#ブンゴーキッチン投稿文 泉鏡花は厨房の扉を開けるや否や何とも形容し難い悲鳴を上げた。突如耳を劈いた声に驚いたのは彼の弟弟子、あわや両手に携えた盆を床に落しそうになるのを如何にか堪え、ほ、ッと一息吐いてから、開扉の儘につかつかと左右の足裏を床に叩きつけ乍近づいて来る兄弟子に顔色をげんなりと変え、何だよ鏡花、今度はあからさまに鬱陶しいといったふうの溜息を吐く。対し兄弟子も其れ位の態度はとうに慣れ切ってゐた為、貴方何をしてゐるのですか秋声、意にも介さず弟弟子へ詰め寄った。弟弟子は其の勢いにやゝ気圧されそうになり乍も、見ての通りだけど文句ある、そう返した。 「文句? ありますよ其れは大いに! 抑々別件で貴方を訪ねたのですがたった今もう一件問題が増えましたよ!」 「何なんだよ……僕には菓子の一つ作るにも華やかさが足りないとでも云うの?」 「……流石に其処迄は云いません。ですが、此れは何ですか! 貴方は食べ物で遊ぶような男ではないと思ってゐましたが?」 「別に遊んゐでる積りは、」 「百歩譲って神経質な僕の為に熱処理の工程を加えたとしましょう。さりとて理解に及ばない!」 「……鏡花。」 弟弟子は携えてゐた四角い鉄の盆を作業台に置き、焦燥驚愕混乱を掻き混ぜて激怒という感情を作り上げた──其の顔色から思うに、まるで 天火に使う天板の上に敷かれたパラフィン紙、其の上に等間隔で並ぶ大きさ一 「あのさ、此れから説明するけど、先ず落ち着いて、怒らないで聞いて呉れ。……慥かに勘違いする君の気持ちも解るよ。──其れを、踏えて。」 「……仕方ないですね、聞きましょう。」 「君、少し前に夏目先生や梶井君達と焼菓子を作ってゐただろ?」 「あゝ、元はと云えば其れについて貴方の許へ来たんですよ僕は。今は追及を我慢しますが。」 「有難い。で、此れなんだけど。」 云って弟弟子は視線を下げることで弟弟子の其れも作業台の上へ促した。 「君、多分勘違いしてる。此れは全部、生クリイムぢゃないよ。そう見えるのも已むなしとは僕自身も思うけど。」 「……。は、」 「卵の白身を粉砂糖と一緒に掻き混ぜて固く泡立てたんだ。此れを今から焼く。」 「……卵と、砂糖?」 「端折って仕舞えば、卵と砂糖を混ぜて焼くだけの、材料も工程も少ない焼菓子だ。生ものぢゃあない。君の為にクリイムを焼こうとしてる訳でも食べ物で遊んでゐる訳でもない。名前はメレンゲ、と聞いたよ。」 「──。……僕の無知と誤解と早合点が露見した、という処迄は理解しました。」 「慥かに識らなければ誤解はするだろうさ──あゝそろそろ此れを天火に入れたいんだけど良い? 時間が経つと形が崩れるらしいんだ。」 「……あ、えゝ、どうぞ。」 うん、肯いた弟弟子は改めて鉄の盆を持ち上げ、天火の扉を開けて慎重に中へ二枚共仕舞い込んで閉扉、時間等を調整してから稼働の 「そろそろ、僕の話をしても?」 「あゝ、うん。焼き上がる迄まだ時間があるし、其の為に僕の処に来たんだったね。」 互いに一区切りついた処で、連れ立って食堂の円卓に着いた。温かい紅茶が 「罐?」 「以前に何方かゞ紅葉先生にと贈った物があったでしょう。淵が群青で真ん中に水彩風の花の絵がある、焼菓子の詰め合せが入ってゐた円くて平たい罐。」 「あゝ。あれなら僕が、」 「其れですよ秋声。先程の会話で自ら証明して呉れましたが、僕が夏目先生達と焼菓子を作ったのを記憶してゐますね?」 「……。あっ、」 兄弟子の指摘から漸く悟ったか、弟弟子はぎくりと顔を強張らせて肩をびくつかせた。得たり、此れ以上叱責する積りはないが、云いたいことは云える時に総て云い尽そうと、兄弟子は紅茶で喉を潤してから滔々と語る。 「僕はあれを使う積りだったんですよ、残りの焼菓子の保管の為に。記憶に拠れば 「……あゝ、其れ、は──ごめん、なさい。」 はぁあ、大きな嘆息が紅茶の馨を中空へ融かした。弟弟子は面目ないと縮こまり、其れでゐて兄弟子が淹れた紅茶を啜る。そんなさまを見──兄弟子は、一つの可能性を察した。 「──成程、解りました。僕ではなく紅葉先生に頼みましたね? 裁縫函に丁度良いからと。」 「二つ返事だったんだよ。……僕が。」 「……先生から頂いたのですか。こう、なると──僕の怒りのぶつけ処が一つもありませんね……。」 やおら肩を落として紅茶を呷る兄弟子を前に、困惑した弟弟子は暫し黙し、鏡花の作ったお菓子美味しかったよ、と云う。今更機嫌を取る気か、兄弟子の頭にちらりと掠めた思いは然し、直ぐさま消し去られる。 「何種類あったっけ。作るの大変だったろう。」 「僕を導いて下さったお二人が居ましたし、其れ程でも。」 「だとしても、僕なんかには到底無理だと思う。今作ってるのだって、」 「疲労の度合など競るものではありませんよ。」 「……あれは、然程の気配りも要らないんだ。」 弟弟子が働き続ける 「此処に喚ばれて毎日毎日弓弾いて、図らずも鍛えられて仕舞った腕で、卵に砂糖一匙を加えては泡立てを只管繰り返して絞り出しただけ。単純で地味な作業だろ? 繕い物と同ぢで、無心になれるんだ。誰かへのお礼に、だなんて微塵も考えちゃゐない。鏡花と違って手間暇惜しまず心を砕いて何かを拵えるなんて、器用な芸当が出来る訳がないんだ。」 「……貴方、昨日の侵蝕が未だ残ってゐるのでは?」 「明方迄補修室に居坐って奇麗さっぱり直したよ。」 「だからといって、そんな云い方をするものでは、」 「……。でも君がそう思い込んでいて呉れるのなら、僕は──、」 弟弟子が云い差した処で、天火が焼上がりの旨を告げる音が響いた。あゝもうか、一時間って意外と早いな、逃げるように席を立つ背に然し、兄弟子も無言の儘に倣った。天火に近づく毎に、甘い匂いが濃くなってゆく。 ──既視感。もしや。 「秋声。」 「何だよ。僕は天板を冷やさなきゃいけないんだ。其れから余った卵の黄身を酒呑み共の為に醤油漬けに、」 「此れ、何分間焼きました?」 「……五十分から一時間を見てゐたけど、鏡花と話し込んだ所為で結局、一時間焼いちゃったね。」 「僕が作った物は十分から二十分位でしたよ。」 「手間は多かっただろうし、焼く迄が長かったんぢゃないの。」 「天火は何度に熱しました?」 「……。百度、ぴったり。」 「僕は百八十度でした。炙る必要もないと思いましたよ。」 「其れでも一応って炙ってただろ。」 「百度で一時間も焼かれた卵白、炙る必要あるでしょうか?」 「識らないよ、僕は鏡花ぢゃないんだから。」 段々と返答が面倒臭そうになって来たとみえる弟弟子は、頑なに振り返ろうとしない。──そう、兄弟子は昨日集まった面子で又しても焼菓子を作った。茶請けや酒の肴にされ、幸運にも少し残った物を取っておこうと思ったのだ。あの、師の貰い受けた群青の円い罐の中に──だが、朝になってみれば肝腎の罐はおろか菓子さえ失くなってゐた。誰かが食べたのだ。作り手の与り知らぬ時間帯、例えば皆が寝静まった後に漸く補修室から出て来た者が。 「秋声。此の菓子、メレンゲといゝましたか。先程貴方も触れましたが、正しくケエキに乗ってゐる生クリイムを髣髴とさせる形をしてゐますね。」 「そりゃあ、ケエキも絞り袋でクリイムを飾るし。」 「僕が此処に来た時の勘違いと繋がりますが、生クリイムは炙れないので僕は何時も遠慮してゐます。当然識ってゐますね。」 「……鏡花、」 「ところで貴方、昨日何時頃に補修室を出ました?」 其処迄突いてやると漸く弟弟子がばっ、と振り返る。其の顔が羞恥に赤く染まってゐるのは見ずとも解る勢いであった。 「嗚呼もうそうだよ、僕が食べたよ! 食べました! 仕方ないだろ、お腹空いてたし皆寝ちゃってるし、残ってたから!」 「湿気てませんでした?」 「さくさくで美味しかったよ! ほら其れ冷めたら好きなだけ食べていゝから! 味こそ違うけど君が食べられないケエキのクリイムに形が似てゐるだろ、炙るなり何なり好きにしていゝからさ、もういゝだろ!?」 「漸く口を割ったと思えば全く喧しい……其れでは、お言葉に甘えましょうか。」 喧しい分、礼は慥かに伝わった。此れでお返しを無碍にするのは巧くない。未だほんのり温かいメレンゲ一粒を拾い上げ、頂きます、口へ運んだ。炙る準備さえ忘れたのは、らしからず浮れてゐたのだろう。さくり、食感は自分の作った物に比べてかなり軽く、卵と砂糖、と云ってゐた割には甘味が濃くはない。ふ、思わず笑みが零れた兄弟子を見、莫迦にするならお手柔らかに頼むよ、などと悪態を吐く。此れは素直に褒めては彼の立場が失くなると察し、そうですね悪くはないのでは、と云うに留め、もう二個を順に味わう。弟弟子の顔にみるみる安堵が訪れた。 「貴方、此れを保存する容れ物は?」 「……僕が裁縫函にした物しか。」 「では仕方ありません、購いに行きますよ。」 「今から? 放っておいたら食べられるだろ、此処は甘味を好む人が多い。」 「察しの悪い人ですね貴方。今度は僕が貴方に馳走するから材料の調達も兼ねてゞすよ。貴方の菓子と僕の菓子を詰めて先生に贈るんです。」 「そんなのちゃんと云って呉れなきゃ解らないってば……。」 まあ又泣き乍殴られない程度には作ってみるよ、そう云って取り急ぎメレンゲを皿に移した弟弟子に兄弟子は、言質取りましたからね、珍しく得意気に笑って、盗み食いを防ぐ為に弟弟子の部屋、群青の円い罐の上に覆いを被せて置いてから、揃って街へ繰り出した。道中、クッキーの抜型に紅葉の形をした物はないものかだの、食紅を駆使して紅葉色のメレンゲは出来ないかだの、焼菓子の話題に花を咲かせた所為で、購物にしては酷く時間を要して仕舞った──畢竟帰宅の頃には、弟子二人の部屋は我が物と軽々に行動する師によって、弟弟子が初めて手掛けた焼菓子はすっかり師と其の友らの胃に収まってゐた。こうなって仕舞えば、弟弟子は口を噤み、兄弟子は複雑に微笑むしか敵わないのだった。 | |