「そろそろ肚括ってくれませんか」 生まれたその瞬間から出会った彼と暮らして十五年超、彼が自ら義務を負った教育期間が終わり、保護は兎も角庇護されるほどの子供ではなくなった。今までの時間のほとんどを、人の枠を壊してほしい受け容れてほしい、共にずっと生きていてほしい、幾度と繰り返して来た。最初は冗談とあしらっていた彼であったが、段々と顔を顰めることが増え、聞き流されることも、稀ではあったがいい加減にしろと声を荒げることもあった。それでも挫けることなく、この人のことだいつか折れてくれるだろうと、義理の息子にさえ裏のない優しさを疑る彼を、それは大切に守って来ていた。 灯りを落とした部屋、彼が床に就くところに乗り上げ、逃れられないように片手を掴み、藻掻けないよう脚も自分のそれで挟んだ。こういった、未遂、みたいなことは数回行っていた為か、彼はあまり驚きもしなかった。じ、とこちらを見上げて来る。 「……諦めが悪いなあ、お前も」 「育ての親に似たのかもしれませんね」 「そうかい。是非とも親の顔を見てみたいもんだ」 「逃げるな。話を逸らさないでください」 「逃げる気なんてあったら、今頃俺の膝はお前の鳩尾に突っ込んでるよ」 そうは言いながらも彼は表情も身体も動かすことはない。僕の心臓の早鐘がどくどくと速まっているのに気づいているのか否か──少なくともここまで彼の自由を奪ったのは初めてである。呼吸が近い。目の前には酷く明瞭な現実がある癖に、頭の後ろ側がぼんやりとしている。僕は今いったいどんな顔をしているのだろう──脳内を読まれたか、ここまでして情けねえツラすんなよ、とほんの少し目を細めた。 「それで? お前はどうしたい」 「どう、したい……とは」 「俺を犯したいのか? 俺を生かしたいのか?」 「それ、は」 「逃げるなと言った口で言い淀むんじゃねえ。まったく、強欲な子に育ったもんだ」 言葉に詰まった隙を逃さなかった彼は、掴まずにいた片手を難儀そうに持ち上げ、どうせ両方なんだろ、と頬を撫でて来た。ひやりとしているその温度で、いかに自分の顔が紅潮しているのを思い知らされる。 「……唐突に大胆になりましたね」 「人のこと言えた立場か? お前はどうせ、『邪魔者』の姿が見えないから事に及んだんだろ」 「まあ、有難いことに長らく出掛けているようで」 「そんな時にお前は、俺の人生を自分の手で歪めようとさせているわけだ」 「……。だっ、て」 「こら止せ。男前が台無しだぞ」 言葉の綾であろうと、気を配り褒めてくれるのが嬉しくなかったことなどない。いつだって胸が苦しくなるし目頭が熱くなる。ぐ、と眉間に力を込めて涙を抑える。頬に触れていた手は目蓋の上を指先で撫でた。 「なあ。我が儘な子にお願いなんだがな、俺の我が儘も一つ聞いちゃくれねえか」 「出来ることなら何でも。あなたの死を奪うんですから」 「そうか。ありがとうな、偉い偉い」 「……具体的には?」 訊くと、彼は手を下ろして少しだけ目を伏せた。 「取り敢えず、俺がお前の血を呑んで不老だか不死だか両方だかになるのは決まってるんだよな?」 「まあ、はい。そうなりますね」 「だったら、人間としての感覚を完全に忘れっちまう前に、食っておきたいもんがあるんだよ。ある意味最後の晩餐になるかもな」 え、思わず声が出た。想定外の、何とも凡庸な我が儘だったがゆえだ。特に好物のない、何でも食べる手合いの彼がそう望むのもまた想定外だ。単純に考えれば、早くて明日の朝食をもって彼はこちらにやって来る。何を食べたいんです、そう訊くと、彼は再びこちらを見上げて少し笑った。 「外国に、変わった料理があってな」 「……外国ですか」 「露骨にがっかりするんじゃねえよ。何、自分で作れる程度の代物だ」 「僕も食べたことあります?」 「少なくとも俺は食べさせた覚えはないな」 そう言った彼は、先程目蓋の上を撫でていた指が、覆い被さった儘の僕の腹のあたりを優しく押した。 「胃袋の中に、内臓を挽いたものを混ぜて詰め込んで蒸すんだ」 ──指は、胃のあたりを差している。 「中身の一つは、肝臓」 指が少し上る。肝臓の上。 「それから、肺」 指はさらに上り、左右にすい、と動く。両の肺の上。 「あとは、心臓だ」 肺の間、胸の真ん中に指が辿り着く。──心臓の上だ。 「全部挽いてミンチにして、胃袋に詰めて蒸して食う。これが酒に合うんだよ」 「……あ、あの」 「ん? あー、手足と脳味噌が残るよな。内臓と同じように挽いて混ぜてもいいし、残った腸を洗って肉詰めにしてもいい。辛子が切れたから買わねえと」 「……それ、は、その肉は、僕だなんて言いませんよね?」 人ひとり布団に貼りつけておいて、怖気が走った。先程とは違う意味合いで心臓が強く打ち続けている。生まれたその瞬間から出会った彼だからこそ、ずっと見て来た。見ていたからこそ好きになった。好きになったからこそ縛ろうと思った。それがどうして、彼の口からこんなことを聞く破目になったのだ。 「血をちょいとひと舐めだなんて勿体ねえだろうが。肉ごと全部貰ってやるよ。こちとら ──折れたんじゃない。壊れたんだ。 初めて彼から──彼の恐ろしさのあまりに、仰け反って身体を起こした。掴んでいた手は振り解き、呼吸が乱れ、背中に汗が浮いてだらりと垂れるのを自覚しながら、なお身体は彼から逃げようとしている。一部始終を見つめ続ける彼の目は、興醒め、と語っていた。 「何だよ。お前が言い聞かせ続けて来たから、俺も考えて考えて譲歩したのに」 「譲歩……だって?」 人の枠を壊してほしい。受け容れてほしい。共にずっと生きていてほしい──顧みれば、これを十年以上語り聞かせて、いつの間にか彼は明確に拒まないようになっていた。果たしていつからなのか、どうしても思い出せない。彼の言うところの我が儘が、日常に溶け込み過ぎてしまった所為か。 彼は、答えを出したのだ。人の枠を壊し、受け容れ、共にずっと生きる。その為に──奪う側に回ったのだ。 傲りだった。どうして僕などが、世界一愛している人に対して優位であると、考えるまでもなく妄信していたのだろう。血を呑ませればすべて丸く収まるだろうと、そうだ、茶や酒に混ぜてやろうとも、煙草の吸い口に染み込ませようとしたこともある。いつからか彼の意思を裏切り、尊厳を無視するどころか踏み躙っていた。 なら、折れたどころか壊れたんでもない。僕が、僕こそが、壊したんじゃないか! 「……ご、ごめん、なさい。ごめんなさい、……ごめんなさい、お義父さん」 「おいおいどうした、謝るくらいなら馬鹿なことするなって教えただろ」 「だって、僕……僕、は」 「……。本当に、親の顔が見てえよなあ」 ぼたぼたと涙とともにこぼす謝罪の言葉は、今更彼には届かないだろう。結局彼から見ればまだまだ子供、まさに子供の癇癪とばかりに醜態を撒き散らかして、思わず頭を抱えて蹲った。そんな子供の頭に手を伸べ撫でる感触は、やはり愛おしい。愛おしい、のだが。 ──……ああ、そうか。 「あ──あなた、と、一緒にいる為には、僕も壊れればいい、んですね……?」 なんだ、簡単なことじゃないか。おんなじ世界にいる為には、おんなじところに立てばいい。 希望があっという間に見えた。落涙しながらも顔を上げ、彼に向けて笑う。対し彼はぱちりと瞬き、やれやれ、と苦笑した。 「お前の親父はお前よりずっと潔かったぞ?」 そう言って、自身の胸から腹を慈しむように撫でた。 そうだ、父さんはいなかった。そして多分、出掛けてさえいない。目の前に、ずっと、ここに。嗚呼なんて羨ましい。またしても先を越されていただなんて。 「あの、明日金物屋さんに行きませんか? 刃毀れしてないとも限りませんし」 「砥ぎ直したほうがよく切れるだろ。ああ、でも鋸は買い替えたいな」 「じゃあ、明日はデートですね。……ああ、楽しみだ」 「何食うか考えとけよ。 そうしてようやく、彼の身体を抱き締めた。彼の両腕もまた、僕の背を包み込んでくれた。 僕は、もう離れたりなんてしない。僕は、やっと愛する人とおんなじところにいられるようになれるんだ! | |