彼は、祈るように、戴きます、と言う。 形式的なそれと違い──その一言さえ発さずに、かつては生き物であったものを口に詰め込む人の多い現代にあって、美しいとまで思える所作で以て、戴きます、と言うのだ。まるで、かつて生き物であったものが今なおその儘息づいているのだと信じているかのように。被捕食者に対する、無垢で無慈悲な幸福への宣告。 彼が会社に派遣社員として働き始めて三か月が経った。 三か月、と数えているのは、彼があまりにも出来た人であったからだ。 見た目は珍しく左目蓋の上と左耳に傷があるがそんなことは些末、もっと言えばその瑕疵こそ魅力に見える、一昔前の俳優のように整っている。勿論容姿採用などあるはずもない現代で、仕事も丁寧にそつなくこなす上、時に腹が立つほど愛想笑いが絶妙に上手であった。 派遣元が別であれ同じ立場にある私は、彼とはデスクが近いこともあって、自分よりずっと手際がいいのを日毎に思い知らされていた。フォローをして貰ったことも何度かあり、噂に依ると正社員同士、さらには得意先と揉めた社員の間にするりと入り込んでは円満に解決してしまうこともあったと聞く。正社を前に出しゃばりすぎませんか、と──その頃はすべてを円滑に行う彼を嫉んでいた──嫌味を隠さずに言ったところ、悪役が得意なので、そう笑んだ彼はやはり本心を見せなかった。ここで私は、彼を嫉むことが愚かであると思い知ったのであった。 「食堂、使ってもいいと思いますよ?」 或る日の昼休憩のことだ。デスクに残って食事を摂ろうとする彼に、同じく自分のデスクの上にコンビニで買っておいたサンドウィッチやらミルクティーやらを広げながら訊いてみた。私の問いに興味があったのか、それとも普段から彼が自身のことを一切話さないからか、部屋に残った数人が彼と私とに視線を向けたのが解った。 以前、彼が或る正社員から値のつかぬ骨董のような嫌味を投げ掛けられたことがあった。やれ社員でもないんだから社員食堂を使う権利はない、暇な時にだけ来て定時で帰るのは実に羨ましい、それだけの仕事で大した給料を掻っ攫うとは随分といい御身分、等々。これらはかつて私もちくちく言われたことだ。しかし、この態度が人事に行ったのか彼の派遣元が訴えを起こしたかは解らないが、その社員はいつの間にか消えていた。私達派遣はもとより鼻持ちならなかった正社員も、姿を消した社員一人に溜飲を下げたようだった。 そんなことがあった為、私達派遣はそれまで何となく遠慮していた社員食堂を何の臆面もなく使うことが出来るようになったわけだが、発端の彼はいつもデスクでひとり、どうやら手作りのお弁当を食べている。ずっとここは窮屈でしょう、今回は嫌味でも何でもなく訊くと、彼は箸を手に取った儘にこちらを見、あんまり見られたくないんですよ、と答えた。 「弁当の中身、見られるのが苦手で。なにぶん不出来なものでして」 「ご自分で作ってらっしゃるんですか? 凄いですね」 「僕は独り身なので、一応」 「え、おひとりなんですか? 私てっきり……ああ、すみません。セクハラになっちゃいますよねこういうの」 「構いませんよ。 「へえ」 三十路前後の独身で非正規雇用、訳あり物件というわけか──内心で自分を棚に上げつつ相槌を打った、すなわち周囲の興味が一段落したところで、彼は、目の前にあるのだろうお弁当に、箸を持った儘手を合わせた。──そして。 「戴きます」 今日も今日とて、祈りを捧げるのだった。 | |