なかなかどうして巧いものだと、嘘もなく感心しながら見る先で彼はコーヒーを淹れている。どうせこの顔は感心も関心すらも覗かせぬ仏頂面であろうが、しかしそんなことなど意に介さぬと背後の尻尾は小気味好く揺れる。随分小さな奴だと当初は思っていたが(彼は彼で逆のことを若干の怒りを込めて思っていたらしい)、その小さな体躯に余りある想いの強さ広さに今や、俺こそ己が身体を持て余しているのではないか、と詮ないことさえ考える始末。 ジタンは聞くに、かつてコーヒーの知識を自発的でこそないが学ぶ機会があって、だがどうやら彼が存在していた世界にて誰かに振る舞ったことはないらしく、異世界であるここで異世界の住人である俺の前で初めて腕を遺憾なく披露することと相成った、らしい。オレはお前の好みはわからないからオレの好みで作るからなー、との申し出に注文をつけるいとまも与えずミルを回し始めたさまに言いたいことはたくさんあったが、前述の通り危うげどころか目を瞠らせる手際、俺は向かいの席にて流れる指先の機微を見ている。尾が揺れるリズムとともに紡がれる鼻歌はどれだけ旋律を追えど聴いたこともない。 「――悪かったな」 「あ? 何がだよ」 「楽しそうだから」 「んー、オレも歌っておいて何だけど、なんの歌かは覚えてねえんだよな」 あまりに楽しそうであったゆえの謝罪である。湯を湛えるケトルを持ち上げて手も鼻歌も止めて俺を見たジタンはしかし意を取り違えたらしく、俺の本意からはややずれた返答と同時に作業を再開する。そういうことじゃない、と言おうとする俺に先回り、本当のとこはレディに振る舞いたかったんだけどなぁ、と、俺の本意を何の気なしに呟いた。 「まあ気にすんなって、オレが飲みたくなっただけだからさ。こっちこそ悪かったなつきあわせちまって」 悪びれもせずに言う手許、音もなくコーヒーサーバーに抽出されてはその透明の底を琥珀色で満たしてゆくコーヒーの香りは、それは久し振りに鼻腔を通った。でも、いいんだ、これで。ふとジタンが意味の見えぬことを言って、飾り気も何もないホーローのカップを二組、隣り合わせる。何がだ、と視線を翠色の目へ向けると、彼はすこしだけ、なぜか妙な、言うなれば困ったふうの表情を垣間見せてからすぐににっこり笑って役者よろしく、片手を胸へもう片手を広げ、くるり回して深々お辞儀をしてみせる。 「どうかこのわたくしめにしばし、貴方様のお時間を頂戴したく」 「……。呆れたな」 芝居がかった口調に嘆息、するとジタンはまたも顔に困惑をにじませる。この異変、さすがに訊ねぬわけにはゆかぬと、無駄に重いはずの口はなめらかに、何かあったのか、と案じる科白を吐いていた。彼は困惑した顔にわずか笑みを走らせ、その表情の儘に面伏せて、コーヒーをカップにとぷとぷと注いでゆく。 「……なんにもないと言えばそうだけどさ、うーん、言葉通り、だよ」 「……つまり、俺の時間を?」 「うんまあ、そう」 要領を得ない語り口はやはり彼らしくない。しばしぎこちない沈黙が続いて後、ジタンは二組のカップにコーヒーを注ぎ終え、なぜかその両方を俺の前へ差し出した。まさか二杯飲めというわけでもあるまい、と訝ったところで彼は、行儀悪くもあり余る身体能力を発揮した結果、テーブルに片手をついて一旦重心を下げ、ひらりとテーブルの上を跳躍して俺の席の側へ着地を決める。 「おい何を、」 「よし、埃入らなかったな」 咎める俺を無視して俺の隣に座ったジタンは二組のカップを交互に覗いては満足げに言ってから、戴きます、とカップを口へ運ぶ。俺も倣い一口、忘れて久しい苦味に舌が僅か拒めど、美味しいと言って差し支えない、否、なかなかの手前であった。しかしそれ、を、どう言葉にしてよいやら困惑する。巧い讃え方を俺は知らない。そんな俺を隣に彼は、うん、やっぱここいらの水も好かったし結構いける、と自画自賛している。その儘、なあお前もそう思うだろ? と訊いてくれればこちらとて、自分で言うな、ぐらいの肯定を示せたはず、しかし彼はだんまりだった。しばらく後、俺のカップの中身が半分くらいまで減った頃に、おい、とようやく沈黙を綻ばせる一言が落ちた――何と、俺の口からである。こちらを見上げる気配を察して、悩み事か、なんて柄にもない問いまで吐く始末。しかし彼は茶化すことなくただ俯き、そうかも、と弱く呟いた。 「――オレさ、コーヒーを作って飲むことで、忘れちまった記憶がもどるのかなあ、って思ったんだ。覚えていることを実践すれば、それがきっかけになるかなって」 「ああ――それで、どうだった」 「まあ結果的には変わらずだけど、……実践することで更に忘れる、って可能性があるかもしれない、って思っちゃったんだ。それから――忘れるにせよ思い出すにせよ、それはこの世界のオレがみんなから離れることになるのかなあ、って、馬鹿みたいなこと、もやもやとさ」 覗き見たカップにはまだまだコーヒーがたゆたっていて、鏡代わりの水面に映された彼は――罪悪と後悔、に駆られているように見えた。――いいだろう、どちらでもなかったのなら。あまりに無責任な科白が飛び出したのは、コーヒーに映る彼の顔に空恐ろしさを覚えたからかもしれない。何も考えていないようで俺よりずっと色々なことを渦巻かせている彼の身体はやはり、その想いを納めるには狭いのかもしれない。居心地悪さに身体を竦ませる。それからややあって、それからな、とジタンが口を開いた。水面の顔が更に歪んだ。 「お前ももしかしたら、って思って」 「……俺?」 「 ……、お前の世界にも、コーヒーくらいあっただろ。だからお前がオレの作ったコーヒー飲んで、何かを思い出したり忘れたり、したら、それはオレからお前が離れてくんじゃないかって気がしたんだ。――オレが、お前から離れるよりも、お前がオレから離れるほうがオレは、なんかこう、嫌だったんだ」 歯切れ悪い口調は痛切に鼓膜へ染みる。そう弱っちいこと言ってちゃ、うまくいくもんもいかないんだろうけどさ。ようやくジタンは、かろうじて、というくらいではあるが、笑った。自嘲のそれは初めて見るものでだからやはり俺は、空恐ろしさに背ばかり高い身体を縮める。……お前は優しすぎるんじゃないか。言った先に返答はなかったが、自嘲の笑みは引っ込んで俺は少し安堵する。その所為か俺はついでに珍しく軽口まで叩いて仕舞う。 「お前は女にだけ甘いとばかり思っていたんだがな」 言うと反射的か否かがばりと顔が上がった。先程までの弱々しさはいずこへ、ジタンは至極真剣な眼を俺へ向ける。 「レディを丁重にもてなすのは男として当然だろ、けどだからって男だってのを理由に冷たくあしらうなんざ紳士の風上にも置けねえよ!」 「……何だその言い分は」 語尾に迫る段むきになる口調がおかしかったけれどそれ以上に俺は心底呆れる。その科白の辻褄が合っていないことは日々の行動からして解り切っている(なんせ『アイツ』をレディ呼ばわりだ)。それでもジタンの中で自論の辻褄が合っていて矛盾ひとつないのなら、俺はその正体の名を知らないわけではないが正解かと訊かれればこれまた解らない。 「――そういうのを博愛の精神って言うんじゃないか」 正体の名にあたりをつけて訊いてみると、ジタンは翠のまなこはぱちりと瞬き、そりゃあ違うよ、と微妙に笑む。 「違う?」 「まあ、どこがどう違うか、は具体的には言えねえ、けど」 今度は反して弱まってゆく語気にとうとう俺は笑って仕舞って、おかしなヤツだ、と呟いてコーヒーを啜った。彼は彼で、具体的にってのはそういうことじゃないんだよなあ、さっきも言ったのに、お前の時間を、って、……まあいいいいかいいや、ああもうオレかっこわるい! とよくわからないことを一通りまくし立ててからコーヒーをぐいっと呷って、うわまだ意外と熱っ! と咽せていた。まったく静かにしろ、たしなめる代わりに、このコーヒーは二杯目を戴けるのだろうか、と、まあ俺なりに意趣返し、お芝居ですというふうに言うと彼は一瞬ぽかんとしてからにやり、更に心得たと目を伏せてから椅子を立ち、仰せの儘に、と一礼、そしてなぜかカップではなく俺の片手を取り、甲を面伏せた額につける。 「――貴方様のためとあらば」 芝居にしたって恥ずかしい所業をなすジタンはあまりに、胸が軋むほどに真摯で、俺は何も言えなくなって、しかし何もしないのは残酷すぎることくらいは解ったゆえ、金色の髪のつむじに彼同様、額を載せる。続く沈黙があまりに苦しい。その理由を少なくとも俺は、わかっていなかった。 | |