そういえば、ふたりで鏡に映ったことはないな。ぞっとしない光景ではあろうが、着替えを終えてふと思う。硝子に映ったことはあっただろうか――確か、だいぶ前、偶然に、ほんの一瞬。一瞬というものの長さ短さの感覚はあの頃とかなり変わっている、と、思う。あの男もまた然りであろう、質したことはないが、恐らく。鏡に多様な意味合いあれど、つまりは物質、現実を裏返しに映す板。左右逆に映すのに上下逆には映さないんだよなあ、鏡の中の己に我知らず呟くと、ならそこが眼球の限界なんだろう、無遠慮な声が唐突に部屋に侵入して来た。 文句を垂れようと思ったが今更も今更、飲み込んで、帰らなくていいのか、と視線とともにその無遠慮な男へ投げる。明日は休みだ、仕事もない。…… 随分昔の歌だな、しかもお前に似合わない。偶然だ。表情から察するに、本当に偶然であるらしい。 ――表情から察する、ことが出来るようになるとは、と哀惜に似た感慨に嘆息する。……なあ、お前は俺を憎むだろうか。訊けば寸時顔を顰めて、らしくないな、嫌そうに呟いた。そうだな、確かに俺らしくない、そういうことにしとくよ。鏡の中の顔は俺らしくない顔で笑っている。――こいつは本当に、俺を憎まないだろうか。何にしても選ぶのはこいつ次第、俺がとやかく言える領域ではない。そもそも俺自身が今でもこいつが嫌いだ。いつまで見てるんだよ。不意に背後に回られて結局、鏡にふたりで映るという状況が実現して仕舞った。やっぱりぞっとしないな。何がだ。さあ? 笑うと背後の顔は、初めて見た時より歳を重ねた顔が、初めて見た 時よりずっと解り易く不機嫌を表した。お前に俺はどう見えている? 鏡と逆だな。そういうことじゃない――言おうとして、止した。これも今更だ。投げ遣りになっているわけではない、只、これが、俺が 選んだ現実であり、こいつの選んだ現実でもある。それだけだ。――それだけ、だ。なあ百目鬼。何だ。抱けよ。解った。……色気ねえよなあ。今更だろ。姿見に映る大人の腕が、大人になりきれていない身体を抱き込んで肩に顔を埋める。――君尋。身体を重ねる最初と最後に呼ばれる名前、その声がどれだけ時を経たか、本人には解らぬだろう。眼鏡を 攫おうとする手の持ち主にすべてを委ねようと体重を背後に預けようとした――矢先、四月一日、幼い声がふたりぶん、部屋の外から俺を呼んだ。鏡の中の顔が解り易く、本当に解り易く気まずげに面伏せて、かたや俺は苦く笑っていて、どうした、と笑い 含みの儘に外へ問う。姿も何もつまりは単純に俺もこいつも、解り難いようで解り易い、人間という生き物でしかないのだろう。 | |