夜ト蛆虫 | ナノ




 人生に数多ある段落、というものの一つに、子供の独り立ちが含まれる。

 とはいえ、今の時世で十五年は早いというほどでもない。未だ中学校を卒業してからすぐ就職して働き手となる子供は多い。例に漏れず、子供は中学校を卒業──つまり義務教育を終えるや否や、何の痕跡もなくふらりとどこかに消えて仕舞った。その喪失感は、子を引き取ってから歳を経た心身に衝撃と負荷を与えて来たらしい。以降、ぼんやりと過ごす日々──しかしずっとぼんやりとしていてばかりでは生きてはゆけぬ。数週も経てば日常は非日常に上書きされる。それでよかったのだ。去った子供もそう願っていてのことだろう。
 
 願っていてのことだからこそ、去ったのだろうが。

「ようやく買えた今時のマンションに、曰く作るの辞めてくんねえ?」

 窓を開けてすぐに設えられている手摺りの上に、少年が一人、裸足の爪先を揃えて乗っていた。二階の手摺りのまさに上、音もなく屈み込み、片手に下駄を一足、鼻緒に指を通してぶら下げている。

「少しは人間らしく驚いたらどうです? 人間なんだから」
「無茶な注文つけんなよ。真夜中に窓から何の用?」
「夜行性ですみませんね。で、いったいどういうおつもりで?」
「こっちの科白なんだよなあ。遊びに来るなら休みの昼に玄関からにしてほしいわ。俺らは玄関から出入りして夜は寝る生き物なの。それを──いやはや、親の顔が見てみたいもんだね」
「一々まどろっこしい上に腹立たしいことを」
「そりゃ腹も立つに決まってんだろが。お隣さんにも迷惑掛かんだよ、こういうのは」
「質問に答えろ。──あんたの後ろにいる人に、いったい何してくれたんだって訊いてんです」

 煙草を呑もうと窓を開けたらこのざまだ。開けた反対側の窓の前に屈み、右目ばかりがぎょろりと光ってこちらを睨む少年は存在そのものは見えるも怖いほど気配がない。彼自身か他の何かがそうしているのだろうが、こちらの声を抑えねばただ一人で周りに迷惑を振り撒いていることになる。取り敢えず窓の桟に肘を突き、煙草に火を点けて一服、その異様に光る右目を見上げた。

「種の無駄撃ちって解る? お坊ちゃん」

 目を逸らさぬ儘、煙草を持った手の親指で背の後ろを示した。すぐ背後というわけでもないが、皺の酷い布団の上で、この子供の育て親がほとんど裸で眠っている。子供は髪を重力に抗わせ、音が聴こえるほどに歯を剥き出した。僅か、視線がぶれたのは見逃さない。角度から考えると、裸足の脛か脹脛かが、運が良ければ両脚分見えただろう。それ以上見たら金取るよ、と後押ししてやるとさすがに怒り心頭に達したか、手が勢いをつけて延べられ、首を鷲掴みにして来た。爪が深く食い込む。呼吸が徐々に難しくなる苦しさこそが、この子供が憤怒を滾らせている証左だ。この儘縊り殺す程の感情はあろう──が、この子供はこの子供だからこそ、それが出来ない。

 わかっている・・・・・・のだ、俺は。知っているのだから。

「……おい、どうした」

 両目が破裂を待つような鈍痛がどくどくと襲い、視界に白黒の羽虫がちかちか湧き始めたあたりで、背後から眠たそうな声がした──途端、我を取り戻したか、ひゅ、と悲鳴になりかけた息を吸い、自分自身に驚愕したような顔をして首を絞める手をばっ、と放して引っ込めた。わざとらしいほどに震える手は下駄を持つ手で抱え込み、身体を縮こまらせた。──多分、意識だけは部屋の中に向けている。それは一旦放っておくことにして、荒い呼吸を繰り返して何度か咳き込んでから少し背後を振り返り、今一度咳払いをしてから、何でもない、と応えた。

「ちょっと煙草噎せた。一本拝借したわ」
「ふざけろてめえ」
「明日の昼飯」
「……。許す」
「了解。寒いなら窓閉めるけど」
「いい。まだ、あつい・・・。俺は寝る……寝るぞ」
「へいへい」

 全く何とも残酷な選択をさせられる。ぽんぽん冷やすんじゃないのよ、笑いながらの物言いに、うるせえ、と解り易い感情を呑みながらの返答、寝返りを打って背を向けたのを確認してから、それで、と文字通り斜め上を見上げる。手と感情の震えは収まっていた。

「何しに来たの、お坊ちゃん。そういう趣味? どんな情操教育受けたか知らねえけど、少なくとも実際に現場見られるのはおとうさん本人としても嫌がるんじゃねえの? 他人の俺だって嫌なんだからよ」
「殴り込まなかっただけ有難がってほしいもんですが」
「こっちとしちゃ警察呼ぶだけだわ。ここは俺の家、こいつは俺が招いた俺の同僚。それ以外は家主の俺としては通報です。お前さんのことは招いてもねえし、妙な噂が立ちでもしたらここに住んでられなくなんのよ。そっちに効くか解らんけど弁護士立ててみる? 何であれ、お前さんは自分からここでこいつに何が起こってるか解ってて見に来たわけだ。こいつが知ったらますます合わせる顔なくなるんじゃねえのか? ん?」

 最早手は出ないものの、顔に出ている激情はあまりに幼稚であった。──聞いている。中学校卒業から一切連絡の取れなくなった息子のことは、おそらく他人よりかは深い事情まで酒がうっかり滑らせた口から──それだけではない、その息子が赤子の頃から成長して出奔する十五年の間、実際に相対したことが何度とある。当時は酒の肴の愚痴と同等かそれ以上に、いかに息子が出来た子かと自慢されたものだが、悲しいかな彼の言う出来た子は願ったようには育たなかったらしい。

「おやすみなさいの挨拶しに来たり、お冷や持って来てくれたあの子がまさか、パッパにここまで執着するとはねえ」
「前々から危険視はしてたんですよ。まさか本当に手を出すとは」
「別に今日が初めてってわけじゃねえんだけど。何? 法律で結婚出来る歳になったから戻って捜してみたら赤の他人に寝取られてた──って思い込んでる感じ? ってことは十八歳か、君。お誕生日おめでとう」
「今日じゃない上全然嬉しくはありませんが有難うございます」
「プレゼント代わりに教えると、こいつずっとこんなもんだぞ? 十年だか十五年だかそれくらい前から」
「──十五、年」
「入社した頃からは考えられねえわな。お前さんの所為で、片親で女の影作りたくないから同期で隣に座ってた俺にお鉢が回ったってえ寸法よ。俺も断る理由はなかったし、何よりお前さんがこいつに言ったらしいじゃねえか、お母さんは要りません、って」
「それはそういった意味じゃ」
「あのな、人間同士だっておんなじ言葉喋ってようが意味通じないことは多々あるんだわ。──お坊ちゃんよ、お前さん人間じゃないんだよな? まあ音も立てずに窓の外からこんばんはなんてしてるくらいだ、俺が思ってるよりだいぶ人間とかけ離れてるんだろ。こいつはな、お前さんの為なら無償の愛を幾らでも注ぐ優しい出来たおとうさんじゃない、立派な俗物だ。俺とおんなじな」

 敢えてのことだ、腹立たしく、怒りを掻き立てるような言い回しを選んでいるのは。

 ──出ていったのなら俺とあいつらは他人、関わってほしくないんだろう、なら俺も関わらない、俺の役目は終わった、解ってる、だが……しかし。

 何回聞いたか解らぬ話は、今日も含めてだいたいその口が切り上げた。後はいつも、そういうことだ。身体の関係が十五年前からというのは決して嘘ではないが、頻度は子の出奔以降から格段に上がった。子育てをしていた時期にぎりぎり節制していた分、反動も加えた取り返しをしている、と自覚を持ってさえいる。この男がかつて──関係を持った自分にしか頼らないから、そう縋りついて来たのだと正直に話したら、この子供はどうするか。選ぶのは、破壊か破滅だろう。戦争でうっかり拾ったこの生命は簡単に潰されるはずだ。そんなことが出来て仕舞うからこそ、この男から離れたのだろうに。巣立ちと親離れは同義ではないらしい──いつから親を親以外として見ていたのかは知らないが。

「なあお前さん、もうこいつのことを追うのは止せ。──化け物なんだから・・・・・・・・よ」

 呑み込んでいたことを、遂に切り出した。途端、あの目がぎょろりと赤く睨みを利かせた。

「解ってて、手放したんだろ? こいつを自分の領分に染めたくない、そう出来るのは領分に属する奴しかない。よく知らんがそうなんだろ、だから」
「知った口を利くなよ、人間風情が」
「へーえ、偉いんだ? ……こいつの悪夢を知らないくせに」

 顔がわずか、おそらく図星と悔恨に歪んだ。まあ、語り聞かせてやれるような話ではない。この同僚は、未だ真夜中に魘される。──そして、自分も、また。

「なあ、せっかくだから聞いてけよ。……俺はな、死体を焼いたことがある」
「……はあ」
「夜は駄目だ。火が敵に見つかる可能性がある。だから朝か昼、そこらのでかい葉っぱを被せて火を点ける。だが煙が上がりゃあやっぱり敵に見つかる。──どうすると思う?」
「その話、最後まで聞かなきゃ駄目ですか?」
「まあまあ。煙草一本分付き合えや。お前さんも呑む年頃だろ?」

 箱から煙草を一本差し出した。最後の一本だが、構わないだろう。こいつの愛煙でもあるし──子供は逡巡ののち、受け取ってから、ふ、と小さく火を吹き出して燃してひと吸いした。なかなかに便利なものだ、と羨みながら、やはり、とも思う。たったこれだけの火でさえ、闇夜には明るい。

「俺は、こいつが魘される過去を知ってる。聞いた上に、わかるから・・・・・だ。そして、俺のこともこいつは知ってるし、わかっている・・・・・・。俺が死体を、ただ煙が立たないように気をつけながら、満遍なく火が通るように干物よろしく引っ繰り返して焼き続けたことを。断じて、つい昨日まで喋ってた仲間の遺体に対する姿勢じゃない。それでも俺は何度も焼いた。次はあいつを焼かなきゃ、その次は、いつか俺もこう焼かれるのか、なんてぼんやり考えながら、黒焦げになるまで」
「……あの人は、でも」
「頑として話さなかったんだろ? こいつはそういう奴だ。話すことでもねえんだよ──だからもう構わないでやってくれや」
「お前ごときが勝手に決めるな!」
お前を化け物にしたくねえんだよ・・・・・・・・・・・・・・・!!」

 思わず、叫んだ。子供の顔が怯んだ。──そう、そうなのだ、この子供とは何度も会っているのだ。いつも玄関に下駄をきちんと揃え、客の来訪や眠る前には必ず挨拶をし、泥酔した駄目な大人に水を差し出す出来た子だ。その子供が親に対して異様な執着をみせていることは、部外者にもかかわらず見抜いていた──子供を人として育て切ることなど出来ようものか、とも。ひとところに集まって手榴弾のピンを抜き、拘束させた身体に弾丸を撃ち込み、病床の枕辺に盃一杯の毒を置き、海に突き落とし、死ぬはずだった癖に生き残る。そんな化け物どもは今なお人間の皮を被って、この世にうようよ生きている。そのうち一匹の化け物は案の定、拾い子に歪んだ成長を強いてしまった。

「こいつが自分を化け物と思い込んでる以上、お前が消えたことで身に余る幸福からようやく逃れられたんだ。お前は、希望そのものだった。だからこそ化け物が傍にいちゃあならない。こいつを思って離れたなら、その儘こいつの前から永遠に消えてくれ。──本当に」
「それを、あの人が望んでいる証拠は……あるんですか」
「お前がこいつから離れた理由がそれだ。化け物を妖怪様に格上げしてくれるな。生きる価値がないことくらい、生きながらも解ってるんだよ。俺達は」
「僕は……間違ったと?」
「正しかったことなんてない。お前にとっての十五年、俺らにとっての二十何年。ここに人間はひとりもいないんだよ。化け物どもの傷の舐め合いくらい、大目に見てくれ。こいつの愛とかいうものは、全部お前の為に、端っからありゃしねえもんを一から作って搾り出したんだ。親愛であれ情愛であれ、こいつに愛はもう、なにも、ない。まして、誰かの為にまた一から作り出す力なんか」
「……それを知ってなお、僕があなたの代わりになることは?」
「解り切っていて言うなよ。……俺だって、俺みたいな屑だって、お前の頭を撫でた時、いい親子になってほしいって泣きそうになりながら願ったんだ。──なあ、後生だから、消えてくれ。この化け物どもにかける憐みが、少しでもあるなら」

 丁度煙草が吸うには短くなって来た。ぺらぺらのアルミの灰皿に山積した吸い殻の仲間に加えてから、桟に両腕を置いたその甲に顎を置き、希望を見上げる。化け物どもの希望は、酷く哀しい、そしてわずか、醒めた色をしていた。

「……煙草は、戴いていきます。それから──いや、いい。化け物同士、まっさらな人間達の標、よすがにでもなってください。どうせあんた達は、畜生道行きだ」
「気が向いたら拾ってやってくれよ?」
「意地でも捜し出しますよ。恩のある者だけ」
「そうかい」
「ええ。……では、さようなら。──お養父さん・・・・・

 その言葉を最後に、希望の気配は消えた──煙草の火とともに。

 難儀なこった、月もない夜空を見上げ、長く息を吐いてから、うまく出来たか、そう背後に問うた。

「煙草一本ぽっちを餞別にしちまった。あの子には──悪いことを言った」
「何、構わねえよ。俺には言えなかったことだ」

 ごそり、布団が音を立てる。窓を閉めて振り返ると、横臥した同僚が片肘を突いてこちらを見ていた。

「多分だけど鬼太郎君、お前が起きてるの気づいてたぞ」
「だろうな。だが、いい頃合いに来てくれた。覗き見は感心しないが、まあ次の生なんかが与えられるとしたら、その時に説教してやるさ。生まれ直したからといって、化け物は化け物に変わりはねえだろうが」
「待て待ておい見られてたのかよ? 嘘だろお前どういう教育して来たんだよ」
「……解らなかったんだよ。愛、というものの定義が」
「今も?」
「お前は?」
「わっかんねえ」
「所詮、化け物だ。俺らはそうなっちまった。なっちまった以上、そう生きなきゃならんだろう。責任の取り方も、贖罪の相手も、何も解らねえんだから」
「魘されない日は来ねえんだろうなあ」
「よろしく頼む」
「こちらこそ」

 あの子供の登場で、揃ってだいぶ心がやられているらしい。それほど──それほど、かの子供は、希望であるのだ。対して化け物二匹、双方正座し三つ指突いて深々と頭を下げる茶番を催し、示し合わせるでもなく互いに、二人用には狭い敷布の上へ、掛布を蹴って手脚を絡めた。

「……明日の昼飯は取り消しにしてくれ」
「お望みとあらば。他にご注文は?」
「顔、見てやりたい」
「うっわ、趣味悪」
「役得ぐらい言ってくれてもいいんだぞ」
「顔面に自信があって何より。……傷、舐めていい?」
「幾らでも。お前なら、わかっている・・・・・・から」

 まったく、つくづく罪なことを言う。少しでも愛した子を忘れたいからといって、ただの会社の同僚の顔を見ることで上書きをして忘れようとは。

 この男が、愛した子供の他に、誰とも解らぬものの懸想する存在がいることも、いつか聞いた──聞かされた。誰なのか、名さえ知らぬ者をこいつは、あの村から帰って来てからずっとずっと、想っている。だからこそ、知る由もない。

 枯れ果て尽きた愛とか何とかいうものを、唯一の理解者と認識している相手に育てさせていることを。

 みずから仰臥した身体に覆い被さると、項に両腕を回しながら口から舌を伸ばして来た。勿論応えぬわけがない。かの希望が為に、こいつは化け物で在り続けねばならぬのだ。そして──化け物で在るには、同胞が傍に必要であるらしい。俺は、お零れに与る屑だ。

 その屑が、希望を汚して、未来を望む。何と、何という、傲りであろうか。窒息を夢見て互いに舌を吸い、互いに首を絞める。──これが愛というなら、世界はずっと、間違っている。


×
「#お仕置き」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -