から始まり、当時のあの女がいかに滑稽に立ち回っていたか、いかに便利な存在であったか、そんな女が誰一人知らぬ裏でどんなことをしていたのか、そんな流れで盛り上がる――言葉の危害を目に見えぬ空気に次々と刺しては、快感に嘲笑を繰り返すのだ。自分も倣って、今はいない、余程のことがなければ同窓会にも出席していたはずだった存在を何度も罵った。しかし――自分だけは笑っていないと気づいたのはいつだったか。確実に覚えているのは、同級生達の嘲笑の裏側にあるべきもの、について思い至った時。皆が世帯や子を持ち始めた頃だ。 あの女が優等生を演じていたように、皆も良き親を演じている。 あの女が嗤われ始めたその前、誰を嗤っていたかも忘れて。 これこそ何と滑稽だろう。さらに、生きていたら突如学校に現れたあの金髪と結婚でもしているのだろうか、当時は調子に乗って頼りすぎて仕舞った、子供を持って何だか解った気がする、あの子も子供がいるのだろうか、孫もいたりして、などと殊勝に吐くそのツラを今すぐ鏡で見てみろ、そう言えばきっと、子がいないから親の苦労を知らないんだろう、それこそ嗤われるはずだ。また生贄にされるのは堪ったものではない。 還暦とやらに達した。あの女も生きていれば同じである。記憶を辿ればあまりにも不自然な赤い髪色をしていた。今度の同窓会では還暦に格好の髪色だったとでも誰ぞが揶揄するのだろうか――そう考える自分はきっと、被害者になりたくないゆえ加害者になったのだ。身を以て知っている、あの女のように、傍観者も加害者なのだと。顔も手も皺だらけになって、皮膚は垂れて染みがついて、身体は大人を通り越し老体へと衰えているのは確実だが、内情はあの頃から変わっていない。幼い儘に、この世に存在しない女を思い出しては自分の惨めな時期を恨んで、八つ当たりをしている。 逝去を確認出来ていない同級生には、やはり同窓会の報せを届けねばならない。葉書という手段を取らなくなった現代、SNSを持たないあの女には実家に電話を掛けざるを得なかった。今回も母親の愚痴や泣き言――年月の経つにつれ電話先のそれらは徐々に形を変えていった。それもまた憎々しかった。 今回は初めて、電話が繋がらなかった。そうだ、自分達は六十歳、親はいつまでも生きているわけではない。 あの女を永遠に失った、そう思った。 清々したと思えない自分がなぜか悲しくなった。同窓会当日、ついにあの女の両親が亡くなったと皆に伝えることになる。きっと奴らはしみじみと、中身のない感慨を漂わせながら酒の肴にするのだろう。徹頭徹尾同窓会の用意を自分にさせたこと、あの女がいなくなる前に自分にしていたこと、この二つに対する言葉を持たない儘に。 外面の優しさに感謝したことなど一度とてないが、周囲にされたあらゆる仕打ちはあの女を憎むことで緩和させようとしていたのもまた事実である。自分が今なお同窓会の裏方をしているのは結局、あの女に次ぐ便利な奴だと見下されているからだ。抗わないのは、あの頃のような被害者になるのは御免だから。 生きていてほしい。憎ませてほしい。 ここ何回かの同窓会では、失踪を哀れむ声もちらほら上がっている。かつて自分はあの女に哀れまれた。同じになんてなりたくはない。 『私』は忘れてやらない。『私』の人生を狂わせたのはあの女。奴によって手に入れた安全圏から決して出てなどやるものか。皆が都合よく忘れ去った、被害者の『私』を失ってなるものか。全部、私の人生だ。 だからお前も忘れるな。保身の為に侵した『私』を。忘れているなら目を醒ませ。 目が覚めた。 久し振りにゆっくり眠れるかと思いきや窓の外は無情にも昏い。何かに起こされたような妙な感覚の儘、頭を持ち上げる。喉が渇いた、と思ったが、誰ぞを呼ぶのも時間を考えればよろしくはない。結局寝台を抜け出し、窓の外へ出た。 節目、というものがある、そう聞いてはいた。しかし信じすぎるのも後々響くだろうと、まあ心には留めておこうと決めて何十年経ったか。このところ妙な動きに手を焼き心を砕きを繰り返している。官吏や従僕との口論は日々絶えず、そんな酷い自分を気遣ってくれた親友らのうちの一人が、か細い伝手を試行錯誤に駆使してなんと他国の宝重を貸していただくこととなって仕舞った。そこまで大事にしなくてもと言うも、かの友は友人の顔からきりっと女官の顔に切り替え、あたし達はね、主を失うわけにはいかないの、誰だって被害者にはなりたくないし、あなただって加害者にはなりたくないでしょう、その逆もしかりよ、私は身を以て知っているもの、と睨みつけて来た。 自分の望む世界を夢に見せるという宝重、天から下賜されたものを疑うのもおかしな話だが、内容はといえばあちらのことであった。同級生がどこかに集って思い出に花を咲かせているのだと気づくまでにはだいぶ時を要した。誰が誰だか結びつかぬほど、あちらの時は――自分も過ごすはずだったのかもしれない半世紀に近づくだろう数十年は、皆を老いに、或いは死に向かわせていた。 自分の話題は何一つ出なかった。あれだけのことを引き起こし、剣の見せたその後の皆の本音を知ってさえ、初めから自分の存在がなかったかのように。果たして、自分はそう望んでいるのか。この国の為に、消えたほうが善いということなのだろうか――そこまで考えて、怖気に身震いした。声を上げたかも解らぬ。 逃げるのか、この腰抜け。 ああ、またしても天に見透かされた、我ながら柄にもなく舌打ちをして空を見上げる。見下ろされているのか見下されているのか、何十年もの付き合いにもかかわらず、相変わらず天の意思は解らない。いつか思った、天のいいように拵えられた庭というこの世界、世話や手入れは難しくなかったことはない。だからといって庭師を投げ出すつもりなどないし、天の好む庭を造ろうと整えるつもりもない。が、心のどこかによくないしこりがあるようだ、とも思い知らされた。 すべては――民の為。 たとえ自分が蔑まれようと、民が平穏に、しかし時には責めようと責められようと皆が真っ直ぐに思いを伝え、解り合えなかったとしてもそれを私情で恨み憎しみの種にしてはならない、たとえば今の自分のように嫌な目覚めを感じず、鶏の鳴き声で昇りたての朝陽を浴び目映さに目を細め、怪我にも事故にも遭わず――生贄にもならず、飯や酒を旨く味わい裏のない笑顔を交わし、陽が沈めば家族とともに眠りに就く、これがもし自分の持つ固定観念としたらそれはそれで破り去って、ひとりひとり、人生に幸福な意味を持ってもらえるような、あわよくば天が、人とは斯くも思い通りにゆかず愉快なものなのか、王の下僕を生む山の主さえ思って仕舞うような、民の人生の礎になりたい。 ある種、加害者と言えるだろう。己以外の、この自分の人生を押しつけて左右させるのだ――覚えている。自分自身の為に、優しさのようであってまるで違うものを押しつけていた頃の自分を。 自分は彼女を傷つけた。憎まれた。今もそうかもしれない。自分は心の砕き方を間違えた。間違えていると解っていてあえてその道を進んでいた。宝重によれば彼女は自分のことを覚えていない、知りもしないと望んでいるらしい。これが比喩だとすれば、忘れられたくない、民に望まれたいというところか、なんとも数十年で驕った心がぬくぬく育ったものよ――こんなもの、即刻に殺さねばならぬ。自分の目には見えぬものに次々と刺して殺さねばならない。今は皆が寝静まった夜だ。しかし今動かねば何かを失う、それだけは解った。部屋に戻り、その儘扉を開けた。誰かいないか、声を掛ければすぐさま人の気配と人ならざるものの気配とが駆け寄った。このものたちが――『私』を王とする、善となされようが悪となされようが、王である限り、『私』の国のものたちすべてが私の宝であると思い知らせてくれる。さればますます自分が何をすべきか、何を望むかが見えて来る。 『私』はかつて加害者だった。謝罪はしていないし、あのことに対する謝罪は自己満足にしかならないと理解している。あちらの罪はどうにもならぬ。どちらにいたとて消すことはならない。だからこそ忘れず、こちらに心から、自分の存在のすべてで、ひとりでも多くのものの幸福を支える縁の下の力持ち、のさらに下に沈む砂利の一粒になる覚悟を今一度噛み締める。実際に両の奥歯に力を込めれば、寝起きの背筋はぴしりと伸びた。 だから、『私』は忘れない。 中嶋陽子は杉本優香を、杉本優香は中嶋陽子を。 | |