Bless your Birth Day寄稿文 「お、本日の主役」 食堂に灯りを見つけ、喉を潤す一杯でも戴こうと扉を開けるや、並べられた卓を拭いている檀の姿が認められた。挨拶も前にそんなことを言われたが為、大きく嘆息した自分は看過されるべきだろう。言った檀当人もこちらの反応に察するものがあったらしく、お疲れさんまあ座れよ、何か用意するか、椅子を一脚引いてみせる。頼めるなら何でもいい、自分も驚くほど疲弊した声音に、檀は苦笑してクロス片手にキッチンへと向かった。済まない、椅子に掛けて抱えていた荷を隣の椅子に置けば、ごとん、重い音が座面を打った。 七月二十一日がそろそろ終わる。 日付が二十一日に切り替わった瞬間、悪い笑みを浮かべた酒の奴隷どもに引き摺り込まれたバー、横たわるペカン・パイを思わせる色味に磨かれたカウンターの机上、海面に落ちた血がひとところに集まらんと縮こまっているようなあのダイキリが、人数分のグラスに湛えられ――当然ながらバーに全員が収まるわけもなく、バーの内側から中庭まで広がった数十人が何十回目とも知れぬ、本来は迎えてはならぬ誕生日を祝う歌を叫ぶさまは何とも居た堪れない――浮かれ切った諸々の中面映さを誤魔化しながら味わった至上のお祭り騒ぎは三時に差し掛かるあたりでお開きとなった、とは勿論ゆかず、夜が明け就業時間を前に、助手のみならず潜書からも外される自由時間という名のプレゼントを甘受しようと足取り軽く踏み出すも、必ず誰かに引き留められては、過去何十回と迎えた誕生日の中でも掛けられなかった量の祝辞と大小の包みを押しつけられ、いずれも必ず、これからもよろしく、と未来を約束させられた。 「まったく――何を祝うことがある」 自ら絶った魂に向けて。 「しかし何というか、サンタクロースみたいだな」 キッチンで手作業をしながら、ふと声を掛けられる。――言われずとも、ここに来るまで何度か指摘されたり揶揄されたりしたことだ。 どこへゆくにも手渡される荷の量を見兼ねたのであろう、いかにも日本人斯く在りやとばかりの年若な年長者が、急拵えだし旧い敷布で作ったものだけど迷惑じゃなければ、あ、ちゃんと洗濯してあるよ、などと寄越したシーツを畳んで縫い合わせた大きな袋を、矢張り小箱を添えて差し出してくれた。経緯を語ると檀は得心したように、繕い物といえば徳田さんだな、気のつく人だ、と言う。 「俺がサンタクロースというなら、今日が所謂クリスマス休戦というやつになっていたら善いんだが」 「充分になってたよ。俺も揉め事に巻き込まれず平和に暮らせた口だ――ああ、誕生日の酒は呑み飽きたかもしれないが、休戦の酒はどうだ? 一応俺達は兵隊として生きてる身だろ」 「……まあ、悪くはないな。丁度好い、この中から見繕ってくれないか」 袋の口を開き、瓶の類が入っていよう包みや箱、剥き出しの酒瓶やらを机に並べ始めると、キッチンにいた檀は作業を止めてエプロンの裾で手を拭きながらテーブルのほうへ戻って来る。この国でプレゼントのラッピングを破るのはマナー違反なのだとスコット伝手で耳にしたし、フロシキに至っては開け方が解らない。好い機会とばかりに檀に頼み込むと、何度も念を押された末に心底居心地の悪そうに、しかし矢張り任せて善かったと思える手際で開封を始め――やがて、いずれも目にしたことのないラベルを纏った酒瓶、意匠を教え込まれた様々なグラスが素肌を晒した。 「全部この国の酒か。グラスも……見たことのないカッティングだ」 「あいつら良い物包んだもんだ。愛されてるな、アーネスト」 「只でさえ言葉で祝われて、その上お前の言い分が正しいのなら大した価値のものを……ここは一体どうなっている? 日本人は概してこんなものなのか?」 「皆が皆そうじゃねえよ、人の在りようは国なんか問わない。――もし迷惑じゃなかったら、俺に呑み方を任せてくれないか?」 「ストレートでやらないのか」 笑んだ檀は瓶をひとつ携えて、心配するな無駄遣いはしねえよ、キッチンへ戻ってゆく。思わず後を追い、カウンターを挟んで手許を観察するよう覗き込んだ。檀は少しこちらに視線を向けたのみで何も言わず、グラスを洗ってから冷蔵庫を漁る。多少は手伝おうとグラスをクロスで磨いていると、檀が炭酸水の入ったボトルとボウルにこんもりと盛られたハーブをシンクの横に置いた。一目で解るミントの山に、この先自分が何を味わえるのかすぐさま理解した。今日もバーで頂戴した代物。 「日本の酒をベースにモヒートか。面白い」 「お前の言った通りストレートでいくほうが善いかもしれないが、呑み慣れたふうに一手間入れてみるのも悪くないだろ。酒自体の癖が合わない場合もあるしな」 「道理だ。それは何がベースなんだ?」「そうだな――スイートポテトで通じるかな」 「……。無闇に疑うのは悪いと承知の上だが。旨い、んだろうな?」 「酒呑み共が厳選した逸品だぞ? 奴ら、こればっかりは間違えたことがない」 はあ、内心で異文化に辟易して嘆息するや、察するものがあったのか檀は、慣れようと構える必要はねえさ、苦笑しつつ言い、グラスにミントの葉を洗って其の儘グラスに放り込み、カットしたライムとシュガーも入れてマッシャーでざくざくと潰し混ぜ始めた。――唐突、郷愁に襲われた己を知る。更にアイスキューブをがらがらと溢れるほど投げ込み、今回はラムではなくスイートポテトの酒、最後に炭酸水をグラスから高くどぼどぼと注いで完成したモヒートは、味こそ解らぬものの、知っているモヒートだ、そう、郷愁の中に安堵を見つけた。 「これだ、これなんだ」 「うん?」 「こちらに来て呑んだモヒートは、それは勿論旨いんだがな、丹念に、丁寧に、繊細に作りすぎている。俺が知っているモヒートはこれだ。欲を言えば、十数杯のグラスをカウンターに並べて、次々材料を入れて一気に作るのが、俺は好い」 「確かに、こういった作り方はこっちじゃ珍しいほうかもな」 「ましてグラスを何十杯と並べて纏めて作ったり、呑む度一杯と金とを交換したりだなんてルールはないのだろうな。フロアに碌な椅子もなくて、タイルは荒くて、カウンターは艶もなくささくれて薄汚れていて、大人数が歌ったり、ギターを弾いたり――」 差し出された初めて見る、そしてあまりに見慣れたモヒートの水面に弾ける泡を眺め、現れた郷愁が生々しく人の形に変わってゆくのを噛み締めた。 「病の果てに自殺したアメ公のサインが自慢とばかりに飾られている店なんて、こちらにはないだろう」 ハリントン&リチャードソンで吹き飛ばした頭の残りがその儘どろりと身体中に垂れ染み込んだような、服とマント。こんな姿で一兵卒に生まれ直すとは、これがリスタート、新たに与えられたチャンスなどでは決してない、と誰ぞが愚かな自分に言い聞かせているような――何と酷く重くて窮屈な、外せぬ業苦よ。 「……祝われれば祝われるほど、未来の約束が増えるほど――戦うことに気後れする自分がどこかにいて、俺を視ている気がするんだ。確かに数多の戦い、ペンと剣とを両方構えてそこここへ身を投じたが、戦場で散ることもなく、病の自分に合わせた酒を作らせてまで生き延び、人々の献身や、己の少しの幸運を、纏めてショットガンで頭もろともぶち壊した。強き逞しき、を示す戦いに疲れ果てて、自ら死んだ……と、思ったら、このざまだ。手だけが綺麗な血塗れの魂に、いったい何の価値がある」 それともこの程度の価値に頼らなければならぬほど戦況は逼迫しているのか。戦場というわりにここは、そうだ、気味が悪いほど安穏、もっと言えば怠惰に見える。毎日がクリスマス休戦とでもいうような――総力戦の潰し合いのほうが、再び生きていることに緊張感という背凭れが出来る。決して、死にたいわけではないのだが。 「この国には、たった一文字違うだけで意味が正反対になる諺がある」 ふと檀が静かに呟いた。顔を上げると檀は口端だけ笑みながら、相伴に与っても、との問い掛けがあった。勿論のこと肯くと檀は、今一度モヒートを先程と同じ手順で作り始める。これは乾杯をするが礼儀だろう、と出来上がりを待つ間、頂戴したうち開け易そうな円い缶を手に取って開けた。中には猫の肉球の形や魚の形に刳り抜かれたクッキー、そして猫の輪郭の形に折られたオリガミに『お誕生日おめでとう』の文字――こんなところにも自分を思う、いとけぬ幸福が用意されている。 「俺はその諺二つを、生死とか、愛憎とか、禍福とか、時には善悪と同じように考えてる。――俺の友の一人は精神を病んで三十八で自殺したが、俺は長々と、病院のベッドで苦しんで六十三で死んだ。自ら短く切っても時間に頼って長く切らせても、生命の糸は必ず切れる。いずれも結局、根幹や終末は同じだったりするんだ」 「そうだろうか」 「件のサンタクロースは言っちまえば嘘だろ? 大人は子供を騙して、子供を幸せにする。その幸せで、嘘を吐いた大人も幸せを感じる。更には大人の中にも、サンタクロースがいたら好いのにと願う者もいる。もしサンタクロースが本当にいるとしたら、身を粉にして働いて、自分を信じてくれて、それを幸せだと思ってたりするんだろう」 「……赤は血の色だが、身体の外に流れているか身体の中を流れているかの違い、ということか。血糊と血潮、のような」 「ああ、好い喩えだ」 「二極化した根本は一本……そうかもしれないし、当たり前のことなのだろうか」 欺瞞である。 しかし、そう在ってほしいと思う自分は恐らく既に、幸福で在るのだ。 幸福で在るから欺瞞だと感じるのかもしれないが――今はまだ、そこについて懊悩に暮れる時ではないのかもしれぬ。サンタクロースでも何でもない自分に次々とプレゼントを渡す面々の顔色は、いずれも喜色に満ちていた。いたずらに過去の赤い絶望に縛られるを義務だと噛み締める、在らねばならぬ姿勢を律するはつまり、在らなくとも善い姿勢ということでもある――許されてほしい、ようようその考えへと辿り着いた己の薄鈍さがあまりに滑稽で、檀が意を量り兼ねているのをよそに、くつくつと笑った。ここまで笑えたのは随分と久しい。 「アーネスト? に、加えてダンもいるじゃねえか」 開け放した儘であった扉から、突然スコットが顔を覗かせた。おう、応える檀は歓迎の様子、まあ今なら構わないかと、丁度好いお前も来い、と呼んでやる。やおら嬉しそうな顔をみせたスコットは足取り軽くこちらへ駆け寄った。件のモヒートについて勧める檀と興味津々のスコットを見、檀と檀が語った友人、そして自分とスコット、かねてより思っていた以上にそれぞれ似通った部分があるかもしれない、と考える。先に破滅した手の掛かる友を持つ、長ったらしく生きた――これもまた、根幹の同じ枝分かれか。 「何だよ、俺もこいつとこういう出会い方がしたかったぜ。初めて呑んだ時頭と胃がシェイクされた儘ダウンしちまったんだよな――チェイサーの所為もあって悪酔いしちまった」 「チェイサーを大人しく水にしなかったからだろう。スコット、お前はな」 「怒るなって。水だと思ったんだよ、こう――厚いガラスのタンブラー、いや、カップか? それから日本の変わった面白い酒、って勧められたのがクレイジーの一言だった。シードルみたいな色で、矢鱈と甘くて」 「……工業用アルコールの親戚に加えて味醂まで呑ませたか。誰が勧めたか教えてくれスコット、俺がしっかり言い聞かせに行って来る」 「Wait wait、暴力は止してくれよダン」 「確かに人の在りようは国を問わず、だな。被害を免れた俺は運が好かったのか」 今は――どうか許してほしい。新たなる、古びた日常を。 檀がスコットの為の三杯目を作り終えたのを見計らって、クッキーの詰められた缶を手にカウンターへ戻り、戴いても良いか、訊くと檀は笑って肯き、スコットもまた、今日はついてるぜ、と目を輝かせる。三者揃っててグラスを掲げた。一口啜るや、ラムとは違う風味が、ミントの馨と縒り合わされて円く口腔に染み渡り、上顎に炭酸が弾けた。スコットが心底驚いたようにFor real、笑い含みに声を上げ、二口三口と呑み勧める。自分もこれは見事、唸って檀へ肯いてみせた。ひとつのようでふたつの味が、矢張りひとつのものに完結しているのが何とも面白い――口に合って何よりだ、檀は眉尻を下げて笑み、同様にグラスを呷った。 「ああ、日付が替わったかな」 ふと、時計を確認したかスコットが呟く。次いで、パーティーはこれからだぜアーネスト、などと宣った。 「もう呑まれたのか? 檀、こいつに水を」 「おいおい馬鹿言うなよ。俺らの国じゃあまだ誕生日の範囲の時間だろ?」 「そ――れ、は、そうだろうが。郷に入ってはと言ってだな」 「良いんじゃねえか? スコット、お前これを狙ってアーネストを捜してたんだろ? ここに寄ったのも酒の肴を探しついでだな」 「No Way……アンタもなかなかに食えねえな。どっかの誰かを思い出しちまうぜ」 「もしその誰かが今お前の隣にいるサンタクロースみたいな男だというなら、檀、スコットの手のグラスをそいつに渡してやってくれ」 「What the hell! 止せよ二人とも、三人とはいえパーティーの真っ只中だろ? 頼むぜ親友!」 良く知る、且つ初めて知る味のモヒートを今一度味わい、折角頂戴したクッキーも口にする。予想と違いスパイスの効いた、酒呑みには有難い味がほろりと崩れた。こんな量の酒と肴、当面は晩酌に困らない――揃いも揃ってことごとく優しい、お前達は本当に何なんだ、笑い含みに呟くと、そうでもないぜ、と檀が言う。 「スコットの受難もあるし、ああ、さっきの諺の話に戻るんだけどよ」 「たった一文字違うだけ、というやつか。そういえば聞いていなかったな」 「何の話だ? 俺にも教えてくれよ」 ――成程。奴ら、解っていてやりやがった。 酒は百『薬』の長。 酒は百『毒』の長。 意味を理解したのは翌日。 毒を盛られたのは初めてだ、さてそれならお前達が困惑するほど生きてやろうじゃないか、安穏と怠惰に、長ったらしく――辞書を開いた儘ふ、と笑うと、昨日自分をサンタクロースに仕上げた徳田という男が、まだ酔ってるのかい、失礼なことを案ずる表情で宣った。心配というものが裏に在るのが気取られれば尚更、生きていて良い、という当たり前の幸福に、笑いを堪えられぬわけもなかった。 ――七月二十一日がようやく、終わる。次の七月二十一日を心待ちにしながら。 | |