養父が、子を身籠った。 あり得ぬことだ。僕は自身の属する種族としてはまだまだ子供の部類なれども、人間と妖怪に囲まれて育ったと同時にそれぞれの常識を学んで来た身である。絶句した後にそれがいかに異常であるか、直ぐさま理解した。にもかかわらず我が父母はといえば、涙を流して喜んだ。そして当事者の養父は、台所やトイレに間に合わず苦しそうに吐瀉した廊下にへたり込み、父母の涙の意味を聞いて青褪めていた。当然だ、いつの間に身体を造り替えられ孕ませられたのか、先ずは疑問、或いは恐怖が勝るはずである。それでも、未だ平たく脂肪も少ない腹に早くも何かを感じたのか、笑顔の儘に滂沱と泣く両親の肩をそれぞれ叩いてはあやし、顔色を失しながらも笑んでいた。次いで弟妹が出来る喜びを強いる父母に、果たして僕は上手く笑顔を作れていたろうか。兎も角も、その時は掃除と着替えの用意をする為に退散したのだった。その後のことは、よく覚えていない。 養父は父とそういったことをしてはいたらしい。しかし母というものがありながら、との疑問は、母当人が容認をからりと白状した。曰く、父と養父の幸福が己が幸福であるならば、二人の関係が深くなる程喜ばしいことはなく、養父の血が通う子が欲しくなってからは父の種を養父に与え、二人で養父の身体の絡繰りを弄ったとのことだ。そこに養父の意思はあったのか──二人揃って僕に内緒にしてたんですか、と訊くと、家族が増えることに不幸なことなどないでしょう、と笑い掛けて来た。物解りの良い兄を演じて肯いたが、泥のような嫌悪感が心の中に溜まるのを感じた。 母は今までよりずっと働き、父は新たなる生命、そして生命を産む身体の為に、必要なものを用意したり、出産や子育てに関して日々学んだ。二人はそれぞれ、第一子である自分の出産に立ち会ったわけではない。かつて養父の手によって埋葬された母から自力で土の上へ生まれた僕は、父母の身体をこの世にて元に戻すまで養父に育てられていた。ゆえに父母は幼子の自分を知らず、どう接すべきかも本質を多分理解していない。それ程に二人の行動には現実味がなく、ままごと遊びをしているように見えた。 やっとちゃんとした親をやることが出来るのが嬉しいのか、そもそもちゃんとした親をやってみたくなって養父を造り変えたのか──その旨を養父に訊くと、そんなことを言うもんじゃないお前の親はあの二人だ、と窘められた。その時の悲しい顔は、未だ忘れられぬ。 腹が膨らむにつれて、養父を避けるようになった。家に帰らない日も増え、両親は新たな生命にかかずらう三人への悋気と思い込んでは、やんわりと説教を繰り返した。養父はといえば──叱られる僕から目を背け、黙すのみだった。 養父だけが、僕を解ってくれていた。そして──解り合えていた。 いよいよ身体の形の異常を誤魔化せなくなった養父は、それまで懸命にしがみついていた職を躊躇なく辞した。産後に復職するつもりもない、と聞いた父母は養父と僕とを並べて両側から挟み、これからはずっと一緒に、と夢見心地に浸りながら、やはり歓喜とともに涙した。養父は乾いた笑いをこぼすのみ、僕に至っては、養父の肉の下に息づいているのが嫌でも解る生命が、ただ、気持ち悪かった。養父さえ無事で済むのであれば、直ぐさま殺して仕舞いたかった。思考を読んだか否か、両親は養父も含めて両側から態度を責め──何か喜べぬ理由があるのかと、養父が廊下に吐瀉してから数か月経ってようやく気づいたらしく、心配そうに問うて来た。養父も僕も、何も答えず曖昧に笑って受け流した。 二人のみが知り盲信する愛のかたちに、水を差せるはずがあるか。 両親が留守のある日のことだった。家ではもう何もさせて貰えずただ時間を過ごすのみの養父が僕を呼び、何か月ぶりか二人切りで顔を合わせた。もう生を受けるに幾らもなかろう大きな腹を除いて、養父の身体は病人のように全身が窶れていた。何か欲しいものはないかと訊き来た養父は、腹の中への嫉妬などという両親の誤解とは違い、近い未来にこの家族関係が破綻して仕舞うことを理解した上で、償いをしたいのだろうと直ぐに察した。もはや欲しいものなどない、養父が償う謂れもない。より一層の幸福を欲して仕舞った強欲な幽霊族二人の犠牲になっただけの養父が、少しでも、報われてくれれば。 ──その子を、世界で一等愛させてください。 それだけ言うと、意を汲んでくれた養父は久しく見なかった優しい笑顔を浮かべ、頭を引き寄せ撫でてくれた。 養父に──親に頭を撫でられたのは、それが最後だった。 数日経った夜のことだ。父は畳に座し、上機嫌でみずから編んだ小さな靴下や拵えた服を眺め、片手で養父の腹を撫でていた。母はその様子を父同様幸せそうに見ながら、お迎えはそろそろでしょうねえ頑張ってくださいね、経験していない私が言えることではありませんけれど、などところころ笑っていた。合わせて痩けた頬を震わせる養父が明らかに疲弊していることにどうして気づかないのだろう。新しい生命──愛を前に、あまりにも盲目で、あまりにも愚かだ。 しかし養父は、この愚かな二人に応える道を選んだ。選ばざるを得なかっただけのことだが、それでも、二人が押しつけた愛を受け容れた。 ──おそらく、共感など微塵もしていないのだろう。これから先も、ずっと。 うう、唸った養父の身体が傾いだ。土気色の顔には一気に汗が吹き出し、呼吸はぜえぜえと荒れた。父母は動揺しながらも歓喜を隠し切れずに、今にもはち切れそうな腹を両手で擦り苦しむ養父を敷布団の上に移動させて仰臥させた。慌ただしくする父母を余所に、ふと養父が僕の名を呼んで手招いた。傍に寄ると、手を握っていてほしいと言う。断る理由などなく、随分痩せ細った右手を両手で包み込むと養父は、それは嬉しそうに、ふわりと笑った。そして父母を呼び寄せ、いいか二人ともようく聞いてくれ、笑んだ儘に言い──唐突に、醜悪なものを見る目で、顔を軽蔑に歪ませた。 ──人間を、舐めるなよ。 そう言うが早いか、ばつん、と大きな音を立て、養父の腹が破裂した。 血潮や肉片が天井まで飛び上がり、ぼとぼとと降って来る。両親は唖然としていた。ああ、やはり──養父の腹があった場所には真っ赤で小さな子の姿が在り、そこに向かって養父の肉や血管、臓腑に骨が、音を立てて裂けて融けて崩れて、体液をシーツや畳に染み込ませながら引き寄せられるように吸い込まれていった。子はむくむくと膨れ上がり、掴んでいた手も皮膚が剥がれ肉はほどけ、関節ごとに別れ別れになった骨を血管に拾い上げられ肉に巻き込まれ、ずるずると呑み込まれた。我に返った父は、待て、待ってくれ嫌じゃ、今更も今更なことを繰り返しながら、裂け融け崩れて胎児に吸われてゆくのを食い止めようと散らばった骨肉を掻き集め、粘土を捏ねるように養父が在った布団の上に押しつけ続けた。とうに光を消した目が嵌まる頭部の骨が外れ、皮膚を裂いて転がり落ちるのを受け止めて心臓があった辺りに積むさまは、愚かを通り越して憐れであった。血まみれになりながらままごと遊びよろしく動き回る父を前に、母は──立ち竦んだ儘、動かなかった。 父母には無事に養父から子を取り上げる手立てがあったのだろう。しかし、養父の矜持がそれを許さなかった。そもそも、人間の女性は我が生命を賭して子を産むのである。身体を弄られたとて、もし女性のような構造を持たない人間の男性が子を産むのであれば、生命以上を賭けねばならぬことなど想像がつくだろう。他の男性の例は知らぬものの、妊娠した女性の姿に比べて養父は枯れ枝のごとく萎びていた。腹が裂けるずっと前から、養父は自身の身体の中身を胎児に与えていたのだ。 養父は、腹の中の子を嘘偽りなく愛していたのだ。大切な父母から与えられたものなのだからと。 ただし、人ひとりを蹂躙した罪は重い。だから、存在するはずのなかった生命に己が生命のすべてを与え、父母には与えてやらぬことにした。養父は人間なれども、かつて浴びて仕舞った幽霊族の血で以て、弄られた身体をさらに弄ることが出来たのだ。足りぬ力は人間の生命力で補いながら──結果的に今、血の匂いが充満する部屋の中、四人家族は四人の儘だ。父母がかつて養父を変えたように、今度は養父が自身を変えた。養父を孕ませたただそれだけのこと、それが、養父を喪ったただそれだけのこと、に変わった、本当に、それだけ。 きっと、それさえ理解されないと予想しながら──養父は生きた儘、赤子に余すところなく喰らい尽くされて死んだ。 赤子は、生まれ立てから比べて随分と成長していた。それでも大きさが三歳かそこらの腕に収まるぎりぎりの成長で止まったのは、養父を当面の栄養として吸収した所為だろう。浴びた血が流れ落ちて露わになったその容姿は、白い髪が生えた女の子だった。目は閉じた儘でも解る吊り気味の形をしており、つまるところ、養父の要素は何ひとつなかった。だれ、呆然とした母が枯れた声をこぼし、だれ、誰なの、誰なのよこれは、徐々に正気、を通り越して狂気に達し、立った儘に風のような速度で髪を延べて赤子の首に絡ませた。父は──魂の抜けたように座り込んでいたところを母の所業によりびくりと身体を震わせた。が、それ以上のことは何もしなかった。生まれたばかりで絞め殺されてゆく赤子を、つい先刻まで嬉々として待ち侘びていた生命を、声もなく見ていた。 ──つけを払わせてやる、と言っていましたよ。 声を上げると、母が怯んだ。その隙を逃さずに母の髪から解放して赤子を抱き上げた。父は機械のように軋んだ動きで追い縋ろうとしたが、それも途中で停止した。首を絞められていた赤子はぷは、と口を開け、ようやく声を上げて泣いた。父母に似た、養父の子だ。身体に養父の使っていた血染めのタオルケットを巻いて抱き締めると、赤子の鳴き声は段々と静まっていった。心の底から、その赤子を愛おしいと思った。あれだけ気味悪がっていた癖に──人間の法則を無視した生命はあまりにも不気味で恐ろしかったが、いざ腕に抱いてみればそれは、ただひとりの生命だった。 父母は動かない。望んでいたものが、愛していたものを代償にしたのだから仕方がないかもしれない。この二人には解らないのだ、初めから過ぎた愛を求め、間違えていたことを。 ──僕の大切なお養父さんを殺したのは父さん母さん、あなた達です。恨みをこの子に向けるのはお門違いですよ。あなた達をこの世にその姿で生きられるよう何年も何年も東奔西走したのは誰ですか? それだけで充分過ぎたじゃないですか。僕だってそれだけで……本当にそれだけで、幸せを貰い過ぎたからどう返せばと、ずっと悩んでいたんですよ。 どうにか腕から落とさないようにしながら、父が用意していた衣服やらおむつやらを風呂敷に纏めた。──この人達は、養父の献身と成果を理解しない。理解しない儘育てたところで、愛がないのは見えている。 ──家を出ます。当てはもう、お養父さんと二人で用意してありますから。……さようなら。 下駄を履いて夜の道に出てさえ、父母は追って来なかった──これから二人で生きてゆく。本当は三人だけれど、当座は二人で。 幾らか歩いたところで立ち止まり、ようやく泣くことが出来た。──自分達を亡ぼした人間を憎むのは解らないでもない。だが、人間にない力を振り翳していいようにするのは、かつて人間がこちら側にしていたことと同じだ。そして、生まれるはずのなかった生命がこの先存在し続けることも、その生命を愛することも、きっと間違っている。みんながみんな、間違って仕舞った。 泣き続ける頬に、小さな手が触れた。懸命に伸ばす手は涙を追っているのか、拭おうとしているのか。ありがとう、と言おうとして、初めて赤子と目が合った。 深い青色の瞳が、ぱちりと輝いてこちらを見上げていた。 ああ、狡い。ずるい人だ、お養父さん、あなたは。 養父はきっとこれも見越していた。父母が赤子を愛さないこと、触れないこと、だから瞳の色さえ確認しないこと。 名前は何にしようか、泣きながら赤子に問う。何が面白かったのか、赤子は笑った。よく知った青い瞳を揺らしながら、笑った。 この子を僕が育ててゆく。父母の実子であるはずの、認められなかったただ一人の妹を。それが養父に対する贖罪であり、父母に対する復讐だ。 あれから何十年経ったろうか。妹はそれは美しい女性へと成長した。父母は変わらず僕達を迎えるどころか捜すこともしていない。人間に恐怖したか憎悪したか──いずれにせよ、意固地は損だと気づかぬようだ。 | |