解らない事柄だけで埋め尽くされた世界で生かされている自身のどこが奴隷と相違ないと言えようか。もっともらしい御託で丸め込まれて仕舞ったのは、永遠であるべきであった眠りから覚めてさほどの時も与えられずに言い聞かせられたゆえであろう。一度燃されて融けた脳は刷り込みがごとく理不尽な二度目の生を受け容れた。元より出来の悪い脳、この世界の言い分を馬鹿正直に、碌に咀嚼もせぬ儘嚥下したのである。奴隷を強いられている人々に対してはあまりにも不遜と言わざるを得ぬ存在であることまでには気づかぬ儘。 出来得る思考を引っ掻き回してやっとこの事実と思われる結論に至ったのだから、『わたし』よりずっと立派で明晰な御仁はとうに知り尽くし、あるいは妥協しあるいは忍耐に努めていたのだろう。文学に殉じた者のみを生き返らせる仕組みなどはこの際どうでもいゝ。考えれど考えれど解らぬからだ。たゞ、何度となく生き返らせられるらしいことに関しては恐怖を覚えた。さらには、すでに生き返らせられた者と同一人物が何人も生き返って仕舞うに至っては、血の気引き倒れそうな感覚をもたらした。人間は一人がすべて、生は一度きりが善い、そんなことはいまさら置いておくとしても、何人も何度も、などと思うにつけ、なぜ今生きていられる、いつ死んで仕舞っても誰も困りやしないであろう、『わたし』の代わりに『わたし』がいるのだから、時を経て戦いを強いられる毎、懊悩は渦巻き深くなっていった。 この図書館でとある死者が出た日、『わたし』の中からそれら苦悩は驚くほど簡単に、一切が消え失せた。 おそらく、死んだ者が『彼』であった所為であろう。面白可笑しくもどこか仄暗き『彼』の性分は、こんな世界にあって随分『わたし』を楽しませ、時に救ってさえくれた。白状すると、『彼』が『わたし』に対して恋慕の念を抱いているのを『わたし』は知っていた。気づきながらも向こうから何をするでもなく、どう応えるが善いか解らなかったのもあって、結局見て見ぬふりを貫いた。貫いた結果が、片恋を抱えた儘何も実ることない死であった。今度の生では身体さえ残らなかった。皆哀しんだり憤ったりと様々であったが、『わたし』たゞ一人は沈黙していた。それを悼みと捉えたらしい誰かゞ声を掛けて来たのを、武器の柄で殴ったのが今に至る始まりである。狼狽したのは殴られた者を含めた全員、だからこそ全員の生命を刈り取るのは至極易きことだった。次々と消滅してゆく死骸だったが、そこで初めて心の底から安堵したのを覚えている。死骸となり倒れた場に光るものを見つけたからだ。何度もやらされた書物の中への転移、そこを探る時に落ちていた、かつ必ず拾い集めるよう命じられていたもの。 色かたちそれぞれ違えど、書物の道々に落ちていたのはみな、死骸であったのだ。 本人が生き返らされているにもかゝわらず幾人も同一人物が現れて仕舞った場合、余剰の人間は要らぬとばかりに人の姿を辞めて美しい粒へと形を変えて去っていた。あれもまた魂の器になれなかった死骸なのだろう。そしてそれら死骸を用いて、生き返らされた一人一人の能力を、戦う為に必要な技術を上げてゆく。やゝもすれば大人数にすぐさま用意かなった食事も、仕組みの解らぬ栞や洋墨も、あの死骸らを使っていたのやもしれぬ。つまるところ、生き返ったわけではなかったのだ。かつて存在していた『わたし』達を好きなように形作って、残存する記録を記憶として植えつけただけの無機物だったのだ。 今やたゞ一人残った物である『わたし』には、これが正解であるか論拠を挙げることは出来ぬ。あの『彼』もこのようなことを考えていたかなどなおさらである。さりとて、物質である『彼』が物質である『わたし』なぞを好き焦がれていたことは間違い勘違いとは考えられぬのだ。たとえ記録であれ、否、記録であればこそ、かつて本当の一度きりの生にて『彼』は『わたし』を愛だ恋だという限りなく曖昧な想いを全う出来ずに死んだ。生き返っても、もとい造り直されてもなお、儚い情報を維持し続け、またもこちらに告げることなく、死んだ。 『彼』の想い人は極めて残酷な男であり、『彼』の気持ちを察しておきながら何の行動も取らなかった。あまつさえ沈黙を強要していたふしもあった。『彼』はせめて『わたし』にまったく関わりのない何かから幸福を得ていてくれと願う他ない。綺羅綺羅光る石くれ漂う洋墨の海に佇み、今や唯一意志ある無機物である『わたし』は、『彼』の死骸をふと想像しようとした。『彼』の光る粒を。果たして何色だろうか、いかな輝きをもたらすのだろうか。 それを手に入れた時、『わたし』はきっと、『わたし』を軽蔑するだろうが。 一人も生き残っておらぬ、『わたし』が意思を持って殺した者、ないし物を、『彼』は憎むも悼むも先に嘆くに相違ない。そういう『彼』を、『わたし』は好んでいた。あまりに優しく切なき男であったのだ。だからこそ見ぬふりを貫く『わたし』に決して物申さずに二度も同じ轍を辿ったのだろう。だからこそ、だからこそ。 三度目を、迎えさせてはならぬ。『わたし』はまた、『彼』に応えぬはずなのだ。『わたし』も『彼』も、たゞの記録であるのだから。 己が首に武器を構えた。『わたし』の死骸は、きっと輝くことはない。 | |